時刻は午後2時を少し過ぎた頃。
自分以外出払ってしまって誰も居ない、ライブラの事務所。
ふわふわの生地と、周りにかかった砂糖のグレーズ。
甘い甘い匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、うっとり。
口の中で蕩けるそれを想像して、今まさに齧り付こうとしたその、瞬間。
「おや、なまえ。おやつの時間か?」
不意に開いた事務所の入口からは、私にとって最悪のタイミングで帰って来たスティーブンさん。
大口を開けてドーナツに齧り付こうとした瞬間の私は、そのままでばっちりと目が合ってしまう。
一拍、遅れてやってくるのは壮大な羞恥心だ。
「あ、いや、これはえっと、今日はお昼を食べ損ねてしまいまして、それで、あの・・・!」
慌ててドーナツを皿の上に戻して口元を手で覆い、必死に言い訳を並べ連ねる。
そんな私に苦笑しながら、スティーブンさんは自分のマグカップにコーヒーを淹れて、そして独特の靴音を響かせながら私の座るソファの隣へ腰を下ろした。
まるでそれが当たり前の定位置の様に距離を詰められてしまって、今更どうしようもなくなってしまう。
「食べないのかい?昼食を食べてないなら、お腹空いてるだろう」
皿の上のドーナツを指差しながら、スティーブンさんが言う。
私はさっきまで手にしていたあの甘い誘惑を思い出して、けれどダメだダメだと首を振った。
さすがの私だって、大口開けてドーナツ頬張ってる所を異性、ましてや好きな人、更に言うなら最近想いの通じた恋人、の前では見せられない。
かと言って、このままでは腹の虫が騒ぎ出すのも時間の問題だ。
それはそれで恥ずかしい、ものすごく恥ずかしい。
ああ、私の大馬鹿!どうしてお昼ご飯を食べなかった!?
書類整理に勤しむ二時間前の私に、絶対後悔することになるからお昼ご飯はちゃんと食べなさいと、誰か伝えて欲しい。
「なまえ?」
不意に隣からスティーブンさんに顔を覗き込まれて、その距離の近さに改めて息が止まりそうになる。
「わ、私もコーヒー淹れようかなー、と思ってた所でして!」
「ああ、それなら俺のを飲むといい。これがポットの中にある最後の一杯分だったからね」
ことり、目の前のテーブルに置かれるマグカップ。
尤もらしい理由を付けてソファを離れようとすれば、私より数段上手で大人なスティーブンさんは、それさえも見越していたかの様にこうやって私を引き止めてしまう。
いとも、簡単に。
そうして中途半端に浮かせた腰を仕方なくもう一度ソファに戻して、私はスティーブンさんのマグカップと皿の上のドーナツを交互に見遣った。
ええいもう、どうにでもなれ。
私は意を決して、皿の上のドーナツに手を伸ばした。
「えっとじゃああの・・・私だけで申し訳ないんですが、いただきます」
「どうぞ」
何故かスティーブンさんの許可が出た所で、私は再びドーナツを自分の口元へ持ってくる。
ふわふわの生地と、周りにかかった砂糖のグレーズ。
甘い甘い匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、うっとり。
口の中で蕩けるそれを想像して、いつもより控えめに、一口。
想像したよりももっともっと幸せな甘さが、口の中に広がった。
幸せ、幸せだ。甘い物って本当に、幸せの塊だ。素晴らしい。
ぱくぱくとドーナツを口に運ぶ私を見ていたスティーブンさんが、ふと何かを思い付いたような表情を浮かべた。
目が合えばにこり、と微笑まれて、私はまた息が止まりそうになりながらも首を傾げてその意味を問うてみる。
「君が随分美味そうに食べるもんだから、少し気になってね。それは相当甘いのかな」
多分コーヒーをブラックで飲むスティーブンさんには大層甘く感じると思いますがこれが私の幸せなんです!
と、言いかけた言葉は続かなかった。
何故ならそれは、ドーナツを持った私の手首をスティーブンさんが捕まえて、そして私の手からドーナツをそのまま一口齧って。
更には、私の口の横に付いていたであろう砂糖をその長い指で拭って、あろうことかそれすらもその口へ運んで舐め取ってしまったからだ。
なんの淀みも迷いも無かった一連の動きに、私は呼吸も忘れて固まる。
「うわ、結構甘いな・・・よくそんなに平気で食べられるね、なまえ」
いや、と言うか、あなたこそよくそんな事平然とやってのけますよねスティーブンさん。
こういう所で本当に、経験値の差というのを否応なく実感してしまう。
この人には、勝てやしないんだ。
「なまえ?おーい、なまえ?」
スティーブンさんの声にはっと我に返って、そしてばっちりと目が合ってしまって。
意味深に細められる瞳に、私の顔は途端に火が出るほど赤く熱くなった。
そしてスティーブンさんは、テーブルの上のマグカップを手に取りながら更に爆弾を落とす。
「ああ・・・甘いのはドーナツの方じゃなかったか」
だから!どうして!そう言うことを!平気で!
もうここまで来ると私の脳内はあまりのパニックで、一周回って逆に何故か大人しくなってしまう。
ただ、思ったことを思ったままに口に出すだけの、ポンコツになるとも言う。
私は目に入ったスティーブンさんのコーヒー入りマグカップを、ぼんやりと見つめて。
恐ろしく迂闊で恐ろしく愚かな言葉をひとつ、紡ぎ出した。
「スティーブンさんのコーヒーは、苦いんですか?」
当然ブラックなんだから苦いに決まってるのに、だからポンコツなんだこの脳みそは。
それでも私より数段上手で大人のスティーブンさんは、そういう私の迂闊さを絶対に見逃さない。
そういう所はとても、狡い大人だ。
スティーブンさんは口元に浮かべていた笑みを濃くして、低い声で呟く。
「試してみるといい」
そう言ってマグカップに口を付けて、けれどその唇はすぐに私の唇へと向かって降って来た。
長い指が私の顎を捕まえて、逃がさない。
そうして、砂糖の甘さをかき消すように流れ込んでくる、苦い苦いブラックコーヒー。
私の手の中で、ドーナツの包み紙がくしゃりと、音を立てた。
こくん、と私の喉がコーヒーを飲み込んだのを確認して、スティーブンさんの唇がゆっくり離れていく。
「どう?苦いのはコーヒーだったかい?それとも」
耳元で囁かれる低い声に、私には大人の味なんて早すぎるんだと後悔するんだけど、それももう後の祭り。
シュガーキスとビターラバー
(甘くて苦くて目が回りそうです!)
年下の彼女を晴れて射止めたので浮かれ過ぎて飛ばし気味なスターフェイズ氏
何十万とネタかぶりしてそうなEDテーマイメージで