緊急案件を片付けてやっと戻って来たライブラの事務所、そこにはとても珍しい光景があった。
普段なら少年を揶揄うザップが何やら煩くしていて、それをチェインが踏み付けにくると言うまさに騒がしいそのものの事務所が今、静まり返っている。
誰も居ないのだろうか、と思った矢先、ソファには見慣れた銀色の頭があって。
ザップが静かだとは珍しい、居眠りでもしているのか。
そんな事を考えながらコーヒー片手に回り込んだソファの正面で、思わず口を開けて固まった。
退屈そうに新聞を捲るザップの隣、その肩に凭れるようにしてなまえがうたた寝をしていたからだ。
すうすうと小さな寝息を立てるなまえに気を使ってか、ザップは少々窮屈そうな体勢のままでこちらを見上げた。
「あ、お疲れ様っす」
「あ、ああ」
極力控えて出されたその声にも戸惑いながら、普段通りに返す。
それから、向かい側のソファへ腰を下ろした。
「・・・珍しいね」
長い睫毛を伏せたままで寝息を立てるなまえを見つめて言うと、ザップが肩に凭れる彼女を一瞥して「あー」と気の抜けた声を出した。
「昨日事務所で徹夜してたみたいで。ここ座るなり、ガキみてぇにおやすみ三秒」
なまえがうたた寝をしているのも勿論珍しかったのだが、それ以上にザップが彼女を気遣うその様子が珍しかった。
と言ったなら、目の前の銀髪はいつもの大声を出して騒ぐだろうか。
しばし思案した後、結局それは口に出さず代わりにコーヒーを一口。
それにしても、そうか。彼女は、なまえは、ザップには普通に懐いているんだな。
少なくとも、肩にその身を預けて眠れる位には無防備に。
ふと気付いてしまったその事実に、僅かばかりの苛立ちと困惑が渦巻いた。
「・・・ザップは、女性を誘うのに普段どうやってるんだ?」
「ハァ?スターフェイズさん喧嘩売ってんすか?」
何気なく口にした言葉に、ザップがばさりと新聞を投げ出して顔を顰める。
「アンタほどの人に聞かれても嫌味にしか聞こえねェんすけど」
「そうだよなぁ・・・俺だってまさか、お前みたいな度し難いクズにこんな事聞くほど落ちちゃいないと思っていたんだけどな」
「スターフェイズさん完全にオレに喧嘩売ってますよね?」
血気立つザップを無視して、コーヒーをもう一口。
ブラックのその苦さが喉を通った所で、仕方なく言葉を続けた。
「例えばサブウェイにランチ、例えばモルツォグァッツァでディナー、例えばヴェデット特製ローストビーフ。それで誘っても流されるって事は、完全に脈なしかな」
「いや、スターフェイズさんに誘われて断るとか、何処のバカっすか。ヘルサレムズロット中探しても居ないんじゃないすか、そんなバカ」
度し難いバカだな、と鼻で笑うザップに苦笑する。
まあ、何て言うか、ザップの言う「度し難いバカ」はすぐ近くに居るんだけれども。
所在無げにマグカップを再度持ち上げた所で、ザップが好奇心を隠しきれないという非常にムカつく顔でこちらを見ている事に気付いた。
なんだ、と、視線だけで問えば、にやにや顔が口を開く。
「いやぁ、スターフェイズさんがそこまで手こずるなんて相当大物じゃないすか。誰なんすか、その度し難いバカは」
ザップから視線だけを逸らして、三度コーヒーを一口。
それから数秒の沈黙をおいて、重い口を渋々開いた。
「・・・君の隣で君に凭れて寝てるよ、そんな大物は」
「・・・は?」
一度目の声は、言葉にならなかった息が抜けたようだった。
「はぁ・・・?」
二度目の声は、困惑の色に溢れていた。
「ハァ!?」
三度目の声は、ただただ驚愕に満ちていた。
事務所に響き渡ったザップの声に、その肩に凭れたなまえが僅か身じろぎをする。
それを目聡く見つけて、慌ててザップへ鋭い視線を飛ばす。
けれどザップはそれどころではないらしく、あんぐりと口を開けたまま呆然とこちらを見ていた。
「ザップ、酷い間抜け面だぞ」
「は、いや、てかマジすか・・・よりによってなまえっすか・・・」
「なんだ?ザップも狙ってたのか、もしかして」
「いや、それは絶対ねェんすけど、こんなちんちくりん。でもスターフェイズさん正気っすか?ちんちくりんすよ?こんな、身長も胸も尻も色気もないなまえっすよ?」
「ザップ、女性に対して失礼だ」
その言葉にいよいよ本当だと悟ったのか、ザップが再びあんぐりと口を開けて固まった。
それからはっとしたようにザップは肩に凭れているなまえを慎重にソファにそっと横たえて、自分は床に座り直す。
今更ながら、この話をザップにしたのは間違いだっただろうかと思い始める。
奴のことだ、これからこの事を散々引き摺ってあちこちでそれとなく出しては何かと強請るような事になるんじゃないか、とも。
迂闊だった自分を僅か呪いながらも、それでもザップが「絶対ねェ」と言ったその言葉と共に脳内のザップの顔に大きく×を刻んで、これで障害がひとつ減ったと何故か安堵した。
「いやー、しかしまぁ、アレっすね・・・」
「なんだ?」
ソファから床に座った事で必然的にザップを見下ろす形になって、この度し難いクズがまず手始めに何を強請るのかと冷たい瞳で見ていると、予想だにしない言葉が飛んできた。
「スターフェイズさんが本気だってんなら、オレは協力しますよ。出来る限りっすけど」
「・・・ザップ」
「なんすか?」
「何が望みだ?」
「ハァ!?人が折角善意で動いてやろうとしてんのにそういう事言うんすか!?」
「日頃の行いが悪すぎるんじゃないか」
「ハァァアアアッ!?」
ザップの叫びに、ソファの上のなまえが小さく呻いて顔を歪める。
そうして遂に、ゆっくりと彼女の瞼が持ち上げられて。
まどろみの淵から覚醒しながら、なまえが目を擦りつつ身体を起こした。
ぱちぱちと瞬きをしながら、向かいのソファの俺と床に座るザップを交互に見てふわりと笑う。
「なに、ザップ、またスターフェイズさんに怒られてたの?」
「ハァ!?違ェよ!」
だって床に座ってるから、と、笑う彼女に、ザップは事の理由を告げようとはしない。
ただただ困ったように頭を掻くザップを見ながら、すっかり冷め切ったコーヒーを口にする。
なるほど、これはもしかすると本当に。
ザップに打ち明けた事はあながち間違ってもいなかったんだろうか、とぼんやりする思考を止めたのは、なまえの声だった。
「あ、スターフェイズさん。コーヒー、お代わり要りますか?ポットの中にもう無いと思うので、私淹れて来ますよ」
寝起きのせいなのか、いつもより若干砕けた口調とほわほわとした笑顔を浮かべるなまえに、年甲斐もなく心臓が音を立てる。
それを悟られないように普段の笑顔を浮かべて、マグカップをなまえへ手渡した。
「お願いするよ」
はい、と答えたなまえの細い指が、僅か触れる。
名残惜しそうに伸ばされたままの手からマグカップを受け取って、なまえはそのまま給湯室へ向かってしまった。
不意に触れてしまったその指のあまりの細さと暖かさに、思わず自分の手を見つめたのも束の間。
いつの間にかソファに座り直したザップがにやにやと嫌な笑いで見てくるものだから、口元だけで笑顔を作って鋭い手刀をその頭に遠慮なく振り下ろす。
「イテェ!?」と声を上げるザップに、やはりこの決断は間違いだったんだろうかと頭を痛めた。
苦しいくらいがちょうどいい
(そうやって悩んで、最初から始めてみればいい)
ザップとは兄妹みたいな関係が好きです、なんだかんだ面倒見てくれるザップ
私は度し難いクズに夢を見過ぎている気もする