一生懸命机に向かっていた彼女が、背伸びをしながら立ち上がる。
纏めた書類を持って、そして上司の机へと向かって。

「クラウスさん、書類出来ました」

うむ、と頷いて受け渡される書類をぼんやりと見ながら、まあこれは普通だ、と考える。
尊敬している直属の上司を名前で呼ぶのは、分かる。
書類を渡し彼女はそのまま、クラウスへ報告を続ける。

「それからさっき連絡があって、チェインとK・Kは合流次第事務所に戻って来るそうです」

うむ、と再び頷くクラウスをぼんやりと見ながら、まあこれも妥当か、と考える。
仲の良い同性の同僚を名前で呼ぶのは、分かる。
クラウスに一礼をした彼女は踵を返して机に戻ると、そこにさりげなく置かれた紅茶のカップに顔を緩める。

「ありがとうございます、ギルベルトさん」

いいえ、そろそろ休憩になされては如何ですか?と提案する執事をぼんやりと見ながら、まあこれもありだろう、と考える。
日頃お世話になっている優秀な執事を名前で呼ぶのは、分かる。
紅茶のカップを持ち上げた彼女の机の上で、携帯端末が音を立てる。

「なまえです・・・もしもし?ザップ?え、レオ君!なに、どうしたの!ザップがなに!?ごめん、電波が!」

通話の途中で切れた端末を呆然と見つめる彼女をぼんやりと見ながら、この辺がおかしいな、と考える。
同僚だけど、異性。片や年上で、片や年下の。
しかも最近ライブラに加入した新入り君を名前で呼ぶのに、首を傾げる。
そして、何よりも。
彼女がこちらを向いて、不意にそれを音にする。

「スターフェイズさん」
「なんだい?ザップなら放っておいて構わないよ」

でも、と口篭った彼女は、けれど結局その続きを口にはせずに、再び椅子へと座り直した。
彼女、なまえ・みょうじはそんな人だった。
何故か決して頑なに、俺の名前だけをいつまでも呼ばない。
そして何故か頑なに、俺に必要以上に近寄ろうとしない。
嫌われているんだろうか、と考えてしまうのも無理はないんじゃないかと思う。
ここまで露骨にされて、そう考えない方がおかしい。
ただひとつ、今だに自分でも納得できない事が、ただひとつ。
それを、俺自身が何より気にしていると言う事。
普段であればこれだけ距離を置かれるとなるとこちらも察して、安易に近付こう等とは考えもしない。
それが彼女に対してだけは、どうしてもそれが出来なかった。
そうして堂々巡りのように、いつも彼女を、なまえを気にしてしまう。
どうしてなまえは、自分を避けるのか。
果たして本当に自分は、嫌われているのだろうか。
そうだとしたら一体、何が。
ぐるぐると頭を駆け巡る思考に眉間に皺が寄っているのを、ギルベルトにそれとなく指摘されて初めて気が付いたほどだった。










その日は処理する書類が溜まりに溜まっていて、その上緊急案件まで浮上したので、事務所内にはなまえがひとり残るはずだった。
けれど思ったよりも早く自分の対応していた案件が済んだので、スティーブン・A・スターフェイズは事務所に戻るとなまえの書類を手伝っていた。
時刻は昼時を過ぎて、しばらく。
書類にとりあえずの区切りが付いた所で、スティーブンは自分の机から立ち上がった。
すると不意に顔を上げたなまえと、目が合う。
ぱちり、と、瞬きをひとつ落として、彼女は首を傾げた。

「どうしました、スターフェイズさん?」

なまえの方から声を掛けられると言う思ってもみなかった事態に、スティーブンはらしくもなく内心で焦った。
だけどそれを億尾にも出さずに、彼はいつもの笑顔を彼女に向ける。

「いや、俺も君も昼飯を食べ損ねてるだろ?良かったら一緒にどうかな、駅前のサブウェイでも」

普段通りのスマートさで、かつ重くないようにファーストフードをチョイスすると言う機転を効かせて、スティーブンはなまえを昼食へ誘う事に成功した。
それなのに。
なまえはしばらく机の書類に埋もれて何かを考えるように瞬きをしていたかと思うと、すくりと立ち上がり。

「分かりました」

おや?今日はなんだかいつもと違うぞ!?なんだかいけそうだぞ!?いい感じだぞ!?
ポーカーフェイスの笑顔を崩さないまま心の中でガッツポーズをするスティーブンを見上げて、なまえは平然と言い放った。

「私、買って来ますね。スターフェイズさん、苦手な野菜とかありますか?」
「・・・は?」
「玉ねぎとか・・・私、どうしても生の玉ねぎがダメで、いつも抜いてもらうんですよ」

着々とひとり外に出る準備をするなまえの言葉を理解しきれずに、スティーブンは思わずぽかんとする。
そんな状態でも彼の脳にはちゃっかり、「なまえは生の玉ねぎが苦手」と言う情報だけは刻まれていたけれど。
そうこうしている内に準備の整ったなまえは、ひとりで事務所から出て行こうとしていた。

「そんな、君に買いに行かせるなんてつもりはないぞ!?」
「いえ、大丈夫です。スターフェイズさんは緊急案件も片付けて来ていてお疲れなのに、私の分までお手伝いして頂いたので」

これくらい、させてもらえませんか?
身長差で必然的に上目遣いになったなまえに、小首を傾げつつそう言われてしまってはもう、断る術もない。
そうして意気揚々となまえが出て行った後の事務所には、スティーブン・A・スターフェイズの長い溜息だけが残された。













スティーブンに手伝って貰ったにも関わらず、結局山ほど積まれた書類をなまえが全て処理し終わった時には、とっくに陽は沈んでいた。
伸びをしながら立ち上がって見遣った時計は、既に22時を回っていて。
薄暗い事務所の戸締りと火の元を確認していると、背後から急に声が降って湧いた。

「お疲れ様」
「び、っくりした・・・」

思わず肩を跳ね上げて振り向けば、そこには長身の伊達男。
ごめんごめん、驚かすつもりはなかったんだけど。と、苦笑するスティーブンを見上げて、なまえが首を傾げる。

「スターフェイズさん、先に帰られませんでした?」
「うん、一度家には帰ったけどね。こんな時間に女の子が一人じゃ危ないと思って、送って行こう」

さらりと述べられた驚きの提案に、なまえは一瞬目を丸めてぽかんと立ち尽くした。
それでも目の前のスティーブンが事務所の入口脇に佇んだままでなまえの帰り支度を待っているものだから、これは提案ではなく決定事項なのかと察する。
そうして慌ただしく帰り支度を済ませてなまえは、何故かスティーブンと共に事務所を後にする事になった。
どうしてこうなった?スターフェイズさん、一度家に帰ったのに?どうしてこうなってる?
頭に疑問符をぎっしり詰め込んでヘルサレムズロットの夜道を無言で歩くなまえをちらりと見下ろして、それからスティーブンは自分の腕時計へ目を遣った。

「22時か・・・まだ間に合うな」
「え?」

不意に落とされた言葉になまえが思わず顔を上げると、そこにはいつものお決まりの笑顔があって。

「何処かで夕食でもどうかな?君のことだ、まだ食べていないだろ。そうだな、この時間ならまだモルツォグァッツァ辺りやってるだろう」

ヘルサレムズロット最高級レストランの名前をごく当たり前のように口に出すスティーブンに、なまえは再び目を丸めてぽかんとした表情を浮かべた。
そしてぽかんとしたなまえの表情が僅か、驚愕に変わる。
モルツォグァッツァ?それこそサブウェイとかじゃなくて?モルツォグァッツァ?息をするようにモルツォグァッツァ?
しかも仕事帰りの年下の同僚(と言うのも烏滸がましい事務処理専門の自分)を誘うのに、モルツォグァッツァ?スターフェイズさん、本当によく分からない。
そんななまえとは対照的に、なまえへと笑顔を向け続けるスティーブン。
その笑顔からそれとなく顔を逸らしつつ進行方向へ向き直って、なまえが言う。

「お気持ちはすごくありがたいんですけど、私今日は家でシチューを食べなくちゃいけないんです」
「・・・シチュー?」
「そうです。昨日作った残りなんですけど、何せひとりなので消費が追いつかなくて。今夜の晩ご飯も、シチューです」

なので、ごめんなさい。
なまえの言葉に、今度はスティーブンが呆気に取られた。
おいおい、モルツォグァッツァだぞ?天下のモルツォグァッツァ!しかも夜景の見える一等席でディナーフルコースデザート付き、全部こっち持ちだ勿論!
それが昨日の残りのシチューに負ける?そんな事未だかつてあったか!?
頭の中を怒涛の勢いで駆け巡る困惑とは裏腹に、スティーブンは気付けば全く別の事を口にしていた。

「それは、君の手作りかい?」
「ええまあ、一応そうですけど」

なんてこった。
スティーブンは内心で頭を抱えた。
何の変哲もないであろうシチュー、それがモルツォグァッツァの最高級料理よりも格段に食べたくなってしまった。
なまえの手作りと聞いただけで手のひらをくるりと返した自分の思考に、思わず苦笑しながらも戸惑う。
その戸惑いを決して出さないようにしながら、スティーブンは歩く度に揺れるなまえの髪を見つめた。

「そう、それは是非頂いてみたい所だなぁ」

漏れた言葉に、なまえが足を止めてスティーブンを見上げた。
その顔が少し、いつもより少し嬉しそうに輝いて見えたものだから。

「あ!それじゃあ、」

打算が全く無かったとは言わない、下心が全く無かったとは言えない。
それでも僅かばかりの希望で口をついて出た言葉と、なまえが嬉しそうに口を開いたその先の言葉に。
らしくなく、スティーブンは期待をしてしまった。

「よかったら少し持って行かれますか?お口に合うかは保証出来かねますけど」

在庫が少しでも減るなら大歓迎です!、と。
なまえのはしゃいだような声色に、スティーブンは瞬きを数回。
・・・ああ、どうしてこの子はこうも。

「・・・君は本当に、ことごとく裏切ってくれるね」
「へ?」

溜息混じりのスティーブンの言葉に、なまえが不思議そうに首を傾げる。
鈍感なのだろうか、それとも逆に鋭いのか。
全く読めない、今までの経験値が役に立たない、こんな相手は初めてだった。
思わず天を仰いで嘆いてしまいそうになるのを、スティーブンはぐっと堪えた。
いや待て、ここで退いたらスティーブン・A・スターフェイズの名が廃る。
そんなよく分からないプライドを振り翳して、なけなしの追い打ちをスティーブンは言葉にする。

「それなら、そのシチューを持って家に来ないか?ヴェデットが今朝ローストビーフを作り置いて行ってくれてね、それこそ俺ひとりじゃ消費が追い付かない」

シチューの付け合わせには、最高だと思わないかい?
スティーブンの提案に、なまえがぱちりと一度目を瞬かせて。
それから片手を頬に当てて、何かを逡巡しているようだった。
真剣に考え込むその表情に、スティーブンはまたしても少し期待を見出す。
打算が全く無いとは言わない、下心が全く無いとは言えない。
でも本当はどこかで、スティーブンにもなまえの返答は分かっていた。

「じゃあスターフェイズさん!明日のお昼にふたりで持ち寄るのはいかがでしょう?」
「・・・は?」
「ヴェデットさんのローストビーフはすごく頂きたいんですが、今日はもうこんな時間ですし・・・スターフェイズさんのお家に行ったらご迷惑ですから」

こんな時間だからこそ、帰りに引き止めるいい口実にもなったんだけどな!?
スティーブンの叫びは、心の中だけで木霊した。
全く本当にどうして、この子には敵わないんだろうか。
それ以上にどうして、この子に対してここまで頑張ってしまうんだろうか。
全てがことごとく空回っている今のスティーブンを、かつての女性達が見たらきっと呆然とするのだろう。
それでもどうしてか、この上手くいかないもどかしい関係が酷く、嫌いではないと思えてしまう。
どうしてか、その答えはきっと、とても単純で明快だ。

「あの、スターフェイズさん?」

遠慮がちに見上げてくるなまえに、スティーブンはふと、装いではない素の笑みを零して。

「全く、本当に君は裏切ってくれるね・・・いい意味で」
「え、えーと・・・?」

スティーブンの言葉の意味を理解出来ずに戸惑うなまえにもう一度、柔らかな笑みを落として。
夜の街を、並んで歩く。

「明日、持って行くよ。ヴェデット特製ローストビーフ」
「本当ですか!ありがとうございます!じゃあ私もシチュー、持って行きますね!」

なまえの弾んだ声と輝いた笑顔に、今までの打算なんて途端にどうでも良くなってしまう。
ああ、全くどうして。恋愛なんて、こんなに難しかっただろうか。
そんな事を考えながらも、スティーブンの頭は明日のランチはなまえとふたりだと言う事実に、どうしようもなく一杯になってしまった。




スタートラインはまだ見えない
(それでも必ず、ゴールテープには届かせよう)

















普段の余裕と今までの経験値が何一つ一切役に立たない、鈍感なのか鋭いのか分からない年下相手に振り回されるスターフェイズ氏が見たいです。
ちなみに次の日のお昼ご飯はもれなく、ザップとレオ君が一緒です。

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