唇はシガレット・テイスト

「ね?悪くない条件だと思うんだけどなぁー」
お得意の諧謔を弄すおそ松くん。彼の一言に端を発したこの関係もじき終わる。2人を結ぶ紐帯の脆さ。それは例えるならば、豪奢なソファーの上、彼が常夜、吐き出す紫煙みたいなものだ。胡散霧散。跡形もなく散って、二度と元の形を成すことはないに決まっている。

彼との出逢いは社内の飲みの後、二次会の席でのことだった。お酒が充分入ってほろ酔い状態、直属の女上司が行きつけだと私を引っ張って連れて行ったホストクラブ。そこがおそ松くんの勤める店だったのだ。彼はその店でNO.1というわけではないが毎月コンスタントにNO.3までには入るホストで、上司はおそ松くんの上客。所謂、『太い客』というやつだった。
初めて逢った日。黒いスーツ。同色のワイシャツに一際目立つ赤いネクタイで決めた彼は上司を見つつ、
「あれー?今日は友達連れて来てくれたの?」
と、さりげなく私に視線を走らせて屈託なく微笑んだ。
思い返せば、あの夜、私は相当緊張していた。それは会社と家の往復生活を送る人間からしてみたら縁遠いホストクラブに立ち入ったことにも拠るだろう。が、何よりも『上司の前で上手くやらなくては』との思いで気を張っていたのが大きかった。何故なら、彼女は気に入らない部下を退社に追い込むことで有名、それが高じて社内では裏で『女帝』と怖れられていたから。周囲の噂では私ほど長く彼女の下で働いた社員はいないらしい。粗相などないように。私はいくら飲んでもアルコールが満足に回らない程張り詰め、彼女に対し、細心の注意を払うことに腐心していた。
しかし、不思議なことにその緊迫感もおそ松くんの立ち振る舞いにかかると少しずつ解れる。あの感じは忘れられない。彼はヘルプを従え、終始煙草を燻らせてリラックスした様子だったが、その伸び伸びとした表向きとは裏腹、実はどこまでも神経を張り巡らせていた。お酒の注ぎ方1つにしても、乾杯の仕方にしても。上司の愚痴の聞き方にしても、相槌にしても。一見それとは分からないほどの細やかな気遣いがあり、プロが成す匙加減に感服するしかないという感じだった。上司の相手をしながら、異質な空間に馴染まない私にも上手く話を回して場から浮かないよう配慮することも怠らない。何より、彼といる時の上司が仕事の時とは違い、ピリピリしていないのには驚愕した。
そんなおそ松くんの仕事ぶりを盗み見、これを日々の勤めに還元していこう、などと密かに思っていた時。酔った上司が無礼講、彼に口付けようとしたのが視界に入った。乱れた上司の姿も結構だったが、いけないと分かりつつ、思わず目を瞠る。うわー。こんなこともするんだ。ホストって大変だなあ。そんなことを考え、雰囲気を壊さないよう黙していると。灰皿に煙草を置いて慣れた手付きで彼女を抱き留めたおそ松くんは戯けた調子、言ったのだ。
「キスはダーメ。言ったじゃん。俺、色恋営業とかナシだって」
ホストの鑑って感じでしょ。にかっと笑い、上司の唇に人差し指を翳す彼。彼女はおそ松くんのそういう思い通りにならない所すら気に入っていたらしい。ヒステリックな彼女には到底有り得ないことだが、拒否されたにもかかわらず、その後も機嫌良くお酒を呷っていたのを覚えている。

上司が店に行くのに同行することが度重なったある日。見慣れない番号から携帯に電話が入った。もちろん、最初は無視を決め込んだ。知らないのだから出る必要もない。が、何度も、しかも長くなると1分以上着信を鳴らし続けるものだから根負けして通話ボタンを押すと。
『やーっと出たー。何回コールさせる気?』
受話器の向こうから間延びしたおそ松くんの声。それを聞き、びっくりした私が警戒心を隠さず、
「…どうして番号知ってるんですか?」
と、おずおず訊ねれば、彼はあっけらかんと、
『前に名前ちゃんの上司が来たときに聞いた』
なんて、言い、重ねた。
『俺、名前ちゃんのこと、気に入っちゃったんだよねぇー。あの人の下で働く根性とかホストクラブに来てんのに未だに俺が近付くと距離置こうとするとことか、ノリに慣れてくんないお堅いとことか、なんか新鮮でさー』
それに対し、即座、
「ホストクラブに通うお金とかないんで営業なんかしても無駄です」
と、きっぱり返した。直感したのだ。彼は良い鴨を見つけたと思っているに違いない、と。生憎、私には上司のように男遊びに不自由しないお金も余裕もない。でも、そんな風に固辞したにもかかわらず、電話越しのおそ松くんは笑う。
『ヤだなー。名前ちゃん、勘違いしてる。そりゃこんな仕事してるけどホストだって人間だよ?営業ばっかしてるわけじゃないって』
「じゃあ、なんで電話なんか…」
『んー。取引きするためかなー』
「取引き?」
意図が見えて来ず、問うたところ。平然とした態度、言葉が紡がれた。
『うん。あのさ、暇なときでいーからさ、店じゃないとこで俺と遊んでよ。もちろん、ホストと客っていうのは全部取っ払って』
そして、続けて、
「名前ちゃんがもし俺と遊んでくれるんなら、名前ちゃんの上司に仕事のこと、口利いてあげてもいーよ」
と、彼は提示する。思わず私の喉が鳴った。と言うのも、この仕事に就いてから私はずっと『もっと仕事で認められたい』と、願っていたのだ。理不尽な上司の言動に食らい付いているのもまさにその一点のためだった。どうやらおそ松くんにはその願望が透けて見えていたらしい。だからこそだろう。私が口を噤んだのを良いことに、ここぞとばかり、畳み掛けてくる。
『俺はホストの肩書きとか関係なく名前ちゃんと遊べる。名前ちゃんは仕事がやり易くなる。これ以上良いことないじゃん。ね?悪くない条件だと思うんだけどなぁ』
それを聞き、結局、どうしたかと言えば。少し考えた後、
「…じゃあ、松野さんが煙草吸わないんなら考えます」
なんて、私はもったいぶって答えた。いくら旨味のある話でも所詮はホストの言うこと。簡単に信じてはいけない。だから、常に煙草を銜えているイメージのあるおそ松くんを思い浮かべ、これなら諦めてくれるだろうと思えるような条件を出したのだ。が、結果は予想外。彼は
『マジ?そんなんでいいの?』
と、からから明るい声を響かせた。
『あれ、キス避けの小道具なんだよねー。吸いたくて吸ってんじゃないの。だから、吸うなって言われたら寧ろ好都合って感じかなー』

それから『取引き』通り、関係を続けてきた。最初の宣言に反することなく、おそ松くんは私に同伴を頼むこともなかったし、店に誘うこともしなかった。それどころか、触れることだってしない。その代わり、休みの日や開いている時間に部屋に上がり込んで、普段のスーツ姿が嘘かのようなパーカーとジーンズのラフな格好で寝転がったり、TVを見たりして寛ぐ。そうやって彼と時間を過ごせば過ごす程。上司の私に対する覚えと業績も『取引き』に違わず格段に良くなって行った。
だが、2年目に突入して、仕事も安定した頃。私は気付いてしまったのだ。自分が、おそ松くんをホストではなく、普通の男の人と認識してしまっていることに。無論、彼はただの物珍しさと思いの他の居心地の良さにでも惹かれて身を寄せているだけに違いない。それなのに、私にとっては、じわりじわり、入り込んで来る彼の存在はもう疑いようのないくらいの圧倒的さで心に迫るものになっていたのだ。このままでは立場も弁えず、彼のことを好きになってしまう。気付いてからは店に一切顔を出さないようにした。ほんの少し時間を共にするだけの仲なのに、店で他の女性と睦まじくしているところを見るだけで胸を痛ませて感傷に浸るなんて馬鹿げているし、驕っているに決まっている。

でも、1度好きになってしまったら。やはりどうやっても気持ちを押さえ込むことは出来そうになかった。だからこそ、私は部屋で寝転がって雑誌を読んでいるおそ松くんに意を決し、声を掛けたのだ。
「…おそ松くん」
「んー?どーしたの?」
「もうさ、私たち、会うのやめよう」
告げると、彼はきょとんとした後、徐に身を起こし、笑い始める。
「ふふ。ウソでしょー。俺たち、結構上手くやってんじゃん?それなのに今更?あ。もしかして名前ちゃん、あんま会えないから拗ねてる?仕事忙しいって最近全然会ってくんないもんねー。こう見えても俺、すげー寂しいんだよー?」
明るく、矢継ぎ早に発される言葉たちは違和感がない。そうであっても、これは他人を喜ばせる台詞の1つや2つ、罪悪感なく口に出来てしまう彼の性質に拠るものなのだと知っていて緘黙すれば、おそ松くんは少し間を空けた後、笑みを崩さず切り出した。
「ゴメン。タバコ、吸ってもいい?」
その問いに戸惑い、辛うじて頷く。こんなことは初めてだった。吸いたくなったら吸ってもいいよ、と促しても『またそーやって名前ちゃんは取引きチャラにして振ろうとすんだからー。俺のことそんなにキライ?』なんて冗談めいたトーン、頑なに拒否していたのはいつも彼の方だったから。だが、これは『取引き』の消滅に似つかわしくも思える行動だったので、私はもしものときのために買っておいた、1回も使われていない灰皿を彼の前に差し出した。すると、おそ松くんはちらりとこちらを眇めて『ありがと』と呟き、煙草に火を点ける。ちりちりと赤く焼け付いて行く先端。それをぼんやり見つめていると。煙をゆっくり吸い込み、吐き出す行為を何回か繰り返した彼はようやく口を開いた。
「…あのさ、なにがヤなの?俺、1度も店来てとか言ったことないじゃん。名前ちゃん相手に営業したことなんてないよ?」
「そういうんじゃないの」
「じゃあ、なんなの?あ。もしかしたら他に男でもいんの?ヒドいなー、名前ちゃん。俺がいんのにさー。ホストだからやっぱりダメー、とか?」
ひたすらに彼は喋り続ける。その間も唇に挟まれた煙草からは掴み所ない様子、細く頼りなくたなびき消える白煙。それを視線で追い、私は呟く。
「…そうじゃないよ。そろそろ実力で仕事するべきだな、って思ってさ。いつまでもおそ松くんに頼ってるわけにもいかないから」
「はー。そんなこと?名前ちゃんは相変わらず真面目だねぇ。っていうか、名前ちゃん、俺との取引きなくても充分仕事出来てんじゃん。それって実力あるって言うんじゃないの?」
「実力なんかないよ。私はおそ松くんに上手くやってもらってここまできたんだもん」
「仮にそうだとしてもさ、まだ俺は利用価値あるでしょ?減るもんじゃないんだし使いなよ」
ね。考え直してよ。俺はまだ名前ちゃんといたいな。いくら終わりにしようと思っても肯んじようとしないおそ松くん。その姿に心はぐらぐらと揺れ、決心が鈍りそうになる。が、これ以上続けても実にはならない関係だ。思い切った私は今までに増してはっきり、
「…とにかくもう会わない。今までありがとう」
と、言い切ったところ。
「ふーん。…そしたら、もう好かれようなんて努力、いらないね」
おそ松くんは煙草を揉み消して、唸るみたいに低い声を絞り出した。どういうことだろう。不意に転がった言葉の意味を考えていると。にじり寄られ、ぐっと強い力、手首を掴まれた次の瞬間、キスをされた。息も出来なくなるような激しい、最初で最後の口付け。私の全てを飲み込もうとするかのよう、合わさってくる彼の唇は煙草の苦い味がして、何故だろう。涙が零れた。


唇はシガレット・テイスト
(今までで一番、最低なキスだと思わせて)
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