時計の針が心臓を刺す

※申し訳程度の性描写と笑い話程度のホラー描写が含まれます




 源氏名を使わないとお水から上がれなくなるというジンクスがある。
 え、おそ松って本名? と聞くと彼は言うのだ「そー本名。なんていうか、これ以上それらしい名前ってなくない? だからオレら、全員本名使ってんの」。カラ松、チョロ松、一松、十四松、トド松。苗字は松野。そうオレ、松野おそ松。え? ホスト上がれなくなる? あーなんか言うよね。有名だよね。けど実際どうなんだろうね、だって逆にね。難しくない? 多分そうだと思うんだよなー。嫌になった時は飛べばいいんだし、そんなやつゴマンといるし、例えばウチの店だって今週だけで体験入店が四人もいるけど、一ヶ月後にはそのうち一人残ってるかどうかだし、誰もわざわざ辞めるとか申告しないし、そういうもんだよ、この業界。逆に才能あって稼ぎたくて、続けたい、にも関わらず続けられない。辞めざるをえないって状況に陥っちゃう場合のが多いかも。ブタ役とか絶対続かないよね。そうあのお酒飲むキャストのことね、ブタって。体壊すとか、それでなくても、女の子がストーカーになっちゃうとかさ。上手くいってた奴が上がる時って、だいたいそういうかんじ。だからさ、終身就業を約束してもらえるなんて安全祈願ていうか。サイコーのジンクス。本名使ったら父さんと母さんが死ぬとか、六つ子が七つ子になるとか、そんなんだったらちょっと考えるけど。なんで敬遠されるのかオレにはよくわかんないんだよねえ。むしろ積極的にあやかっていきたいジンクスな気がすんだけど。あ、ねぇねぇ。ボトル入れてもいい? おねがぁい、オレ今月の売り上げ目標達成まであともうちょいでさぁー――

 ……いやいやお水から上がりたいホストだっているんだよ!!
 革張りのメニュー表の上には媚び媚びの丸い眼が乗っている。叫びたい本音は飲み込んだ。「もっと上等な職に就ける未来とか信じたいじゃん」なんて地獄のクソ正論でしかない。即物的な“しな”を作って即物的なおねだりを繰り広げるおそ松を見てると、そういうのなんか違うなって気になるのだ。上等な職とはつまり、一般論で云うところのドレススーツとかシャンパンとは無縁で、朝起きて夜に寝られて、女のゲロとかおもらしとか見なくて済むような職のことだけど。けど、だって、私は知らないのだ。鳶のあんちゃんとホストと、どっちが体を壊す確率が高いのか。会社員とキャバ嬢のどっちがこき使われているのか。人妻とAV女優、どっちのアソコの方が擦り切れているのか。本当のところは、わからない。現にこのビルでは人が亡くなっているけれど、それは痴情を飼いならすホストが痴情に飲まれた末に……ではなくて、全然関係ない、土木作業員のおじさんだったりして。すごく重い重機と共にエレベーターに乗り込んで……とかだったりして。南無三。
 貴賤。上下。ホワイトカラーとブルーカラー。どっち? どっちが安全でどっちが文化的で? つまるところ、答えは? おそ松は相変わらず輝く熱視線を燃やしている。きかれてもいないけど、説明できない愚鈍なこの脳みそにただただ私は肩をすくめるしかない。そんな具合に凡庸をたびたび叱責するのが、ホストと客の関係における彼の役目であると私は密かに思っている。お客なので、口頭で叱られたことは一度もないけれど、要するに対人に映し鏡を見るということ。先立つものさえ出せば、客体である男性に理想を映そうと自己嫌悪を映そうとで、寧ろ一個体の人間として扱えばこそ拗れるのであって。擬似彼氏。インスタントラヴァー。対象物として扱うことこそが消費者たる私の矜持で、申し訳程度の品格。なんだと思う。
 彼は私の映し鏡。私は私の品性に磨きをかけるためにこの本名:松野おそ松≠ニかいうホストを侍らすのだ。と思う。
 すごく素敵な御旗じゃない? 誰に見せるものでもないけど。遊びって区切りをつけるのが難しいから、目的とか結構大事。
「どしたの難しい顔して。お仕事疲れ? 勤め人は大変だねぇ。いいよー話聞くよ。こう見えてオレ、長男張ってるからさ。そういうの結構得意だよ」
「難しい顔してた? 私」
「眉間に皺」
「うん……そっか。なんか多分お仕事疲れじゃなくて」
「?」
「考え事。例えば……。うーん。わかりやすく言うと、どうしたら地面に落っこちて潰れちゃわないか、みたいな」
 転落事故のことを考えて言ったのだけれど、多分おそ松にはわからなかったと思う。わからなくていい、適度な冗談で意味不明な本気だった。え? なにそれどゆこと? と言いながら肩揉みを口実にボディタッチする指先が、うやうやしく襟から滑り込んで、私の首の、皮の薄いところを直に撫ぜる。
 知っている、彼のこういったスキンシップはお茶濁しで、ペースを自分のものにするための準備運動で、雲行きがよろしくない時のそれ。
「……くすぐったいよ」
「ん〜〜? 聞こえない」
 だってあわよくば触れられたい。
 ホストクラブ、ハラスメントとかいう概念は蚊帳の外。治外法権のテリトリー。
 おそ松は素早く私のブラウスの第二、第三ボタンを外し胸元に手を滑り込ませた。「ちょっと!!」ビシッ「あだっ、」。
 私はそれをはたき落とす。「いったぁ……」躊躇はない。バチンって音からして様式美! サイコー! だ。いっそ愉快ですらある。だって怒ってると見せかけて両方ちょっと笑ってるし。
「手癖わるすぎる……!」
「オレ一応ホストだから喜ばそうと思ってぇ」
「入れ食いじゃん、ほんとに喜ぶ子にまでこんなんしてたら!!」
「そ、だから本当に喜んじゃう子にはしないの。名前みたいに叩き落としてくれる子じゃないと。でなきゃここ、おっパブじゃないかんねー」
 んへへへっと軽やかにおそ松は笑ってみせた。

 お水の世界は政治の世界らしい。
 少なくともこの松野おそ松は政界としてのホスト道を全うしていた。花吹雪をガンッガンに吹かせていた。
 本名……ホスト上がれなくなるんじゃ……。いやいやいや。
 最初から馬鹿な話題を持ちかけたのは私の方だ。将来とかキャリアとか世間体とか、はなから「もっとまともな職に就きたい」なんて前提はここにないことは自明だから、やめられなくなるなんて文句は何をも脅かさない。無邪気な微笑みなんて笑わせる! カリスマレジェンド? 冗談にならない冗談はやめてほしい。
 つまり、大袈裟な自称がユーモアにならないくらい、彼は客体として自らを売り込む才能に愛されていた。おまけに個性を型に流し込んで焼いたみたいな兄弟たちを統制し圧倒的な売り上げを誇る……そういう現実的な数字もきちんと抑えている。色恋営業とか禁止。枕営業、もっと禁止。正確には互いが互いを牽制しあう泥仕合いの結果、そこまで行き着けないのだという。どこまでが本当、どこまでがファンタジー、仲良し六つ子協定・ラブリー兄弟喧嘩。でも実際ゴチった女の話は六倍の市場のどこからも出ないので、つまりそういうことだ。

 操立て? 実は体に不具合があるとか? 六つ子全員? そんなのってもはや、自分の性交渉よりも湧き立たせる話じゃない?

 一人が思えば皆が思う。私のリビドーはあなたの。あなたのリビドーは大衆の。言うまでもなく、歓楽街で飽和した女人が色めき立たないわけがない。気持ちいいことをやめるなんて大人には無理なんだ。ここは歌舞伎町、そうなんだよ、合法的にセックスドラッグアルコールより気持ちいいことって、どうやらある!
 ね? ホストより上等な職? なんだってニートよりは、マシじゃない? 失うものがなんもないと、ヤクザな世界では最強になれますらしいです。
 半分は人海戦術じゃないか。とか、僻みにしかならなかった。だって本当に強い! 勝てるわけない、敵うわけない。男だったら? 同じリングに立つのなんか絶対やだ。もっとやだ。同業者の身の上を案ずる。案ずるだけ。だってお客様だし。
 とにかくおそ松の売り方は、時代に即していた。
「……いいよ、ボトル入れて」
「お、マジ? いいの? ありがとなー、名前ちゃん和と洋どっちの気分?」
「にっぽんの酒の気分」
「日本酒?」
「ん〜〜鶏飼で」
「焼酎? いいねェ米だね通だね、しかも女子っぽいね〜。水割りでいいの?」
「あと氷のあの砕いたやつ頼んで欲しい……」
「割ものは? 他に。アセロラとか?」
「鶏飼をアセロラジュースで割るなんて邪道すぎる!!」
「いたいたいたいちょギブギブギブ」
「あとフルーツとエイヒレも頼んで……」
「いったいよもー。はいはい上げ膳据え膳のお姫様ー」
「上げ膳据え膳って言った? はぁ〜〜……まぁお姫様の地位を金で買ってる感はあるよね」
「え、え、もしかして怒った? えーごめん。なぁごめんって。今のはオレが言いすぎたよ。なんかテンション上がっちゃった」
「殴られて?」
「気の強い子がタイプだからさ」
「変態だねー」
 ケラケラ軽快に笑いを交わしながら、さきほどから私の太ももをせかせかと揉み回していた指を関節の運動と逆に曲げる。「いいいいたたたいたいたいたそれ無理のやつ!!」「痛いのが好きなんじゃないの?」「おまっ、この」こんな具合でいいのなら永遠に続けられた。堅くて気の強い女の子とそういうのが可愛いと思うキャスト、というのが二人の世界の当たり役だったのだ。調子がいい。どっちがって両方。

 遡って、亡くなった土木作業員のおじさんの話をしよう。

「名前ちゃんエレベーターの重量制限がなんであるか知ってる?」
「危ないから。」
「おっとぉ〜」
「だってそれネットで見たことあるもん」
「あれ、知ってんの? なんだぁ」
「うん、答えは吊ってるワイヤーが切れるからじゃなくて」
「「エレベーターの床が抜けるから」」。

「でもこれって本当なの? 都市伝説とかでなく」
「んー本当のとこはまず停止中にかかるはずのブレーキが保持できなくなるってのが正しいエレベーターにおける重量オーバーのリアクションらしいけど。でもウチに限っては本当。だってそれで人死にがあっちゃってるし」
「え」
 おそ松からその話を聞いたのは、確かこのホストクラブに通いはじめて間もなく、初めてキープボトルを作った日のことだ。
 エレベーター事故。床が抜けた。重機と共にエレベーターに乗り込んだ工事のおじさんが、シャフトの底へ落っこちた。床が抜けるなんてあり得るの? あっちゃったんだよ。そういうの、問題にならなかったの? さぁねぇ。ニュースにもならなかったねそういや。
 取り壊せないまま放置してある廃ホテルとか、やたらとテナントの入れ替わる賃貸とか。火事首吊り痴情の縺れヤクザの抗争に援交アル中ヤク中etc。まことしやかにそれらしい噂が立っていることを条件にしないのなら、歓楽街にこういった趣向のリソースは掃いて捨てるほどある。
 第六トーアビルには幽霊がいる。そのビルの六階に入っている某ホストクラブには世にも珍しい六つ子が在籍し、長男の完璧な統治のもと幅を利かせているが、これも霊的な何かしらにあやかった話なのかもしれない。第六感、『六つ』子。ドッペルゲンガー、『第六』トーアビル。幽霊を見た。同じ顔の幽霊? 違う、六つ子の方は実在する!
 おそ松の政治力という要素が六つ子の領地拡大を後押ししていることは上述の通りだけど、彼らがヘビーなホスト狂いからライト層の一般人まで、ジャンル問わずのカルト的な人気を誇る秘密はこういうところにあるらしい。はくがつきすぎている。構成勝ちというやつだ。聞くだにそそられるシナリオ。私が六つ子たちを知ったのは口コミとかネットづてではなかったので、そういう噂の認知は後から付いてきた。寧ろ本人から聞いた。おそ松は続ける。
「幽霊、出るよ。ここ」
「……怖い話とかして盛り上げよう? 的な?」
「どっちかっていうと予防線かな。オレさ、名前ちゃんとこの先も会いたいし。『怖いから来るのやめた』ってなって欲しくないんだよね」
「えーマジなんだ……」
「マジだよマジマジ、ちょっともー、信用してよ。創作とかじゃないから。ていうかネットとかじゃ有名だけど見たことない? それ目当てでうち来る子だって多いよ」
「六つ子目当てでなく」
「なんていうか、それとは別に、このビル自殺の名所なんだよね。出るし。都会で見れちゃうお手軽心霊スポットみたいな」
 またまた……やっぱ創作じゃん、なんて笑い流して、それ以上踏み込まなければ良かったのだけれど、そこで携帯を取り出してしまうのが私だった。
 果たして残念なことに検索エンジンのサジェストの時点で答えは明白だった。なんで営業できてるんだよ。“第六トーアビル 噂” “第六トーアビル ホスト 六つ子” “第六トーアビル 心霊”……第六トーアビルは知る人ぞ知る心霊スポット。おいおいマジかよ。マジじゃん。
「おじさんの幽霊? その、エレベーターの事故の。ん? 自殺? おじさんは事故か」
「卵が先か鶏が先かの理論だよね。霊が先か人死にが先かみたいな。けど出るのは女の幽霊らしいよ。オッサンの霊とかはちょっと聞いたことないし、そっちは結構最近の話だし」
 ま、成仏してない可能性、圧倒的に高いのは女だよね。わかるわかる。わかりたくない……。名所って一体何人死んでるんだよ。そういえばトイレの窓に謎の南京錠がかかってたことを今更思い出したりして…………。これが時折ホストに入れ上げその身を散らした客に私が感応してしまう理由だった。
 ここの怨霊とか、絶対成仏できないと思う。タチが悪すぎる。なんせ生きてる間に既にオシッコ漏らすまで飲んだくれたり新宿区役所の前でパンツ丸出しで酔い潰れてたり、自分と同じホストを指名する客を突き飛ばしたりする。そういうツワモノ共の成れの果てである。メンヘラ、アル中? 生前から既にゾンビ。ありえないはずの事故を引き起こして、働くおじさんを地獄に引きずり込んだのは一体どのゾンビだ。
「女の幽霊らしい≠チて、他人事みたいな口調で……おそ松さぁ……。なんか、もう……あれだね」
「え?」
「人殺し」
「……え、オレ!? なんでオレ!?」
「おそ松は見たことないの」
「幽霊?」
「そうだよ」
「…………んー、オレさぁ、なーんか霊とかそういうの疎いんだよね。トド松が『トイレでカラ松兄さんが金縛りに遭ったー』つって騒いでても、十四松と一松が屋上から落ちる霊を見たらしくっても、そういうの全部オレのあずかり知らぬとこで起きてる」
 やんなっちゃうよな、長男なのに除け者の気分。
 そこじゃなくない? けれど彼にとっての目下最大の問題はそれだった。
「お客と突然連絡とれなくなったりする?」
「よくあるけど、いちいち気にしてらんないよね」
「今日飛び降りたあの死体が昨日の自分のお客だったとかもあるの」
「それも、いちいち気にしてらんない、だよね」
 第一仏さんの身元なんてこっちの耳には入ってこないし。
 元自分の客だったかもしれない霊とか、溜まりに溜まった有象無象に殺されてしまったかもしれない一般人とかよりは、ぜんぜん有象無象でないおそ松の愛しき分身たち。実体はあってもよっぽど彼らの方がまぼろしじみている、身のある都市伝説たち。花の六人組って、それはちょっとやりすぎだけど。でも結局みんな絆されてるから君臨するだけの玉座も存在しているのであって。
 均衡が崩れたのは、ちょうど二人で大事に飲んでいた鳥飼のボトルが空いた日だった。

「名前〜? もうすぐ十二時だけど」
「わかったチェックで〜〜」
「タク呼ぶ?」
「誰それ?」
「タクシーのことな。タクってな。おいおい泥酔じゃん、大丈夫?」
「だいじょうぶだいじょうぶ、電車で帰る」
「全然大丈夫そうじゃないんだけど……しゃーないなぁ。いいよ行けるとこまで送ってく」

 本当は、せいぜい一階まで一緒に降りてタクシーを拾ってもらう程度が送りと呼ばれるサービスの範疇だけど、本当の送りというやつだ、おそ松はよくコンビニに行きたいからとか深夜だからとか何かと理由をつけては駅まで着いて来てくれた。

「怒られないの、勝手にお店の外に出て」
「平気平気、いっつも出る前にチョロ松とかに頼んでるもん」
「なんて」
「なんかテキトーに誤魔化しといて〜って」
「怒られるでしょ、それ」
「怒られない怒られない、ちゃんと普段真面目に精勤してっから」
「お店じゃなくてチョロ松くんに」
「別に? ていうか、そんなの慣れっこだし」
「ダメじゃん」
「へへ、ばれた?」
「ダメだ〜」
「ダメだも〜ん、オレ」
 その日もたわいのない話をしながら、二人で降下のエレベーターに乗った。
 フロアの熱気から遮断されたエレベーターはひんやりと鎮まりかえっている。馬鹿みたいにきらきらしい世界から日常に切り替えていく第一段階。おそ松は傘を持っていて、いつの間に外は雨らしかった。
「ひっ」
「びっくりした? はいこれあげる」
「ふ、普通にやってよ……!」
「なんでそんなビビってんの。あ、もしかして幽霊かと思った?」
「誰だって頬っぺたに冷たいの当てられたらびっくりするから」
「水飲んだ方がいいよ名前、顔真っ赤だもん。まぁ、可愛いけど。女の子の赤面って。けどそんなんで電車乗ってたら変なのに捕まるよ」
「……今のでちょっと覚めた」
「そりゃよかった。なぁなんでタクシー使わないの? 名前って。危なくない? この時間の電車」
「もったいない」
「まぁ足代をオレのために節約してくれんのはありがたいけどさー」
「調子乗りすぎじゃないの、それ」
「でもそうだろ?」
 きっと私に負けず劣らずの上気した頬が、にやりと笑った。
 酒に飲まれても客を楽しませることを忘れてはならないホスト。私にはとても真似できないなあと思う。
「え……っ」
 歯の浮くような口説き文句にたじろぐ私をおそ松は壁に追いやり、首をもたげた。抱きつくような格好で、私の肩にしなだれかかってくる。
「やっめ、ちょっ、」
「あーヤバイ女子の匂い……」
「離して、」
「無理ィ〜〜」
 くすぐったい。私の女子の匂いなぞ打ち消すような麗しいコロンのにおいにクラクラした。あんたも相当酔ってるでしょ……!? 半狂乱の私に「そ〜かも〜〜」なんて気の抜けたお返事は虚しくて、尚のこと穏やかでない。そのまま体重をかけて寄っかかって来るので、後ろ手で強かに壁にぶつかった。
「っ、」
 そのせいかもしれないし、もしかするとその前から起きていたことに、単に気づいていなかったのかもしれない。大人二人分の体重を抱えて、エレベーターは大きく揺れたのだ。

「ねぇっ、ねぇっ、ねぇっ! ちょっと! なんかっ、なんか変な揺れ方した!」
「ん〜〜?」
「止まってない!? これっ、エレベーター、」
「ありゃ。……マジだね」

 私たちを乗せた箱は降下も上昇もしていなかった。
 咄嗟に開閉と地下一階から地上七階まで全てのボタンを押すも、加速度で体が引っ張られるような感覚も、物音の一つすら復活することはない。
「緊急事態なのに緊急呼び出しボタンが応答しないって何事!?」
 黄色い受話器マークのボタンを連打しても、肉声はおろか呼び出し音すらない。完全にヒステリー患者の私を尻目におそ松は優雅に間の抜けた欠伸を決めやがるし。それが当然みたいにしてるし。火に油。私は咆哮をあげた。
「華麗に余裕こくのやめて!?」
「ふぁ、」
「ふぁじゃないよ!!」
「まあまあ、落ち着きたまえよ名前二等兵」
「地位低いね!?」
「我々には文明の利器というものがあるじゃん?」
「つまり?」
「携帯から店に電話すればよくね?」
「おそ松の携帯は?」
「待機席に置きっぱ」
「私の携帯は?」
「さっき充電切れあーーーーーー!!!!」
「ほらーーーーーーッ!!!!」
 ば、バカーーー! 完全にユカイなおバカの所業、緊急呼び出しボタン・男1の携帯・女1の携帯の三段構えオチ、数十、もしくは数百の人を抱えるこのビルの中で私と彼は、突如として隔絶されてしまったのだ。文明の利器の便利さからも、店の喧騒からも、地上に足をつける権利からも。文化的なあれやそれが文化的な箱の謀反によって一足飛びに遠ざかる。人とはかくも無力なり。わ、笑えない……。
「しまったなー携帯を携帯しないからこういうことに……。ま、オレらから助けを呼ばなくてもすぐ気づくでしょ。このビルにいる誰かが。もしくは長男様の危機を感知した弟のうちのどれかが。今までオレら六つ子の間でそういうテレパス的な事例があったかっつーと、あいにく一度としてないんだけど。だーはっはっ」
「…………」
 軽快を通り越して豪快なおそ松のユーモアが無情に空間を揺らした。
「……なーんでそんな浮かない顔なの?」
「これを浮かばずにしてどうするって状況だと思うけど今……。実際浮いちゃってるけどね……ふふ……」
「トイレとか行きたくなったらヤバイよね、アルコール入ってっし」
「もし漏れそうになったらおそ松がくれたこのペットボトルの中身を捨ててあげるから、言ってね」
「その中にしろってこと!?」
「そうだよ。漏らすよりましでしょ」
「が、頑張る……」
 頑張ってどうにかなるのだろうか。私? 私はもよおしてから六時間まで我慢できるタイプだし。そもそもチェックの後にトイレ行ったし。泥酔して漏らしちゃう子たちと一線を画す一手間。何に? 品位に。努力。涙ぐましい。女性性って、そういうのの積み重ねですし。
「おそ松、今何時?」
「そうねだいたいね……十二時十分。終電は?」
「あと二十分で行っちゃう」
「ゲームオーバーだねシンデレラ」
「夜更かしがすぎると魔法が解けそう」
「名前、綺麗にしてるもんな」
 美しい女体と健気な努力の魂。救いも施しも、くれるような神様はこの世にいないけど、マッチングの天才はいると思う。人を消費することを許されたなにか。見えないものに縋るのは愚かかもしれないけど、見えないものを否定するのは傲慢だ。傲慢であることも含めて、人は美しいけれど。ねえ、お願いします。否定も干渉もしませんので、突然現れたり金縛りにあわせたりしないままでいてくださいませんか。有象無象の怨霊さま……、
 つまり、浮かないんじゃない。そうじゃなくて先達てから私は、完全にビビっていた。だって怖いに決まってる。深夜、幽霊ビル、多分死霊と生霊を量産してきたはずの色男と二人、一般人の亡くなったエレベーターで、閉じ込め。周到すぎるセット!
 ことは私の肌や膀胱が我慢できるリミットまでに出られるかどうかという問題だけでなく、地獄の淵を見ずにまた地上に降り立てるか、外に出た時に私の心臓が止まっていないか、そういうデッドオアアライブすら孕んでいた。実際、デッドオアアライブの局面に立ったら、膀胱の、下着やストッキングの無事は切り捨てるより他ないけど。なんにせよプライドは死んだも同然の気がする。一生このままなのかな。そんなわけないけど、そういう種類の途方もなさだった。こういう時ってまず気持ちからだめになる。

「ひぃッ」

「名前〜」
「ちょ、なにしてん」
 なにしてんのなんて聞くまでもないけれど冗談じゃない。おそ松は私を背後から抱きとめる。
 丸っきりさっきの続きで、時間が無期延長になった今、エレベーターがただの脱出不可能な密室になった今、箱の中は夢にまで見た男女の隠れ家。清潔なベッドと広いバスタブなんて言わないから、せめて曰く付きでさえなければ?
「こっ、こんなとこでこんな時にサカるとか〜〜ッ」
「え〜、なんで。ダメ?」
 油断するとキスされそうだった。シャツの裾から突っ込まれたおそ松の手と逃げ惑う私の体がくねくねと絡み合う。リアクション過多はダサいことだと思うけど、そうしないと怖い。「きゃああ」「やめて、」「やだ、やだ、やだって!」「いやよいやよもじゃなくて本当に無理のやつだから、い、やっ、やめてっ!」気付いたらブラのホックが外れている。私の話を聞いて! 頼むよ!!! ねぇ!
「いやっ」
「ヴぉうえっ!?」
 武力行使の免罪符は驚き、不可抗力、下乳を鷲掴みにされたので飛び退いたら私の肘鉄がおそ松のあばらに入ったのだ。
「ってぇ〜……」
「ご、ごめんっ!? 大丈夫!?」
「んーあー。うん、だいじょう……ぶではないけど。うん」
「…………」
「……いやさ、わかってるけどね、名前ちゃんがそういうタイプって。けど傷つくな〜さすがに。そこまで拒否られると」
「ごめん……」
「お詫びにいっぱつ」
「やだ」
「ヤらせてくれなくてもいいからせめて触らせて!?」
「は? 無理だよ!? 譲歩した感じにするのもムカつく」
「オレのこと嫌い!?」
「嫌いじゃないけど幽霊が怖い!! あのさぁなんでそんな気になれるの!? ここ、出るんでしょ!? 事故現場でしょ!?」
「え、だからじゃない? 逆に。墓地みたいで燃える」
「こじつけないで!!!」
「いや、マジマジ、本気で言ってる。真夜中幽霊密室閉じ込め、これ以上ないシチュエーションじゃない? 怖い? 連絡手段ない? 逆にラッキー。誰も気づかなくていい、救助来なくていい! 餓死するまでは! トイレも最悪ペットボトルで済ます! なぁずっとイチャイチャしてようぜ、名前〜〜っ」
「いや〜〜ッ!」
 私たちが床に倒れこむのと同時に蛍光灯の照明が消えて、明かりが頼りない非常灯のみに切り替わる。ポ、ポルターガイストーッと泣き叫ぶ私をよそに、おそ松は早い、まだボタン外してない! とキレていた。ポジティブか! 非常灯はベッドサイドのシェードランプじゃねぇんだよ!!
「あ゛っ、やだ、おち、床が、抜け、落ちてっ、やだっ……やだぁっ、工事のおじさんにはっ、なりたくな゛い゛い゛、」
「オレ無理やり系の趣味はないんだけどなぁ……落ちるのが怖いなら手すりに掴まってやる?」
「やだやだやだやだ」
 右手はおそ松の体の下敷きになって、左手は無理やり繋がされて、顔を隠すことも逃げることもできなくて、ついに唇を奪われてしまう。唇っていうか、べろとか粘膜を奪われた。
 強引にするキスがうまいなんて最悪だと思う。三枚目ですみたいな顔しといて雄臭い吐息を吐くのなんてもっと最悪。
「ん、んっ」
 ホストとキスするなんてなぁ。胸を揉まれていたけど、そうされなくても私の体はばかみたいに熱くなっていたと思う。流れ込んでくる唾液の味が嫌ではなかった。
「はぁ、」
「やだ……やだ、」
「……嘘じゃん、そんな声初めて聞いたんだけど」
「キスしたりあたったりしてたら誰でもこうなるでしょ!」
「あ、わかる? そう思ってあててんの」
 わからいでか、男の性器ってなんでそんなんなんだ。あててんのとか少年漫画のヒロインみたいなことを言う。名前だってこうなっちゃってるでしょ? そんなことを言われて、スカートの中をあばかれそうになったので悲鳴をあげて抵抗した。
「イヤだって!!!!」
「なにが? セックスが? それともオレが?」
「私は、だから、怖いんだってば!!」
「だから、なにが? セックスするのが?」
「セックスセックス連呼しないで!」
「セックスセックスセックスセックス……」
 殴りたい!!! 殴れない!!! 空からタライ、降れ!!!!
 タイミングとしては完璧だった。


「にいさぁぁぁぁぁあん!!!!!」


 耳を裂くような雄叫びと爆風。アルマゲドンとかマッドマックスとかそういうあれなかんじのやつを思う。粉塵とか換気扇のプロペラとか通気口の格子とかがガシャンガラガラと降ってきて、おそ松の背中や頭にガツンガツンと命中した。
「でッ! だッ、いっ!、あだッ!!!」
 てンめェ……十四松!! 涙目のおそ松が見上げた天井の大穴からは、確かにバッドを持った黄色いカッターシャツの男が顔を覗かせていたのだ。

「あはぁ、大丈夫にいさん!!」
「大丈夫じゃねェ!!」

 常識的に成立するのかという問題はさておき、起こっている事実として。十四松は、エレベーターが停止したすぐ上の階から乗り場のドアをこじ開けシャフト内に侵入したらしい。姿は見えないけれど、空いた大穴の向こうでは……「十四松兄さーん、中どんな様子?」「えっとねー、おそ松兄さんが名前ちゃんに覆いかぶさってる」「ちょっ、」「やっぱりね、んなことだろうと思ったんだよ」「ダイジョーブ! 二人とも服着てる!」「間に合ったか」「危ないところだったな」「まったく油断も隙もない」「ほんとほんと」――天下の有象無象たちのやりとりがこだましていた。

 隔絶されていた時間なんて体感とかけ離れて短いものだったけれど、そうして私とおそ松は無期限延長脱出不可能の密室地獄から救出された。

「十四松くん、よくドアをこじ開けられたね」
「鍛えてるからね!!」
 そういう問題? 残念ながら追求する暇はない。
 天井の大穴から引き上げられ、それからはお店に通され、丁重に謝罪され、メンテナンス会社や警察との事後処理のため明けて明日駆り出される運びとなる。救急車で病院に運ぼうかという申し出は先方の謝罪と同レベルの丁重さでどうにかお断りした。
 なにはともあれ「まさか自分が」の心境である。何よりびっくりしたのは、エレベーターがぶち壊されても営業する店の逞ましすぎる根性だった。なんて無茶するんだと怒鳴られている十四松すら日常に内包されている光景に過ぎないように見える。……なんて、あずかり知らぬところの事情は考えたって仕方ないのだけれど。
 それより、松野兄弟六人を中心とした在籍ホストや黒服、幹部店長ひいてはグループの社長の面々から、まるでVIPのように扱ってもらえたのはお姫様ここに極まれりって感じで、悪い気はしなかった。というか実際VIP席に通された。今後もしばらくは来店時こういう扱いを受けるだろうことは明白。パンピーからブルジョワジーに一足飛びだ。怪我の功名? いやいや、そんな甘い話。あくまでもお金を払って遊んでいる。

「名前!」

 結局それから、おそ松とは一言も喋れなかったのだ。彼も彼でいろいろな人に取り囲まれていたし、なんとこんな事故に巻き込まれてその日もまだ働くらしい。シフトの時間内だからって。私はといえば棚ぼたのちやほやに身を浸しすぎてもキリがないので、一時間くらいでトイレに行くふりをしてそっとお店から抜け出した。ていうか、私だって明日も仕事だし。早く帰らないといけないし。だから驚いた。声をかけられたのはビルの外に出てからだった。
「え、お、おそ松……」
「間に合った、歩くの速いよ、おまえ、」
「ご、ごめん」
「帰んの?」
「うん」
「どうやって帰んの?」
「タクシー……」
「しかないよな、二時だし」
「おそ松大丈夫? 弟に袋にされてたじゃん」
「平気平気。あのさ、これ足代」
「え、いらないよ。おそ松のせいじゃないし」
「オレじゃなくて店から。受け取れって」
「ど、どうも……」
 不躾に手を取り握らされた二枚の万札に、私は少し驚く。
 怒ってるように見えた。そんなのこれが初めてだったし、その上おそ松はぎゅっと掴んだ私の手首を離そうとしない。

「お、おそ松……?」
「……オレさぁ。なんで名前に怖がられるかわかってんだけどさァ。どうしようもないんだよね、こればっかりは。だって生まれた時から下に五人いるんだもん」
「え? なに言ってんの? 私おそ松を怖がったことなんか」
「いいよ今更、怒ってるわけじゃないし。前にも言ったけど名前にもう来るのやめたってなってほしくないだけ。オレは」
「え、え、来なくならないよ。えっと、なんか……。確かにおそ松のこと怖いよ。だって人気ホストだよ。思うでしょ。幽霊に嫉妬されたらどうしようって」
「違うね。そうじゃないだろ。わかるんだよ。名前はオレに触れることそのものが怖いんだよ」
「おそ松、」
 意味不明な本気には適度な冗談が付随してないと。怖いじゃないか。心のやわい部分に触れられるのって結局自分自身だけでしょうって、私はそう思ってるんだけど。素敵な恋人がいても友達が何人できても立派で優しいお父さんお母さんがいても、何人取り巻きがいても。何で埋めても寂しいものは寂しいのと同じで。子宮のベッドはシェアできても産道を二人同時に通ることはできないのと同じで。たとえ添い遂げても、どころか一緒に生まれても死ぬときはバラバラなのと同じで。体を合わせても一つの球になることはできないし、分かり合えたという認識がまず分かり合えてない。愛を売ってるおそ松のほうが、そこのところは詳しいんじゃないかと思う。
「どうしたらいいの?」
「…………」
「手、痛いよ」
「この後に及んで一線引くし」
「いっつも引いてるのはそっちでしょ?」
「ずっとこうやってきたんだよ」
 多分、兄さんって呼ばれてなかった頃から。どうしたらいいかなんて、オレが聞きたいよ。
 おそ松がまくし立てていることはとてもひとりよがりの論ではあったけれど、同時に私にとっても核心を突いていたから、多分二人とも苦々しい顔で対峙していたと思う。どうしたらいいかわからない。わからないなりに、のらりくらりの常套句は使わないことを選んだので、おそ松がおそ松でなくなってしまったような気がした。どうしろっていうの。恐れていながら、憧憬もあるから、だから気に入って、お金だってかけている。それじゃダメなの? 色恋営業してくれなくてもちゃんと通ってきたし。一線越えたら、それこそ終わりが来るでしょ。おそ松がどうするつもりで自分がどうしたいのかわからなくなる。
「……私おそ松のこと、好きだよ」
「知ってるよ」
「おそ松は私のことが好きなの?」
「言わない」
「はい?」
「だって間に受けてくれないでしょ、名前ちゃん」
「なんか、だって、どうするの。恋人になって、貢いで、もしくはお金を払わずにおそ松といろいろできて?」
「人間扱いしてよ、オレだって人並みに感情とかあるんだけど」
「貢いでくれる子、部屋貸してくれる子、性欲の処理に付き合ってくれる子、すごく話の合う子、趣味に付き合ってくれる子、いろいろいろいろいるでしょ。ホストなんだから」
「いるけど」
「恋心処理係とかになっちゃわない?」
「それが名前じゃなきゃ嫌なんだけど」
 おそ松にそんなふうに見てもらえてるなんて震えるほど嬉しかったけど、既に噛み合っていない。泣きそうだ。
「今のままが良くない?」
「今のままって言うけどね、しばらく続けて、どうせまたこうなるよ、オレ。我慢してきたの。現状維持の方が異常だったの。名前さ、知ってる? エレベーターの非常呼び出しボタンは連打じゃなくて長押ししないと繋がらない」
 知らなかったし、知ってて言ってくれなかったおそ松はずるい。だってそんなの健気じゃないか。悔しいけど胸がぎゅっとなる。
「わかっててわざと連打してんのかと思って、ちょっと嬉しかったし」
「わかってない」
「残念」
「駆け引きが上手だね、さすがホストだね」
「そんなんじゃねぇよ」
「密室でちゅうしておっぱい揉んじゃって、本気になっちゃったんだね。ちょっとツンケンしたタイプのお客だったから、燃えちゃったんだね、わかる? こういうの言い出したらキリないの。既に破綻してるの。私にとっては現状維持の方が自然なの。おそ松には無理でも」
「わかるよ、わかる。でもオレの言い分としては、名前といると自分のやってることが間違ってる気がしてきてさ、なんか……。こう言うと逆に聞こえるけど、そうじゃなくて、そばにいてくれないと困るんだよ。単純に言うと、そういうこと」
 それってきもちい? と聞くと、気持ちいけど、苦しい。とおそ松は言う。映し鏡だな、と思った。
「気持ちいいことってやめらんないよね、わかる」
 私もおそ松に対して同じものを見ていたし。こういうのを共有してしまうと、分かり合ったような気になってしまう。心や体がちょうどよく擦り合うのは気持ちいいのだ。終わるときにはホストの手口に騙されたとか、他の客と浮気されたとか、私の仕事が忙しくてとか、飽きられてとか、軽くてとか、そういうテンプレートで片付くんだろうと私は未来を見る。悪くないような気がした。馬鹿になることは構わなかった。手軽な逃げ道もちゃんとある。おそ松の言った通り、私は松野おそ松という人がずっと怖くて仕方なかった。
「十二時にちゃんと帰れてればもう少しこのままでいれたのに」
「そうかもね。シンデレラを口説き落とすにはオレってちょっと王子様力足りてないし」
「わかる、ホスト向いてるけど、向いてないよね」
「やめよっかな、その方が名前も喜ぶ?」
「それはそれで長続きしない気がする……おそ松がじゃなくて、私が」
「わかる」
 未来の話をしてしまった。もう了承したも同然なのに、おそ松は「返事、今じゃなくていいよ」と言って私の頭を撫でた。
「その代わり、ちゃんとメモ読んで」
「メモ?」
「諭吉の間に挟まってっから」
「……これ、今じゃなくていいって、すぐじゃん」
「でも今じゃない」
 出来レースだった。気持ちに捺印したら、怖いことはグッと減る。
「オレ戻らなきゃ。一応仕事中だし。じゃあな、おやすみ」
 おそ松は鼻歌を歌いながら踵を返す。
 有無を言わせず。私の返事なんかどうだっていいんじゃないの? やっぱり相変わらず彼が怖い。それでも、後ろ姿を見送ってしまう。

 ふと、見上げると、第六トーアビルの屋上に女の人が立っていた。
 血みどろでも長い髪でも、体のどこかが透けてもいない。すごく普通の女の人。怖くはなかった。けれど、封鎖されているはずの屋上からまなざす瞳は、当然のように私を見ている。悲しそうだった。ネオンの照り返しがその人の涙みたいだな、と思う。

【待ち合わせしよう、午前三時に上がれるから。先に向かいのホテルの六〇一号室で待ってて。おそ松より】

 誘いに乗ったら屋上に立つのは貴女になるのよ。
 わかってる。

 第六トーアビルの第何番目かもわからない幽霊になるなんて御免だけど、走り書きの文字を読んでから胸の早鐘が止まってくれない。あと一時間足らず。午前三時の私は、自宅に向かうタクシーの中か、それとも向かいのホテルの一室にいるのか、どっちなんだろう。二つにひとつ。いっそこのままここで殺してもらえたらいいのに。あなたに。

 幽霊に?
 「違う……」

 濡れた道路を蹴った。
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