物静かなネオンに染まる

目が覚めると体中に汗を掻いているのを感じて、右手でゆっくりと布団を払いのけた。脇や首筋はしっとりと濡れていて、外気に曝されると心地がよい。頭が割れるようにガンガンと鳴っていて、私はそろりと上半身を起こして壁により掛かかる。5分ぐらいそのままの姿勢でいると、風邪の前兆のような頭痛はゆっくりと引いていった。
窓を見ると、ベージュのカーテン越しに薄暗い光が差し込んでいる。寝汗にしては気持ち悪いくらい濡れた前髪をかき上げると、携帯の画面をつけた。時刻はすでに17時を回っている。

「最悪…。」

そう呟きながら私は立ち上がり、洗面台の前に立つ。鏡の中の自分は予想通り目の周りが真っ赤に腫れていて、昨夜泣き腫らしたことが一目でばれてしまうような顔だった。元来可愛くもない顔だけれども、これでは尚更だなと思い顔を洗う。今後の予定など何もなかったが、寝汗を流すためにシャワーを浴びることに決めた。
思えば昨日は最悪の日だった。大学生の時に付き合った彼氏とは卒業と同時に、婚約者がいるからと別れを告げられ、二股をかけられていたことを知った。そんな経験を経て恋愛には敏感になっていたはずだったが、昨夜は花街で露出度の高い風俗のお姉さんと腕を組んでいる今彼−もとい元彼と遭遇してしまったのだ。
別に恋愛ではないのだから、他人と体を重ねるぐらいとやかく言うつもりは無かったのだが、実際その光景を見るとついカッとなって怒ってしまった。しかもあいつは怒りをぶつけた私に対して「お前、気分のらないとシてくれないじゃん。」と言ったものだから、こちらも収拾がつかなくなってしまったのだ。
体が目当てだったのか、と。
そんなこんなで全く男運の無い私は気付けば朝まで一人酒をしていて、起きていたそのままのテンションで会社に体調が悪いから休むと電話を入れた。もちろんいまから8時間以上前に。
シャワーで体の汗を全部流しきって、氷が入った水を一口飲んだ。社会に出て五年は経つけれど、未だに人間関係が少し拗れたぐらいで会社を休むような駄目な自分は社会人失格だなと思いながら、これからどうしようか考える。明日は土曜日でもともと仕事はないのが、狂ってしまった体内時計は今から私を寝かしてくれることはなさそうだった。

目元が腫れているのを隠すために黒縁の眼鏡をかけて、お気に入りの服を着た。下着はセットアップの赤に、ネイビーの膝上ノースリーブワンピースに薄手のコートを羽織って、この間購入したレースのヒールを履く。それだけで少し元気が出てくる気がして私は少し笑顔になる。
どうせ明日は休みなのだから遊びきってやろうと思い外に出た。正直そこまでハッピーな気分ではないのだけれども、何かしないと気が済まないのも事実ではあり、定期券を改札に通す。いつも仕事で降りるはずの駅を通り越すと、電車の中には昨日元彼の腕に縋り付いていたような、派手な格好の女性達がちらほら見え隠れして慌てて目を逸らした。
別にあの人達の仕事にとやかく言うつもりは全くなかったが、そういう一時的な快楽や偽の愛情を貰うことも今の私のような心境の人間には必要なのかなと心の片隅で思う。
電車を降りると空はもう真っ暗なのにも関わらず、ホームには人が溢れかえっていてそれに圧倒されながらも、私は眼の前を歩く派手な格好の彼女達を追いかける。時間と体を売って他人を幸せにして−ついでに私の幸せを壊していく彼女達の生態にも興味があったし、なぜか昼間の自分たちとは全く別世界の彼女達についていけば夜一人で泣かなくてもいいような気がした。
明るい蛍光灯が光る改札を抜けて、迷路のような階段を上がる。新宿駅東口から北に向かって歩くと、駅よりも一層明るく光を放つ歓楽街が待ち受けていた。綺麗に化粧を施した若い女性達が練り歩き、飲み屋の客引きに混じって黒スーツの男性達がチラホラと見える。
職場の先輩達からは夜に一人で行く街ではないよと言われたことがあるけれども、ここに着てしまった手前引き返すことも出来ないまま、私は脇に抱えたバッグをしっかりと持ち直した。新宿歌舞伎町独特の雰囲気に飲み込まれながら、明るいネオンの光が私を照らす。
何人かの客引きを断りながら、うろうろと昼間よりも明るい光の中をさまよい歩く。ここにいる人々は皆幸せそうな顔をしていて、私は心底うらやましくなった。昼に歩いた時とは全く違う人の種類と喧騒に押されながら、少し疲れて路地に足を踏み入れる。
暗がりの路地はすえた臭いとゴミが積まれており、数羽の鴉と猫がそれを取り合っている。足の疲れと気持ち悪い臭いに座り込むと、後ろから声をかけられた。

「あんた、こんなとこで何してんの…?」
「え?」

慌てて顔を上げると、右手にマルボロを持った黒スーツの男が目に入る。男がジャケットの中に着ているシャツも黒に近い灰色で、青とも紫ともつかないネクタイをラフに締めている。乱雑に捲りあげられた上着から伸びる、細くて筋張った手首にはいかにもホストですというようにごついロレックスが巻かれていた。
男はめんどくさそうに私のことを見下ろすと、そのまましゃがみ込む。光に照らされて反射する磨かれた革靴がキュッと音を立てた。

「何してるって…休んでるんですけど。」
「…そこさ、俺の場所なの。」

男は私がしゃがみ込んでいる隣におかれている、銀の食器皿を指さす。形状から動物用のものなのだろうが、男の言っていることの意味が分からず私は首を傾げた。

「ここ路地裏ですし…このお皿がどうかしたんですか?」

男は私のことを見つめたまま、煙草の煙を吸い込む。私がそのまま動かないことにいらだったのか、男は私の顔に向かってそのまま煙を吐き出した。
自分で煙草を吸ったことがなかったため、ヤニ臭い独特の香りは私の鼻粘膜を刺激し咳を誘発した。ゴホゴホと咽こみながら、涙目で男を睨みつける。

「一体…なんのつもりですか!?」
「ココ、俺が毎日猫に餌やってんの。」

渋々立ち上がると、男はポケットから無造作に猫缶を取り出して皿の上に置く。寄ってくる鴉を手で払いのけると、猫が缶詰を食べ始めた。
全く気分転換に夜の街に遊びに来たというのに、こんな男と話さなければいけない羽目になるなんて最悪だ。そう思いながら、猫の頭を撫でる煙草を咥えたホストを見る。生きていることに疲れたようなその顔は、猫の頭を撫でながら少し笑っていた。

「…そういえば、あんたさ、これから暇でしょ?」
「そりゃあ…暇ですけど、ホストの誘いですか?」
「そうそう…もうこんな時間でしょ。俺さ遅刻すると怒られるから、同伴ってことにして店に来ない?」

男はめんどくさそうに、ボサボサに髪の毛を立てた頭に手をやって尋ねる。私は足元に目をやりながら少し考えた。正直男なんてもうこりごりだったけれども、ホストなんて商売は色恋沙汰とはまた無縁の世界だ。どうせなら一時の夢に元彼のように溺れてみてもいいのではないかと思い、財布に入っている金額を必死に思い出す。
あいつがハマった、そういう遊びがどういうものかにも正直興味があった。

「…迷ってるってことはOKなんだ?」

そう言って、男は右手の煙草を壁にぐりぐり押し付けて火を消した。胸ポケットから濃い紫色の名刺入れを取り出し、私の手に押し付ける。
立ち上がった男は私よりも少し上背が高く、壁と壁に挟まれた細い路地裏での覆いかぶさるような態勢に少しの動揺を覚えながらも、私は男の名刺を受け取った。

「一松。No.665ってとこでホストしてる。」

俺たち兄弟が6人で女の子をホストするっていう、阿保みたいな店だよ。と彼は付け加えた。正直ホストには向かないんじゃないかと思うほど無口で無愛想な一松さんは、私の開いた左手を掴んで、雑踏の中を歩き始めた。
普通ホストの客引きなら、客である私に対して少しは笑顔で対応すべきだと思うのだけれども、彼は全くそういうことをせず、人にぶつからない様にだけを気を付けて一直線に店まで歩いていく。なんだか変なホストのお兄さんだなと思いながら、それでもどうでもいい気持になっていた私はおとなしく彼に従った。
人混みをかき分けて歩いて行くと、知らない路地を幾度か曲がって、ピンク色のネオンが光る界隈に出た。露出の高いお姉さんや一松さんと同じような黒スーツの男性が、おそらく客だろう人々を従えて闊歩している。
初めてくる場所にそわそわしながら目を走らせている私を、彼はチラリと確認しながら何も言わないまま、黒塗りのエレベーターのボタンを押した。

「私ホスト初めてなんですけど…。」
「知ってる。俺の客みたいな顔してくれればいいから。」

少し心配になって一松さんに話しかけるが、彼はどうでもいいというように適当な答えを返してきた。一松さんの客って…こんな無愛想な男に客が付くのだろうかと思いながら私は彼の顔を見上げた。
きっとこういう一松さんみたいなタイプの人間にとっては、接客業自体が大変なのだろう。黒塗りに金文字でNo,665と描かれたドアの前で、一松さんは一度立ち止まり、ネクタイを直した。



「一松、お前また遅刻か…っ?」

一松さんについて中に入ると、そっくりの顔をして青のシャツを着たお兄さんが、彼に声をかけかけて、私のほうに目をやった。それとほぼ同時に扉から見える赤いソファーに座った女性客から黄色い歓声が飛ぶ。「一松君!」「遅いよー!待ってたんだから!!」「今日も沢山開けちゃうから、早く隣に来て!」などなど。
当の本人はというと、おざなりにも笑顔を作って手を振っていた。

「今日は同伴の子いるから、遅刻じゃないから。…カラ松兄さん。」

ひとしきり女の子たちに偽の笑顔を振りまいた後、一松さんは青シャツの男性を見て不敵に笑う。壁に駆けられている写真の順番を見れば、一松さんは一番じゃないにしても2番3番を争うぐらいの人気ホストのようだった。

「…一松が同伴って、珍しいな。」

青シャツの男はそう呟きながら、手にしたボトルを持ってテーブルに戻っていく。シャツから覗く重たそうな金属チェーンがジャラリとなって、胸に掛かったサングラスと相まっていかにもイケている男を装っている風だった。

「…これで給料天引きされなくて済む。…ええっと、名前なんだっけ?」
「…名前ですけど。」
「ありがと、ついてきてくれて。」

後ろを振り向いた一松さんは、人が変わったかのように口角をねじ上げて私の名前を聞いてきた。最初に出会ってから10分以上たっているのに今名前を聞かれたってことは全然興味ないってことじゃんと思い、私は不貞腐れながら返事を返す。どうやら彼は店の中でも無愛想を貫き通しているようだった。
それから私は一松さんに案内されて、人生初めてのホストを経験した。最初は15分毎ぐらいに一松さんの兄弟たちが次々と来て名刺を渡していった。皆個性の強い人ばかりだったけれども、落ち込んでいた私の心を晴らしてくれるぐらいには話が面白くて、私がもともと持っていたホストに対する固定概念が覆される思いだった。
もちろんナンバー1ホストのおそ松さんなんかこれでもかというぐらいレディファーストで、私のほうが圧倒されてしまうぐらいお姫様扱いされた。

私は時折一松さんがほかの女性客を接待しているのを目で追いながら、場の雰囲気を楽しんでいた。彼は6人のホストの中でもとびきり無愛想で口数が少なく、主に女性客たちから彼に話しかけるというスタンスが見て取れた。
一松さんが時折乱暴につぶやく言葉に、女性たちは喜び歓声をあげるが、当の本人はというとさして面白くもなさそうに下を向いている。どうやら無愛想の性格が逆にうけているという感じだった。



「…ごめん、お待たせ。」
「ん?別にいいですよ。全然一松さんのこと待ってませんし。」
「あ、そう。…それにしては楽しんでるみたいだね。」
「始めてきた場所ですけど、落ち込んでた気が少しは晴れました。…その点は連れてきてくれた一松さんに感謝してます。」
「あんまり、こういうとこ好きそうには見えないけど。」
「…もうこないと思いますけど、気晴らしにはなったっていうことですよ。」
「へぇ。」

やっと一通り挨拶して私のところにきた一松さんはさして関心も示さずに、マッチを擦って煙草に火をつけた。椅子に座って肩幅に広げた両ひざに両肘をつきながら、気怠そうに煙草を吸うその姿はとても楽しんで仕事をしている人間には見えない。
男なんて浮気はするし、大勢の女を囲ってなんぼだという考え方が多いのかと思っていたが、彼はチヤホヤされても全く喜ぶそぶりをみせないものだから、私は少し気になって聞いてみた。

「一松さんって、仕事好きですか…?」
「…嫌い。」
「女性にチヤホヤされるの嬉しくないんですか?」
「あいつらは煩いから、好きじゃない。」

一松さんは口の中に含んだ煙を吐き出す。灰色の煙が明るい店内の照明と被って濁るように消えていった。私はそんな彼を見ながら、なんていうかとてもモヤモヤした気持ちになった。
当然仕事なんてみんな好きでやっているわけではないけれど、こういう接客業で率直にそんなことをお客さんに言うなんて良くないのではないだろうか。そんなことを考えながら彼の顔を見ると、彼は何処か遠くを見るような目で低い天井に掛かったシャンデリアを見つめている。

「でも、ホストって接客業じゃないですか…あんまりそういうことハッキリ言っちゃいけないんじゃ…。」
「…そう思うでしょ。でも、彼女達は俺が思ってることはっきり言っても喜んじゃうの。…その辛辣な言葉が好きって。」
「はぁ。」
「彼女達はさ、結局俺の事見てるようで見ていないわけ。…こういう喋り方も、多分きつい言葉も彼女達とっては、俺のキャラづくりの一環なんだと思う。」
「じゃあなんでホストしてるんですか…?」
「俺らニートだったんだけど、兄貴が兄弟でホストやろうって言い始めたから。最初は面白そうと思ったけど、結局人と話すのってめんどくさいからさ。…おそ松みたいにゲストを喜ばせることがホストの本業だとは思うけれど…。」

そういう一松さんの横顔はどことなく憂いをはらんでいて、こういう他人に一時的な夢を売る仕事にも葛藤があるのだと知った。私は彼に何も言えなくて、何も言う権利なんて無くて、口をつぐんだままお酒に口を付ける。
きっと来店前に猫に餌をあげて一人気持ちを静めるのも、彼なりの息抜きの仕方なのだと思うと合点が言った。夜も騒がしく夢の街でありつづける歌舞伎町にも、こんな悩みを抱えたまま仕事をする人がいるのかと思うと、なぜか鉛を飲み込んだような気持ちになる。
一松と彼の名前が呼ばれて、一松さんは一度席を外した。呼ばれた先のお姉さんは先程からずっと一松さんのことを目で追いかけていて、今も頻りにアフターに誘っている。彼のような男性に抱かれて一晩の夢を見たい女性だって、彼の性格をキャラ作りの一環だと捕らえればもちろん沢山いるのだろう。

「ごめんね、名前さん。一松また取られちゃって。」
「いえいえ、全然気にしてないですよ。」
「そんなこと言いつつも、名前さん来店してからずっと一松の事目で追ってる。…一松のこと気になるの?」
「いえ、そんなんじゃ…。」
「…俺としてはさ、一松が気に入られることは嬉しいんだけどね。一松が同伴の子連れてきたのも、ここ1年ぶりぐらいだし。」
「そうなんですね。私も半ば無理矢理でしたから全然気づきませんでした。1年前はよくあったんですか?」
「うーん。こんなこと言っちゃっていいのかな…。」

一松さんの代わりに隣に座ったおそ松さんは、グラスに酒を注ぎながら一松の方に目を走らせた。顔がそっくりなのにおそ松さんはとても出来る男風で、適当に客をあしらっている一松さんと比べれば完全に出来たホストだ。

「一松はさ、1年ぐらい前にここに良く出入りしていた女の子に恋をしていたんだけど…。そ、まぁ、簡単に言うと騙されて振られちゃったわけ。」
「…。」
「それからかな一松が接客も適当になって、同伴もアフターも全然取らなくなって…。まぁあいつはもともとアフターはその女の子としか行かなかったんだけどね。…要するにホストにしては真面目過ぎるんだよ。」

俺と違ってね、と言いながらおそ松さんが笑う。ウイスキーグラスに入った氷がカラリと音を立てて崩れて、私は唾を飲み込んだ。目が自然に猫背に曲がった一松の背中を捕らえ、なぜかもの悲しい気持ちになる。彼は私と同じ人種だったのか。

「なんで私にその話をするんですか…?こういうのもなんですけど、おそ松さんにとっては何の利益も無いような気がするんですけど…。」
「…うーん。名前さんが一松が連れてきた女の子だからかな。単純に兄としても弟に幸せになって欲しいわけ。」
「…。」
「あ、もちろん俺が言ったことは一松には内緒だよ。ばれたら俺、絶対怒られるから。」

そう言っておそ松さんは立ち上がる。代わりに一松さんが首筋に付けられたキスマークを拭きながら席に戻ってきた。眉根には皺が寄っていて、心底嫌そうな顔をしている。

「あの女性とアフター行くの?」

そう開口一番発した私を、一松さんは睨み付けるような目で見下ろした。きっと彼は誰ともアフターは行かないだろうし、そのことを私が触れたことを怒っているのだろう。乱暴にソファーに腰をかけると、彼の体重の分だけソファーが沈み込み私の体が彼の方に傾いた。

「ねぇ、誰とも仲良くしないのは、誰にも裏切られたくないからなの?」
「は?…そんなこと誰が言ったの。」
「別に誰も…。私も昨日彼氏に裏切られたばっかりだから、なんとなくそういう感じなのかなって思って聞いてみたの。」
「ふーん。…だからこんな時間にあんな場所で蹲ってったってわけね。」
「でも、それって多分損だよ。」

私の口は自分でも驚くような言葉を吐いた。何度も男に裏切られて、傷ついた私の心は強くなったのだろうか。それとも心の何処かではそれが事実であることをわかっていたのか。多分損だよ。と言った自分の言葉が胸の中に染みこんで、私は少し苦しくなる。
何度裏切られても、他人を信じようとしなければ今後他人から信頼される可能性など皆無なのだ。

「…そうかもね。」
「一松さんは一生懸命ホストして、また誰かに恋をしてしまうのが怖い…?」
「…。」
「女の子達は、一松さんに夢をもらいに来てるんだよ。もちろんその場限りだって事を多くの子はわかっているはず。…ありきたりだけど、世の中沢山女性はいるし…さ。」
「…おそ松からなんか聞いたでしょ。」
「いや、それは…。」
「本当にあいつは、俺のいないとこでこそこそと人の噂話しやがって…。まぁ、ともかく。その話聞いたお客はみんな俺に向かって可哀相とか、私が慰めてあげるって言ってキャッキャ騒ぐんだけど…名前は違うのな。」

突然名前を呼ばれて私はドキリとした。一松さんは私の名前を呼びながら、煙草の火を灰皿で消す。名残惜しそうに口から灰色の煙を吐き出すと、私の手を掴んだ。

「あいつらとアフターは行かない。…名前となら行ってもいいけど。」

テーブルの上の灰皿の中では、まだ完全には消えていない煙草の火が赤い炎を零している。私の言葉が図星だったのか、彼は「どうせ嫌われるなら最初から仲良くなんてなりたくないし、それを仕事割り切れるほど上手く生きれない」とボソリと呟いた。他人を騙す商売なのに、裏切られるのが怖くて頑なになる一松さんが少し自分に重なって、ついつい首を縦に振ってしまう。

「全然俺に向かってきゃあきゃあ騒がないから、そういうの本当に助かる。…何も俺に期待してないでしょ?だから楽なんだよね。」

そう言って一松さんは私の手を取り立ち上がった。慌てる女性客を差し置いてもう一度黒塗りのエレベーターを降りると、歌舞伎町のネオンは華やかに私達を迎えてくれた。
これは傷の舐め愛かも知れない。男に騙された私と、女に騙された一松さんはどちらも誰かの信頼が欲しいのに、だれも信用できないでいる。
カツンカツンと私のハイヒールが音を立てて立ち並ぶビルの隙間に反響した。一松さんは私がかけている眼鏡をゆっくりとはずす。昨日泣いたでしょ?と呟く彼の言葉に私はただただ首を振った。
細い指が顎を支えて、彼の唇がゆっくりと私のそれに重ねられる。深夜の歌舞伎町の路地裏ビルの隙間で柔らかなネオンの光に包まれながら、私の影が彼に重なる。
信用していいんでしょ?そう悲しそうに呟く一松さんの瞳を私はずっと見ていた。
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