ぬくもりと夜の迷子
上機嫌で帰ってきたおそ松兄さんがへらへらと笑いながら缶ビールを数本と適当な菓子類を入れたビニール袋を僕たち兄弟の眼前に突き出してきた。
競馬で勝った、らしい。
まぁそんなことだろうと思った。
十四松やトド松が手放しで喜んでいるなか、僕はと言えば興味なさそうに少し離れたところでその様子を見つめていたが卓袱台にそれらが置かれていくと、あたかも当然のように僕もその輪の中へ歩み寄る。
僕は弟達のように素直になれないクズ。歩く産業廃棄物。燃えないゴミだからこうやって皆で楽しく宅飲みなんて時も場を盛り上げることもできない。
むしろ口を開いたら雰囲気を悪くするだけだから黙ってちびちびを酒を口へと運んでいく。
酒にあまり強くないクソ松ですら計算なのか天然なのか知らないが(知りたくもないが正しい)周りにつまみを勧めたりしているのを見て、なんだか気分が悪くなった。
この中で僕だけが取り残されている感覚。そんな感情を抱いていたくなくて、コンビニ行ってくると誰にでもなく告げるといつものダサいサンダルを履いて外へと出るとやはりパーカー一枚では肌寒い。
…マフラーとか巻いてくればよかったな。

「チッ」

舌打ちをしてから少しでも寒さを凌ぐように背中を丸めながら宛もなく歩いていくと、いつも猫のたまり場になっているコンビニ近くの路地裏周辺のオフィス街へたどり着いていた。
そのビルの一角から人が出てくるのが見えて、ぼんやりとその人を見つめていると不意に視線が絡まる。
淡い、色素の薄い少しだけ目尻の上がった猫のような瞳に何故だが釘付けになってしまってうっかり目を逸らすタイミングを失ってしまった。

「…あの」
「…は?」

人通りもないそこへ静かに響く、凛とした声が耳に心地よく染み込んでくるのを理解した時には、考えるよりも先に自分の口が開いていた。
彼女がすみません、と遠慮がちに目を伏せながらも僕の方へ歩み寄ってくるのをただじっと見つめていると再び僕を見つめているようで、ずっとその先を見ているようなぼんやりとした視線をこちらへ送ってきたので気まずく思った僕は自分のサンダルから少しだけ出ている爪先へと顔を落とした。
…あ、爪伸びてる。
名前も知らない女から声を掛けられたという全く現実味のない状況の中で、僕の脳内だけはそんな下らないこと考えていた。

「見知らぬ方にこんなこと話してしまうのは気が引けるんですけど…少しだけ、私の話に付き合ってはいただけませんか」

この目を僕は知っている。
何かを諦めたような、絶望したようなそんな感じ。
先程の家でのいたたまれなさを思い出し、眩暈がしそうになった。
同情めいた感情に抱かれた僕の頭はただ無愛想に頷くことしか出来ず、相手はこの態度に気分を悪くしただろうかと不意に顔色を伺えばそんなことも露知らずといった様子で微かに笑みを浮かべていたのを見て、思わずため息が漏れる。

「お名前、聞いてもいいですか」
「…松野一松」
「松野、さん」
「一松でいい」

名字で呼ばれるのは嫌いだ。
僕自身の名前を呼んで欲しくて、そう言うと彼女はまたオウム返しに「一松さん」と呟いた。

「苗字名前です。
あの、突然引き止めてしまってすみません…」
「いやいいよ、別に」

未だふわふわと覚束無い感覚の中、やけにひんやりとした冷たい風が頬を撫でこれが本当に現実だと自分に示しているようで、なんだか居心地の悪さを感じる。…まぁ、他人が隣を歩いているんだから違和感を感じないほうがおかしいのだけれど。

「とりあえず、歩こう」

その場で立ち止まったまま、なんとなくそこだけ時間の流れがなくなったというかやたらと遅くなってしまったような錯覚を起こしそうになり、とりあえず今のこの重たい空気感から脱したくて半ば強引に歩き出すと、彼女…苗字さんも慌ててこちらへ寄ってきた。
歩くのすら大変そうな黒のヒールが軽快な音を立てる。
こんなものを履いて一日中動き回るなんて僕には考えられない。社会人てほんと大変なんですね。
毎日毎日ご苦労様です。
他人事のように心の中で僻みにも似たセリフを吐くと、そんな気も知らないような顔をして彼女がぽつりと話を始めた。

「…私、今の職場は嫌いじゃないんです。でも、私より後輩のこの方が遅く出勤してきて仕事もまだ終わっていないのに退社する…それを容認している同僚も、私を過大評価して明らかに分不相応な仕事を与えてくる上司にも…その、なんていうか…」
「嫌気がさしたの?」
「…はい」

急に言いづらそうに口篭る彼女の代わりに一番欲しいであろう言葉を投げかければ素直に頷く。
きっと普段から人の悪口だったりを零せない人なんだろう。
僕は社会に出たこともないし、バイトだってそんなに長く続いた事のないニートだからそういった感情に共感出来るとはとても思えない。
なんて言葉を掛けていいかしばらく迷っていたが、行く宛もなく歩き続けていてはいつ家へ帰れるか分からない。僕はともかく、彼女は女の子だ。

「…苗字さんの家、どこ。送ってく」
「えっ、そんな…」
「今更迷惑とか、言えないでしょ」
「う…」

さっきより少しだけ砕けた表情を見せた彼女が、素直に道を案内しだす。
その間も時折愚痴を零していた彼女だったがあるマンションの前で止まると、不意に鞄からスマートフォンを取り出した。

「今日はありがとうございました。良かったら今度お礼させていただけませんか…
一松さんの話も、聞きたいですし」
「…は?」
「嫌だったら構わないんです!…出過ぎたまねをしました。ごめんなさい」
「嫌じゃないけど」

って、僕は何を言っているんだろう。
僕の話を聞きたいなんていうセリフに驚いたのを勘違いされ、彼女がそのままマンションの中へ帰ろうとした途端口が勝手に動いていたのだ。
今度は僕が彼女のことを引き止めてしまった。

「LINE…教えて貰っていいですか」
「…うん」

家族以外に登録のないLINEを開いて友達追加画面へ移行する。
IDを読み上げると彼女はそれをゆっくりと繰り返しながら打ち込んでいく。
しばらくすると苗字名前とポップアップが表示されたので迷わず追加ボタンを押す。
トップ画面は友達と写った写真と、ホーム画面には可愛らしいアメリカンショートヘアがこちらを見つめていた。
へぇ…猫、飼ってるんだ。

「じゃあ、もう遅いし帰る」
「あっ、本当にありがとうございました!お気を付けてください!」

背中に彼女の言葉と視線を受けながら踵を返す。
家からそんなに遠くない彼女のマンションを見上げると、視界の端に未だ手を振っている彼女の姿が写る。それは、僕が路地を曲がるまで続いていた。


翌朝、着信音で目が覚めた。
あまり使わないスマホのロック画面には苗字名前と書かれている。
心臓が高鳴ってすぐに開くと“おはようございます。昨日はありがとうございました。一松さんが良ければ、今夜もお会い出来ませんか?晩御飯などご一緒したいのですが”と丁寧な言葉遣いでお誘いを受けてしまった。
それを見た僕の頭はまだ朝の8時だというのにすっかり冴えてしまって、今夜の予定を確認するがニートである僕に予定があるはずもなく断る理由すらなくて、“まぁいいけど”とついそんな一文を送ってしまう。すぐに返信したのに既読がつかない。
それに少しだけ複雑な感情を抱きつつも、今日の夜どうやって兄弟たちにバレずに外出するかを、考え始めた。

返信が来たのはそれから数時間経った頃、ちょうど12時だった。
お昼休みだという彼女が、仕事が終わり次第連絡しますとメッセージをくれ、それに了解の返事をした後それで終わりかと思った僕はスマホを置くと、数分後にまたそれが震える。彼女からだ。
“一松さんも猫好きなんですか”
…そういえば、野良猫の溜まり場に行った時に撮った写真をホーム画面に設定してたな。
“好きだよ”と送ると何だか彼女に対して言っているみたいで恥ずかしくなった。しばらくトーク画面を見つめていたがやはり既読がつかないので気にしないようにしようとちゃぶ台の前に六つ揃っている座布団の下へスマホを置く。そのまま例のごとく猫の溜まり場へ行こうと腰を上げ、猫缶を台所から取り出し家を出たため彼女からのLINEの返信に気付いたのは四時間後とかだった。
幸いそれが猫の話に対する内容で、どうやら仕事が終わったという連絡では無かったようだ。
もうすぐ時計が五時を指す。畳の上でゴロゴロとしていてもどうしても時計に目がいってしまい落ち着かない。眠ろうと思って目を瞑っても逆に神経が研ぎ澄まされて、一向に眠れる気配がない。
ため息をついて、ちゃぶ台へ突っ伏した途端隣に置いてあったスマホが震えた。

僕のために仕事を早く切り上げたという彼女がよく行く居酒屋へと足を運ぶと、そこは僕たちがよくしる居酒屋とは違うお洒落で値段もそこそこの場所だった。

「私が出すので、遠慮なく頼んでくださいね!」

そう笑顔で言った彼女に心拍数が上がる。
…なんだ、そんな顔も出来るんだ。
適当に生ビールを二つ注文し、つまみをいくつか頼むとしばらくして店員が愛想良くビールジョッキを運んできた。
それから控えめに乾杯をすると、彼女の方から話を振ってくる。猫は飼っているのかだとか家族のことだとかを聞いてくる彼女に対して淡々と答えていく。

「お仕事は何されてるんですか」
「…してない。」
「…そうなんですか」

引かれて、軽蔑されるのを分かっててそう放った台詞に対して意外にも彼女は一瞬だけ言葉を詰まらせただけで、それからは何事も無かったかのようにふんわりと微笑みを称えた。

「じゃあ、一松さんに会いたくなったらいつでも会えますね」

柔らかな声が鼓膜を震わせる。
未だに微笑を浮かべる彼女の言葉に対する返事が浮かんでこない。
ただひたすらに僕の心臓が早鐘を打っているだけだった。



苗字さんと居酒屋の席で話して以来、僕は残業で遅くなった彼女のために会社の近くまで足を運び、家まで送り届ける…あるいは時々、本当に時々部屋に上げてもらい温かいお茶を貰って帰るといったことが続いた。
会う回数が増える度、彼女への気持ちは募るばかり。しかしそれと同時にやはり自分は良いように利用されてるのでは、と疑心暗鬼に陥ってしまう。
でも、それでもいいからと、彼女に会いたいと思ってしまうのだった。

「ほんと、馬鹿みたいだよね」

自虐的に呟いていつものように路地裏で僕を待っているであろう猫の元へ歩みを進める。
最近はもしかしたら会えるのではないかと淡い期待を寄せ、わざと苗字さんの会社近くの道から回って行くようにしているのだが、今日は運がいいのか苗字さんの姿を見つけた。
しかし横にスーツ姿の男を連れて。

…ああ、やっぱりね。
いやうん…わかってたよ。結局こうなるって。
わかってたけどさ、ちょっと…期待しちゃうじゃん。そんな態度取られたら。

「でもまあそういう僕を見て、面白がってたんだろうけど」

彼女に恋人が居ないって聞いていたわけでもなかったしね。
ぐずぐずと溢れ出す醜い感情を抑えるための言い訳を幾重にも重ねながら元きた道を引き返す。
今の僕は一刻も早く彼女の存在を頭から消したい気持ちでいっぱいだった。


家に着くとそこには誰もいなくてしんと静まり返っていて、いつまでも震えることのない僕のスマホとリンクしていてそれにすら腹が立った。
悲しみなのか怒りからなのかも分からない手の震えを気にしないふりをしながら彼女宛に文章を起こす。
“今後一切僕は連絡をとらないから”
できるだけぶっきらぼうに短い文を送るとそのまま画面をスリープモードにし、それと同時に僕も目を閉じ眠りにつけるように務めた。
…まあ、そんなことをしても余計に目は冴えるし頭はさっきからぐるぐると苗字さんのことばかり考えてしまってとても彼女のことを忘れることなど到底出来るとは思えず、ついスマートフォンのロック画面を確認してしまうがやはりそこには気持ちよさそうに眠る猫の姿があるだけで僕が一番欲しいと思っている文字は映っていないのだった。

そして僕のスマホが震えだしたのはそれから二日後の夜。ちょうど彼女と初めて会った日に僕が家を出たぐらいの時間だった。
反射的に画面を見ると苗字名前の横に“知り合って間もないのに甘えてしまって…”と文章が途切れているのが視界に入り、即座にアプリを開いてそれの全容を確認する。

“知り合って間もないのに甘えてしまってごめんなさい。つい一松さんといるのが居心地がよくて自分勝手に頼ってしまいました。
一松さんから先日のメッセージが来ていることに気付いて、私も距離を置かなきゃと思っていたのにどうしても頭から離れなくて…
今も、歩き慣れていたはずの道なのに一松さんのことばかり考えていたらいつの間にか道に迷っていました。
やっぱり私、一人では帰れないみたいです”

羅列してある文字を目で追った後、考えるよりも先に体が動いていた。
もう真冬で、パーカー一枚じゃ寒いとわかってはいても何かを羽織っている手間も、どこへ行くのかという兄弟たちの声すらも煩わしくていつものサンダルを履いて、転びそうになりながらも必死に息を切らせながら彼女の姿を探して走り続ける。

「…っ、みつけた…」
「! 一松…さん…」

嬉しそうな泣き出しそうな表情をした彼女を力いっぱい抱きしめると、震える手でそっと抱きしめ返してくれた。

「わ、たし…一松さんに嫌われたかと、思って…っ」
「ちがう…僕が勝手に、苗字さんと男が仲良さそうに歩いているのを見て、嫉妬して突き放しただけで…」

“ごめん、好きだよ”
耳元でそう囁けば彼女は大きな瞳にいっぱいの涙を溜めて「私も…一松さんのことが大好き」と小さくそのセリフを零した。
僕の腕の中で一生懸命にしがみついてくる小さな彼女をすごく愛おしく感じ、まるで壊れ物を扱うようにそっと丸く白い陶器のような頬に指を滑らせると、名前は潤んだ瞳をそっと閉じる。
その瞬間に、瞼の端から落ちた宝石のような涙を出来るだけ優しく拭いまるで互いのぬくもりを
共有するように唇を重ねた。

ぬくもりと夜の迷子

(これからは僕が道しるべになってあげる)

back

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -