すきときめきときす
 ここのところ仕事がとても立てこんでいて、くたくたに疲れていた。そのせいか、普段はこんなこと決してしないのに、夕飯を食べてからリビングのソファで横になっているうちに、あたしはすっかりうたたねをしてしまっていたのである。

「――名前」

 そんな折に、あたしの名前を呼ぶ声が頭の上から降って来て、あたしは浅い眠りの世界から引き戻される。重いまぶたをゆっくりもたげると、そこにシーリングライトの白い光が容赦なく飛び込んできて、思わずあたしは目をこすった。その眩しさに目が慣れ始めたとき、あたしは、あたしの顔を覗きこむカラ松の姿をようやくとらえることができた。カラ松の顔を知覚した瞬間、あたしは、何だかすごくほっとした気分になる。

「……今、何時?」
「10時を過ぎたところだ」

 10時過ぎということは、だいたい2時間くらい、ここでこうしてうたたねしていたことになる。どうりで、身体がずいぶんとだるいわけだ。リビングの、つけっぱなしのストーブのせいで、顔はほてってとても熱いのに、背中にかいている寝汗は不気味なくらいにつめたかった。

「……こわい夢見てたの」
「こわい夢?」
「顧客からの商品発注ミスしちゃって、会社に大損害与えて首切られる夢」
「リアルだな」
「うん、ちょうリアル」

 思い出しただけでもこわい。あたしがソファの上で寝返りをすると、カラ松はあたしの額をそっと撫ぜる。ほてったあたしの顔と相反して、カラ松の手はとてもひんやりとしている。

「カラ松の手、つめたい」

 あたしは、額を撫ぜるカラ松の手を引き寄せて、ほおずりをした。

「あついな、名前は」
「カラ松の手が冷たいんだよ」
「さっきまで、食器を洗っていたからな」

 こういうときあたしは、カラ松がいてくれて良かったなあとつくづく思う。なにしろあたしは、家事が大嫌いな究極のずぼら女なのだ。もし今日この家に、カラ松がいなくてあたし一人だけだったとしたら、夕食を食べたあとの後片付けは、きっと明日に持ち越しになっていたことだろう。

「いつも家事してくれてありがとう」

 彼の手にほおずりしながら、あたしは言う。

「名前はいつも仕事を頑張っているからな、これくらいは」

 カラ松がそんなふうにあたしを褒めてくれるので嬉しくなって、あたしは今度は、彼の手の甲に口づけをした。何度かそれを繰り返すと、カラ松の手はくすぐったそうにひるがえって、あたしの手からするりと逃げてゆく。物足りなくて、あたしがカラ松の方をじいっと見上げると、ふたたびカラ松の手が降りて来て、あたしの額を撫ぜた。さっきまであんなにひんやりとしていた手は、すっかりあたしの体温と混じり合っていて、そのやわらかな温度に、あたしはつい目を細めてしまう。

「ここで寝るなよ」

 額を撫ぜる手を止めて、カラ松は言った。あたしは薄眼で訴えるように、カラ松を見上げる。

「こんなところで寝てたら、風邪引くだろう」

 でも、だって、疲れてるんだもん、あたし。

「疲れてるならなおさら、こんなところで寝たら、疲れが取れないぞ」

 うん、それは、わかってるけど。もう疲れて、動けないんだもん。

「寝室なんて、すぐそこじゃないか」

 いやだいやだ、あたし、もう一歩も動きたくない!

 あたしはそんな、埒が明かないことを叫びながら、ソファの上で手足をじたばたさせてみる。そうするとカラ松は、そんなあたしを見て、困ったみたいに眉尻を下げて笑う。あたしがわがままを言うと決まって、カラ松はこんなふうな表情をする。あたしは、カラ松のこの表情が、たまらなく好きだ。

「まったく、困ったお姫様だな」

 カラ松はお得意のきざなセリフをつぶやいて、駄々をこねるあたしの膝と腰に腕をまわし、かるがるとあたしを抱き上げた。ソファでうたたねしていたせいでだるくて重かったあたしの身体が、途端に重力から解放されたように、ふんわりと軽くなる。カラ松の首元にしがみつくように腕をまわして、首筋に顔を近寄せたあたしは、今度はそこに何度も口づけをした。

「そんなことされると力が抜けるだろ」

 カラ松は、あたしのキスから逃れるように首を逸らしながら言った。

「あたしのこと落としたら許さないから」

 わざと意地悪く言って、あたしはことさらに、キスを繰り返してやる。カラ松は、「本当に困った女だぜ、マイハニーは」なんて言いながら、気取ったように息を吐いた。そんなやり取りをしているうちにも、あたしたちは寝室に辿りつく。ストーブをがんがんに効かせたリビングと違って、寝室はぴんと張り詰めたようにひえていた。寝室のまんなかをどうどうと陣取るダブルベッドに、カラ松がゆっくりあたしの身体を横たえると、シーツのつめたさにあたしは思わず身震いしてしまう。

「おやすみ」

 カラ松はあたしの身体に丁寧に毛布と掛け布団をかぶせてから、あたしの髪を指先で梳くように触れて、ささやいた。やがて踵を返して寝室を出て行こうとするカラ松の腕を、あたしはベッドから手を伸ばして引きとめる。

「?どうかしたか」

 カラ松はきょとんとした顔であたしを振り返った。

「一緒に寝ないの?」
「まだ洗濯と風呂掃除が残っているからな」

 洗濯もお風呂掃除も、家事が大嫌いでずぼらなあたしがやらないぶん、カラ松がやってくれていることである。わかっているけれども、それでもあたしは、カラ松にわがままを言いたくなってしまうのだ。

「あたし、カラ松が寝かしつけてくれないと、眠れないもん」

 ふてくされたようにあたしが言うと、カラ松はまた、眉尻を下げて困ったように笑った。あたしの好きな、カラ松の表情。あたしのことをぞんぶんに甘やかしてくれるときの表情だ。あたしが、ダブルベッドのマットレスを、二、三度催促するようにぽんぽんと叩くと、カラ松はそれにしたがってベッドの中に潜り込んだ。カラ松はいつだって、あたしのわがままを叶えてくれるのだ。

「ほんとう、わがままなお姫様だな、名前は」
「ふへへっ」

 カラ松の胸板に顔をすり寄せると、幸福感についつい変な声を漏らして笑ってしまう。カラ松の胸板にほっぺたをひっ付けるようにすると、筋肉の裏側で、心臓がどきどき鳴っている音が聞こえて、ますますカラ松がいとおしくなる。あったかい。

「眠れないなら子守唄でも歌ってやろうか?」
「それはいらない!」
「え」

 言下に却下すると、カラ松がちょっと戸惑ったような顔をするから、あたしはさらに笑った。胸に預けていた顔を持ち上げて、今度はカラ松の鎖骨に口づけをする。そうしたら、カラ松があたしの頬に両手を添えて、「くすぐったいだろ」と、あたしを咎める。

「眠る気あるのか?」

 あたしの両頬をぎゅっと挟みこむようにしながら、カラ松は訊ねる。きっと、あたしは今、たこみたいな顔をしているに違いない。

「あるけど、また変な夢見ちゃったら、こわいもん」

 たこみたいな顔で、カラ松の方を見上げながら、あたしは答える。そうすると、カラ松はあたしの頬から手を離して、その代わりに、あたしの身体をぎゅうっと抱き寄せた。それから、あたしの背中をとんとんと一定のリズムで叩くように、あるいはさするようにして、触れる。ちょうど、親が、泣いている我が子をあやすときのような仕草。

「俺がいるから、大丈夫だ」

 カラ松の声が、あたしの鼓膜のすぐそばで聞こえる。あたしのすべてを包み込んでくれるみたいに、甘くて優しい声。

「じゃあ、おやすみのちゅーして」

 ねだるように、あたしはカラ松の顔を見上げる。カラ松はいつもの、困ったような笑い方をしたあとで、触れるだけの軽いキスをしてくれた。唇の、ぬるくてやわらかい感触。離れたときの余韻が、ほんのすこしさびしい。

「……足りない」
「眠れなくなるぞ」
「むう……」

 あたしが頬を膨らませると、カラ松はあたしの髪をすくって耳のうしろに引っ掛けてから、「続きはまた週末にしよう」とささやいた。お得意の、きざなセリフである。でも、そんな陳腐なセリフに、簡単に期待させられてしまったあたしは、たまらずカラ松の胸板にふたたび顔を押し付けた。

「カラ松、すき」
「ああ」
「カラ松ちょうすき。すきすき、だいすき」
「知ってるさ」
「カラ松」
「ああ」
「……カラ松」
「うん」
「……」
「おやすみ」

 あれだけひえびえしていた布団の中は、二人の体温が合わさってもうすっかりあたたく、背中のとんとんが、あたしをどんどん深い眠りの世界へと引っ張ってゆく。このおだやかなまどろみは、きっと良い夢に繋がっているに違いない。そんな確信を抱きながら、あたしはとろとろと、幸福な眠りにつくのだった。

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