叶わぬ恋の神話

 仰向けに横たわり、
 川を流れ歌をうたう。

 やがて溺れて死んでいく。

 可哀想なオフィーリア。


01


 昔から目立ちたがりで意地っ張りで凡庸な子だった。

 対面の仏頂面は明らかに機嫌を損ねている。
 私は好きな人の気が引きたくて周りを利用できる子供だったし、カラ松はありとあらゆる責任を放棄した善人だったし、一松は、そういうのが許容できるほどガサツでないのだ。
 降って湧いた怪人から謂れのない大怪我を負わされた十四松と、その彼の最大の友であり、自らも三度拘束された一松。確かに逃げ果せたカラ松やトド松、そもそも標的にされなかった私に比べたらよっぽど被害者ではあるし。素直に申し訳ない。

「ごめん」
「ごめんで済んだら警察いらないんですよね」
「確かに」
「ハイ」
「復讐の鬼になるしかない」
「え…………なに?」
「警察に助けてもらえない場合は、復讐の鬼になるしかないんだなと思った。一松の話を聞いて」
「……え……。なに。それ。どいつのこと?」
「先輩」
「…………?? ……いや、なんか……」

 今キチガイのことはどうでもいいんだよね……と一松は独りごちた。
 だって、十四松に怪我をさせて先輩が得たものって果たして。一松には、家に帰れば家族がいるし。今だってトド松も私もいる。きっと先輩には復讐を成し遂げてくれる警察も、怒りを受け容れてくれる隣人もいなかったはずだ。
 心の持ちようで幸せになれるなんて身も蓋もないと思うけど、復讐に囚われている人の心よりは例え全員ニートでも松野家の六つ子たちの方が上等なのではないか。彼らは自分たちを敗者だと認めたがるけれど、なんだかんだで気づくとバイトしたり女の子と出かけたりしてるんだ。私だって全員と懇意なわけではないけれど、こうしてトド松に誘われては兄弟の集いに混ざったりしている。結構、定期的に。

 特に偶数の兄弟たちと面識があるのは、中学当時同じクラスだったことがあるから。
 カラ松と一松とトド松。私たち四人は一度、ものすごく子供じみた嫌がらせを決行したことがある。
 その件のお陰でカラ松はハムレットになれたし、トド松にとっては若くてあどけない小悪魔性を、然るべき時と場で昇華する機会になったし。一松はと言えば、理解不能なカラ松の良心に一矢報いることができた。私? 私は、カラ松のオフィーリアを演れた。

「一松兄さんがさぁ、名乗り出てたらどうなったかね。『先輩の台本に挟んであったフンを出したハトを用意したのは僕ですよ』って」
「それオレに死ねってこと? トッティ」

 トド松は楽しげに違うよぉ〜と笑う。人生とはかくあるべきなヘブンリーキュートな微笑みだと思った。
 復讐だって、同じ。チャーミングに成し遂げられなければならない。持論だけど。

 平野だったか平田だったか平川だったか、正味なはなしチャーミングでなかった先輩のフルネームがどんなだったか怪しい。し、興味の取っ掛かりというものがない。“平”が付くことは確かだったようなのも、彼が六つ子たちに名乗ったセンスのない仮名のせいだった。
 可哀想なことに、彼が十年つき合ってきた憎悪に反して歪んだ懸想に反して、あれは私にとっては良い思い出に過ぎないのだ。
 元より先輩が先輩と私のために書き下ろしたハムレット。本筋に関係ないキスシーン。捻じ曲げられたオフィーリアとハムレットの甘い関係に、原作より劇的に美しく作り込まれたヒロインの散り際。過剰にかっこ良くて、キュートなハムレット。私の邪な下心とは別に、客観的に、あのハムレットの適任はどう考えてもカラ松だった。

 端的に言うと、自分と自分の好きなコのためにちょっとイカした脚本を書いてきちゃう先輩がウザかったのだ。
 演劇部に入ってる中学生なんて軒並み自意識のおばけと見立てて相違ないのだけど、自己陶酔に部全体を巻き込もうとする者は魑魅魍魎の匣の中でも追放されるべき存在足り得た。
 だから、先輩の台本に鳥のフンとか挟んじゃおうぜ。言い出したのはトド松で、お膳立てしたのは一松。


02


「そんな、ことは」

 いくらなんでもできない。私を助けてくれると豪語した割に、カラ松は当初かなりビビっていた。よく覚えている。
 昔話だ。労働を悪とする今は見る影もないかもしれないけれど、カラ松少年はそれなりに勤勉に、いたって真面目な姿勢で芝居に取り組んでいたし。末弟の提案はそれらへの冒涜にもなりかねない。脚本って演劇の神器だ。
 鳥のフンは、松野カラ松にとってだけはこの上ない悪ふざけだった。線路の上に石を置くとか、トイレの水受けの穴にガムを詰めるとか、そういうのより。

「何も使ってる台本じゃなくて、原稿にだよ。だって練習の時にフンのせいで読めないなんて、困るものなあきっと」
「読めなくさせるのが目的なんじゃないの」
「それでもいいけど、それよりもっと効果的じゃないかと思うんだ。直筆の原本を汚されるってのはさ」
「お前も酷いこと思いつくね」

 松野家の子息たちは歳を重ねるほどに個のカラーが顕著になっていくけれど、中学の時から既にこうだった。
 白昼の理科準備室。まごつくカラ松をよそにトド松と一松は事の展望をよく理解していて、これほど心強い味方はいない。私はそう思った。情景の記憶というのは忘れないもので、鳥籠のハトが羽ばたく度に天日干しの埃が舞っていたのをまだ思い出せる。

 例えば一松みたいに具合を悪くするような共感能力を持ち合わせてるわけじゃないけど、私にだってわからなくはなかった。産みの苦しみというやつ。自らが筆を取り書き上げた脚本に、誰かの悪意が上書きされる。引き裂かれた自画像。舞台に投げ込まれた生たまご。誰だって我が子を冒涜されるのは辛い。
 買いかぶりなどではなく、カラ松が引っかかっていたのもそこだと思う。彼は根っからの表現者なので。気の毒なことにカラ松が踏み切れたのもまた善意のなせる業で、自分がハムレットを演りたいだけならきっと弟たちを止めただろう。
 生きるべきか、死ぬべきか。ハムレットは選択が苦手だった。

 この麗しの次男の過失と言えば、断れなかったことだけ。おどおどしてる間に事が済んで、そんな些細な事件を皮切りに、堰を切ったように先輩が部全体から冷遇され、やがて練習に顔を出さなくなるとは。夢にも思わなかったことだろう。でも、私は知っていた。約束された王妃として、俯瞰する立場にあったので。姫の涙ひとつで国が傾くこともあるということ。
 弱き者、汝の名は女。私はオフィーリアと言うよりガードルード。
 先輩のことが好きじゃなかった。気持ち悪いと思っていた。脚本の腕は確かだったし、多感な恋心を燃やす相手に私を選んでくれた。でも私のハムレットになって欲しいなんて頼んでない。私は昔から目立ちたがりで意地っ張りで、凡庸な子だった。

 ここまでが昔話だ。
 私たちはもう全員大人になって、鳥のフンのことなんか今日こうして話に挙がるまで忘れてしまっていた。忘れたままでいれば良かったと心底後悔した。だって、こんなの天罰を信じるより他ないじゃないか。

「カラ松兄さん結婚するらしいよ」
「えっ!?」

 青天の霹靂。寝耳に水とは正にこのこと。昔話には今日、結婚というオチがつくらしい。

「すっげーブスだよ。すっげーブス」

 トド松に続いて一松も言う。

「…………。いや……まず彼女いた?」
「最近できた」
「いつ」
「先週?」
「え、えぇ〜……」

 とは言うものの、なんとなく一人欠けている時点で嫌な予感はしていた。
 なんてったって、マリッジブルーは当人たちだけのものではない。のび太くんだって結婚前夜はジャイアンとスネ夫と出木杉くんと過ごしていたのだ。この場合、カラ松がしずかちゃんということに、なってしまうけど。

「それは……おめでとうございます」
「めでたくないよ。マジ、ブスだから」
「前から思ってたけどトド松も一松も無闇やたらとブスブス言うの良くないよ」
「ちがっ、違う! マジなの!! マジなの!!」
「顔で選ばなくなったなんて成長したね」
「中身はもっとブスだからッッ!!!」

 中身の良し悪しってそんな簡単にわかるものなのだろうか。
 何がトド松をそんなに掻き立てることがあるのか、理解できないというのが正直なところだった。だって美人だったら美人だったで嫉妬に狂うだろうことは想像に難くない。
 あんた達には美人もブスも釣り合わない。そうだったはずなんだ。カラ松も例外ではない。少なくとも、今日までは。

「結婚する『らしい』って薄情じゃない? いつ?」
「多分明日……とかかな」
「は!? 多分ってなに、明日!? そんなバーベキューとかピクニックじゃないんだよ!? 場所は?」
「さぁね。オレら行かないから」

 待ってくれよ、圧倒的な興味のなさ! 一松だけでなくトド松も行かないらしかった。どころか他の兄弟たちも。前提の話が噛み合わないというのは、かくも対話の歯切れを悪くするものなのか。最初から最後までこんな調子になることを私はまだ知らない。
 式の日取りと場所を聞いたり花嫁の悪口を言いたがる小姑をたしなめるのは非常識だろうか。真人間はこっちなのにアウェイ感。トド松と一松ってそんなにカラ松が嫌いだったの? とにかくショックだった。

「止めてくれないの?」
「……? 止めてるじゃん」
「僕らのことじゃないよ、カラ松兄さんを」
「え、それはつまり」
「僕ら結婚に反対なんだよね」

 なるほど。別にオレはそんなこと一言も言ってないけど、という感じの一松はそれとしても、トド松はこういうところにかけてはハッキリしている。
 六つ子という生き物の壮大さ。このフェミニンな末弟も気怠そうな顔をすると一松とよく似ていた。同い年だけど、社会での役割と年齢は関係なかったりする。
 この場合の社会というのは一個の家族、松野家のことだ。ストローの包装紙を手慰みにする様子は明らかに拗ねていて、松野家末弟松野トド松という人間の積み重ねを物語っている。
 けれど私は彼の兄ではない。

「……止めたいなら、自分で止めなよ」
「オレがそばにいてやらないと、だって。寂しがりなんだってさ」
「彼女が?」
「うん。もう止めたよ、全員で。でもダメだった」
「超ブラコンだね」
「名前ちゃんも実際見たらわかるよ」
「そんなに酷いの?」
「うん」
「……見ようにも、式の時間と場所もよくわかりませんし」

 すかさず一松が言う。

「今から見に来る? 二人とも家にいるけど」
「松野家にいるの!?」
「いるよ。ずっと。刺し殺されるかもしんないけどね、名前行ったら」
「冗談でしょ?」
「どうかな。試してみればァ?」
「…………」

 悪魔の微笑に説得力なんかいらない。
 いずれにしても馬鹿げた話だった。ニートが結婚する時点で大概突飛だけど、この際どうでもいい。
 トド松はそれからも、他に頼れる子がいないとか、あの手の新参ブスには古参の女の子が登場するのがテキメンだとか私をやんわりと説得した。

「そうは言うけど家族が無理だったものを他人がどうしろと」
「カラ松兄さんが折れるとは思わないけど、ドブスはどうにかなるかもしれないかなっていう一縷の」
「当たり前のようにドブスって呼ぶのやめて」
「ごめんね。でも名前知らないんだよ」
「ヤバ」
「だよねー」
「……。古参も何もただの同級生じゃん」
「でもカラ松兄さんは名前ちゃんのこと好きだったと思うよ」

 きっと、トド松だって端から私がそこまでの決定打になることは期待していない。
 本当に詰めが甘い人心掌握の達人である。口裏を合わせてない兄を連れて来るとことか。もっともらしい理由も、賄賂も持ってないとことか。カラ松に対する認識とか。

「それ言っちゃうんだ」

 一松は言った。

「……昔の話でしょ、仮にそうだったとしても」
「ていうかさ、これってカラ松救済のためにやってるわけ? トド松」
「そうではないけど一松兄さんもあのドブスと暮らすなんてご免でしょ」
「じゃあ名前だったら良いかって言うと、そういうわけではなくない……? そもそもオレは反対じゃないしね、クソ松とあのカバ女。お似合い」
「本気で言ってる!?」
「あのさァどうして私と彼女が取って代わることになっているのでしょうか……」

 地獄でもダンスしてるタイプだよね。
 どこまでもコメディー。素晴らしき大家族。兄の結婚式を阻止せよだって、冗談にすらなれる。
 つまり冗談でしかなかった。だって私がカラ松を止めるに足る理由がない。
 親類たちの切実な問題に勝る何かも、一松からはともかくトド松には何の貸しもないし。三回捕まったのが一松でなく、罰せられたのが無実の十四松でなく。正しくトド松だったら。だって、それなら末弟の我儘も我儘でなく私からの埋め合わせになっていたのでは? なんて、馬鹿げている。
 せめて時間があれば。さりげなくカラ松との接触をはかるどころか、悲しむ暇も許されてないじゃないか。

 これは天罰だと思う。
 想いを寄せていたのはカラ松じゃなくて私の方だ。


03


 そもそも未成年ならばいざ知らず、結婚というのは当人同士の問題で、周りが賛成しようがしなかろうが。止められないという確信があった。
 言えることなんて何もない。私は既に取りこぼしてしまった。
 結婚するんだろうカラ松は。自分でそうと決めたんだから。

「カラ松」

 結局昨日、一松とトド松には「結婚を止めはしないけど式に参列するのは礼儀だから」と告げて別れた。
 日にちさえわかっていれば、街の教会に連絡を取ればそれらしい婚礼の儀を探し当てることもわけない。そんなこと、あんまり知りたくなかったけれど。
 ものは試しに行動したら見つけてしまったから、後はもうヤケクソだった。自暴自棄に似た気持ちで新郎の控え室の戸を私は叩いた。

「名前?」
「やっぱりカラ松だ」
「どうしてここに……」
「寧ろこっちがどうしてなんだけど、招待してくれないなんて酷いよ」
「す、すまん、誰も招いてないんだ。家族も……」

 新郎の控え室に佇むカラ松は憔悴しているように見えた。
 結婚が嫌なのだろうか。なぜか、そうではない気がした。

「まったく、酷い家族だね」
「いいんだ」
「本当に?」
「ああ、フラワーにはオレだけだからな」

 それは、新婦側に参列者がいないから自分も関係者を呼ばないことにしたという意味なのか、さもなくば、このまま駆け落ちでもしてしまうつもりなのだろうか。どっちにしろしんどい話だけど願わくば前者であってほしい。

「なんか顔面蒼白ってかんじだよ」
「ここのところゆっくり寝れてないんだ。フラワーと一緒にいて……」
「フラワーっていうのは」
「ハニーのことだ」
「それはそれは……」
「フラワーと会ったのか?」
「会ってないよ」
「そうか、良かった……」

 いつもどこに行くにも一緒だけど新郎と新婦の控え室は別なので今だけ止む無く別行動なのだと言う。
 きっと私がいると面倒なことになるのだろう、カラ松はソワソワしていた。それがどんなに私を。

 きかなきゃいいのに。けれどなかなかどうしてこういう時こそよく口が回る。

「彼女の本当の名前なんて言うの」
「名前、か……。必要ないさ」
「…………。同じ顔が六つなわけではないしね」

 男と女の二人社会に呼び分けなんて要らない。
 何色を着るのも自由。あれだけ実家から離れないと、労働は不毛だと唱えていた高等遊民の申し子みたいな奴が色分けされた六つ子社会から一人脱けだすのだ。誰より先に。眩暈がした。今直立できている私は世界で一番偉い。

「でもかわいそうじゃん、家族にドブスって呼ばれてるの。これからも松野家で暮らすんでしょう。一緒に」
「どうだろう。考えてなかったな」
「見切り発車……」

 ハムレットは石橋を叩きすぎて壊した。
 ご存知だろうか、スティーブジョブズはミニマリストだったけれど、彼がミニマリストになれたのは強者だったからだ。手荷物のない旅は手荷物より大きな衝動を持つ者にのみ許される。
 結婚と聞いた時からわかっていたことだ。私が欲しかったものが全てここにある。
 カラ松が好きだった。先に他の五人じゃなく、トド松でなく、一松でなく、あんたが良いって思ってたのは私。私なんだよ。私も昔はオフィーリアだったんだ。オフィーリアだったからダメだったのかもしれない。どんなに甘い改編が加えられていても、二人が辿る道は死に続いている。それがハムレットだ。

「大丈夫? 無計画」
「愛さえあればどうにでもなる」

 彼女がそばにいれば、それでいい。私はカラ松から私の欲しいものなんか出てこないと確信を持っていた。諦めていた。だってカラ松はハトを見て怯えたから。私の悪意を軽蔑されているような気分になったよ。そんな私が我儘だったから? 私の「助けて」を拒まなかった方のカラ松を、信じられなかったから。
 こんな形で思い知らされた、「好きだよ」って「そばにいてよ」って言えば拒まないでいてくれたのがカラ松だということを、私は果たして忘れられるだろうか。断ち切ることができるのだろうか。一松やトド松に想い人を重ねるのなんか悲惨すぎて吐き気がする。
 略奪なんて趣味じゃない。だけど、青い顔をして恋に身を燃やすカラ松は一層魅力的だし。元来、物憂げな態度の似合う彼だったなぁ。なんて涙が表面張力に負けてしまいそうだった。

「昔からそうだったけど、名前はドレスが似合うな」
「昔って、オフィーリアのこと?」
「あの時の名前は綺麗だった」
「私のために、あつらえた役だったからね」
「……泣いてるのか?」

 自明である。まだ見ぬカラ松のハニーの怒号が聞こえるようだった。

「綺麗なんかじゃない」
「名前、」
「私が着飾ったって、丁寧にメイクしたって。みんなさぁ、ドブスって言ってたよ」
「……フラワーのことをか?」
「知ってるでしょ。でもね、そういうことじゃないんだよね。ドブスとかさぁ。全然。わかってるよ」

 美しいってなんだろうか。その人の心を震わせるものを美しいと言うのなら、カラ松にとってフラワーちゃんほど美しい女性はいないのではないか。
 敵うわけがない。私はカラ松の愛情が溢れて腐りかけていたことを、持て余す激情に溺れかけていたことを知りながら、受け皿になることを放棄していたのだから。だって出口の見えない苦しみに囚われた愛しい人は籠の中の鳥に似ている。

「私、酷い奴だったと思う。だけど酷いことをしたのは、先輩が迫ってきて怖いからじゃない」

 そんなの詭弁なんだ。先輩を主役から降ろせないかって、私がカラ松に助けてって言ったのはね。

「カラ松のことが好きだった」
「!?」

 ずっと。今日までずっとだ。

「……あの、名前。オレは……」
「なかったことにはできないから。でも、誰かのものになるんでしょ。なら、私は私でなかったことにしないとならないかもしれないし、それなら今日が最後のチャンスだから」

 どうこうしようとかそういうのじゃなくて。
 私のわけのわからない弁明と気まずい沈黙を越えて、ややあって、カラ松は言った。

「そのことについては……知らなかった、わけじゃ、ないんだ。実は」

 キザな方が板についたのはいつからだったろう。少しトーンの高い、飾らない声色を聴いたのは久しぶりだった。

「捨てたもんじゃないなと思ったよ。名前みたいな可愛い女の子に好きになってもらえるなんて。これはもしや、自分で知らないだけで実はかなりモテてるんじゃないかって。残念ながらフラワーに出会うまで名前のような子には一度も当たれなかったんだけど。……ただの一度も」

 カラ松はもう涙を掬ってくれる紳士ではなくなってしまった。なぜなら彼は今日から特定の人物のものになる。
 それでも十分だった。今そう思った。カラ松ガールカラ松ガールって、往来に探していたのが私の影だっただけで。私はとめどなく濡れる頬を自分で拭う。

「オフィーリアのドレスを着たお前は本当に素敵だった。あんなに綺麗なものを他に知らないよ」
「でも、私はオフィーリアじゃなくてガードルードだったから」
「平……なんだったっけ」
「私も忘れた」
「平…先輩からオレに乗り換えたからだよな。オレだってクローディアスだったんだ」
「卑怯なことして本当にごめん」
「オレだって先輩に捕まった時トド松のせいにした」

 ハムレットに刺されるならガードルードと一緒がいいと思ったんだ、と言うのを聞いて、私の罪はとうの最初から痛み分けされていたことを知る。最初からクローディアスとガードルードになれていたのなら、二人で倒れる覚悟もできていたのに。

「キスシーンの演技の時、本当は本当にしたかった」
「あの改編もそのままやったね。私も嬉しかった」
「改編する前のセリフに『尼寺へ行け』っていうのがあるだろ」
「売春婦になってしまえって解釈のやつ」
「オレはきっと、尼寺は売春宿でなくそのまま尼寺って意味だったと思ってる。好きな人には自分以外誰も知らないでいて欲しい」
「ハムレットはオフィーリアのこと好きだったのかな」
「好きだったよ。オレのハムレットはそうだった」

 そうであって欲しい。好きの重さだけが恋を全うさせる条件であるなら、思い出はあまりに悲しい。私は、私もカラ松もきっと誠実ではなかったけれど、全てを投げ打って飛び込むことはできなかったけれど、それでも恋だったって思っていいはずだ。末長く幸せに暮らす物語だけが神話じゃない。

「良かった」
「何が?」
「ずっと名前のことが心残りで、フラワーに隠してはいけない隠し事を持っているのが辛かった。だから今日名前がここに来て、あの時の話をしてくれて本当に良かった。高校に行って名前、彼氏ができたよな。オレはその後メシも食えないほど落ち込んだんだけど、そういうふうに悲しんだこともいけないことのような気がして、……うまく言えないけど、オレはフラワーが初めてなんだ。こういうの」

 よくわかる。私はカラ松と通じ合えない苦しみからすぐに逃避したけれど、彼は舞台から降りなかった。今日、真のオフィーリアと出会うまでハムレットを演じ続けてくれた。自分の初めてを全部捧げたいような衝動が初恋だ。
 もう無くなってしまったものも全部あげたいんだよね。カラ松はやっと、自分の恋に出会えた。

「会えて本当に良かった。好きだったと告げてくれて、オレのために勇気を出してくれてありがとう」
「私も良かった。ちゃんと、心から言えるよ、これでやっと」

 結婚おめでとう。カラ松。


04


 これでお終い。

 もちろん泣いた。当然だ、ますます好きになってしまった。式場のトイレで泣き腫らした。私は略奪がしたいのでなくカラ松と幸せになりたいのであって、それは相思相愛の二人に割って入って手に入るものじゃない。こんなこともあるのか、頭でわかってるせいで余計に涙で晴らすしか手段がない! タキシードのカラ松が死ぬほど格好良く感じられて、自分の中の雌が未練が後悔が、爆発して爆発して、悲しくて、声を出して泣いた。
 もう道は断たれてしまった。今までとは違う、モラトリアムは許されない、明確な終わりがやって来たんだ。なんてお粗末な終わりなんだろう。そこまで考えていっそ笑える。だって彼の兄の名はおそまつだし。どうにか式まで持ち堪えて、明日は仕事を休んで、明後日も、その次の日も、泣いて暮らすんだ。ところが物語は意外な結末を迎える。

 フラワーちゃんが枯れた。ハネムーンすら行く前に、モルボルみたいな巨大なモンスターに化けて、大暴れして、枯れた。

 私はカラ松のオフィーリアではなくて、真のオフィーリアは彼女だった。
 そして河を揺蕩う死をも彼女は全うしてしまったのだ。有り余る愛を抱えたまま。私は彼女の訃報をトド松から聞いたのだけれど、嬉しいかと言われるとそうは思えなかった。なぜなら誰にも受け取ってもらえなかったカラ松の愛情を、引き受けられるのは真実彼女だけだったから。モンスターに育つほど彼女はカラ松の愛を容認したんだ。かたや私は、カラ松がいなくても死なないということに気づいてしまったし。

「だから私はフラワーの代わりにはなれないよ」
「それでいいんだ」
「良くないよ。私が幻滅してるんだって。四十九日って知ってる? クローディアス」
「四十九日の後ならいいのか?」
「全然わかってないでしょ……!?」
「わかってるさ、クローディアスとガードルードも王の死から二月経つ前に結婚した」
「結婚なんか死んでもしねェよ。ニート。家の前で待ち伏せないでよ」
「ああ、結婚したいとか、そういうことではなく。待ち伏せも明日はしない。ただあの時に言えなかったことを今なら言えるから、伝えに来た」

 言葉選びも、バラの花束も。演技じみた抱擁も。フラワーちゃんが与えてくれた神聖など投げ出して元どおりにの馬鹿になっている。胸の中に私を抱えてカラ松は言った。

「好きだったと告げてくれて、オレのために勇気を出してくれて、ありがとう」
「前にもきいたよ」
「オレも名前が好きだからハムレット、やりたかったんだ」

 じゃあどうして言ってくれなかったんだと思う。新郎の控え室でじゃない、中学の理科室でだ。私も言わなかったけれど。

「オフィーリアじゃなくてガードルードだってば、私」
「オレもクローディアスの方がいいな。ハムレットとオフィーリアは一緒に死ねない」
「よくそんな縁起でもないこと言えるよ」
「ガードルードみたいに狡いところも好きなんだ」
「オフィーリアだろうがガードルードだろうが全員死ぬ!!!」
「ヒェッ」

 一度断たれた道は戻れないと思う。
 恋の神話は終わって、いろんなものが絶えたんだ。デンマークの王家みたいに、私たちの関係とか。先輩も今頃留置所だし、フラワーちゃんなんて本当に神話になってしまった。一つの世界が終わった。もう輝かしい初恋はここにはない。
 でもそれって、初めてカラ松と私として向き合う瞬間かもしれなかった。

「じゃ、じゃあ。死ぬまで一緒にいてくれませんか」

 私は今も好きな人の気が引きたくて周りを利用できるし、カラ松はありとあらゆる責任を放棄した善人のまま。トド松は気にしないかもしれないけど一松ならきっと嘲笑う。物語の登場人物でない自分なんて心許なくて、多分私たちはきっと、また間違える。愛さえあればなんて私には思えないけど。

「私も好きだよ、カラ松の軽薄なところも」

 これからどうしようか。やっと出会えた気がする。


叶わぬ恋の神話

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