私の愛と貴方の愛がひどく一方的であったがために
愛情というものは知っている。
それが芽生えたとき、身体の内側から温かなものが広がっていく感覚も知っている。
そして愛情を向けた先の人が、それ以上に温かな笑みを返してくれることも知っている。
その時に感じる幸福も知っている。
つまり愛情とは、大切に思う気持ち、好きと思う気持ちをお互いに優しく贈り合って共有して育まれていくものだ。
だから、だから、つまり。
その愛情が、ひどくひどく一方的であった場合。
贈ることも出来ず、返ってくることもなく。変化することもなく、また消え失せる気配もないこの感情は。
一体全体、どうしたらいいのだろうか。
彼の名はダンテと言った。
最初にその名を聞いたときはとくに何も思うことはなく。標的に代名詞が付いた、それだけのことだった。しかし再びその名を口にした時、いい名だなと思った。後にこんなにもこの名を口にすることになるとは思ってもいなかった。
この名に、こんなにも苦しめられることになるとは、思ってもいなかった。
「ダンテ」
重そうに頭だけをぐらりと動かして「おう?」と間抜けな返事をする彼。彼の名を呼んで、彼が応えてくれると言う幸福感。彼のことが好きだった。彼も俺のことを嫌っているわけではなかった。気に入られている自覚はあった。つまり彼も、俺のことを好いてくれているはずだった。けれど。
今までに俺が好意をよせて、相手も俺に好意を返してくれた時、俺の心は幸福感で満たされた。もっとこの人を大切にしたい、この人を好きになってよかったと思った。キリエや、クレドや、彼らの両親や、院の先生や。なんとなくでも俺の周りにいてくれた人たち、俺と言葉を交わしてくれた人たち。幸せだった。ありがとうと思った。けれど。
「……ダンテ」
彼は違う。
彼の名を呼ぶ度に、彼が返事をする度に、彼が俺のことを“坊や”と呼ぶ度に。温められる胸の内側から薄々と幸福感に混じって滲み出てくる感情があった。
それは怒りだった。
こんな気持ちになったのは初めてだった。なにがなんだかわからなかった。同じ“好き”と言う気持ちをちゃんと共有しているはずなのに。何故俺は、彼に対してこんな危険で野蛮な感情を抱かなければならないのか。何故、俺を好いてくれている彼に怒りを覚えなければならないのか。その原因に気付くことができたのは、わりと最近だった。
「坊や、どうした最近?」
「……え?なに?」
「気付いてないか?ここに来る度に暗い顔をしてる」
「……マジで?」
「ああマジだ。そんな顔されてちゃあ、こっちの気分も滅入ってくる」
「…………」
「悩み事があるなら、さあ、この心の広いお兄さんに話してごらん」
「…………………………」
怒りを覚えていたのは、自分にだった。
彼に対して強い強い気持ちを抱いていながら、なにもできないでいる自分にだった。
今まで好意を好意で返してもらって幸せだと感じていたのは、好意の尺度が同じだったからだ。けれど、彼は違う。彼が俺に向けてくれている好意は誰にでも向けられる類のもので。俺が彼に抱いている好意は彼でなければ成立しない特別なものだ。
彼の傍に寄ることを許されながら、何故。何故、彼の名を呼ぶことしかできないのか。何故、彼に触れることができないのか。彼のあの肩に、手首に、うなじに、胸に髪に額に頬に、触れることができないのか。キスのひとつもできないのか。それは怒りだ。歯痒い自分と気にも留めない彼に。もう俺の狭い心の中には収めておけないほど、その怒りと愛情は肥大している。俺の内臓をも圧迫する勢いで。
「……その、」
「んん?」
キスがしたい。
鋭い刃物のように、獰猛に、熱烈に、一心に彼に向いている感情は、ただそれだけだった。
「じゃあさ、相談、聞いて」
「おお!聞いてやる聞いてやる!なんだ?なんでも言ってみろ」
「その……」
「おう」
「……キスしたいって思う人が、いるんだけど」
「ぶっ…!ぐふっ!ゲホッゲっホ!!」
「おいおいおっさん、大丈夫か」
「おお、すまん、まさか坊やからそっちの相談をされるとは、思わなくてな……すまんすまん、で?」
「だから、キスしたいんだけど」
「どうしたらいいかわからない、と?」
「うん」
「惚れてんのか?」
「多分」
「顔見知り?」
「まあ、一応」
「スミに置けねぇ坊やだなぁ。赤の他人ってわけじゃねぇんだろ?だったらやっちまえばいいじゃねぇか、アンタにキスがしたいって言って、サラッと」
「そんな…」
「坊やみたいな男にキスされてぶん殴ってくる女なんていねぇだろ。俺が保証してやる」
「………アンタはいつもそうなのか?」
「あ?まあ、そんな時期もあったが昔の話……いや俺のことはいいんだよ」
「アンタがキスしたい人ってどんな人」
「は?いやいや、俺のことは、だから…」
「アンタなんだけど」
「ん?」
「俺がキスしたいの、アンタなんだけど」
男の顔が変貌する。
つい5秒前まで修学旅行中の学生のようにふやけていた顔が。一瞬で、見たこともない男の顔になっていた。
言うつもりはなかった。無駄なことだとわかっていたから。もう会えなくなるかもしれなかったから。これからもずっとイライラしながら彼の名を呼び続けるのだと思っていたから。でも、気になってしまった。我慢できなくなってしまった。知りたくなってしまった。俺が彼に対して怒りを覚えるほどの愛情を抱いていることを明かした時の、彼の返答が。彼が俺に抱いている愛情の尺度が。
「それは、俺に惚れてるってことか?」
「多分」
「あー…」
「困ってる?」
「いや、驚いてる。すまん、あー、10分だけ、時間をくれ」
そう言うと彼は静かに頭を伏せて、じっと、なにかを考えだした。その時間が10分だったのか5分だったのか1時間だったのかはわからないが。俺はただ黙って、動かない彼を見つめていた。すると彼は、
「なあ、坊や」
「はい」
彼が俺を呼び、俺を見る。沸々と滲み出る怒り。ぐっと圧迫される内臓。じわじわと広がる痛みと熱。苦しい。
「一度でいいか」
「え?」
「一度キスをすれば、それで満足か?」
「………」
「一度、キスをすれば、お前は俺への気持ちを捨てることができるか?」
「そ、れは、どう言う…」
「俺はお前のことを愛してる。本当に大切に思ってる。本当に誰よりも、何よりもお前のことを愛してる自信がある。お前が幸せでいることが、俺の幸せだから」
「………」
「だが、俺と一緒じゃあダメだ」
「………」
「俺は、お前の気持ちに応えることができない。俺と一緒じゃあ、お前は幸せにはなれないからな」
「……」
「比じゃないんだよ。キスしたいと思う女や、抱きだいと思う女とは、比にならないほどお前のことが大切なんだ」
「………」
「だから苦しい。こんなにも、誰かを愛したことがなくてな。どうしてやったらいいのか自分でもわかんねえ」
「………」
「けどな」
「……うん」
「俺はお前に、キスがしたいとは思わない」
「……」
「お前が。ネロが。どこかで、誰かと愛し合って、幸せに生きてることが俺の幸せなんだ。これ以上ない、俺の幸せなんだよ」
「……」
「だから、一度キスするだけで、俺への気持ちを捨てることができるなら、諦められるなら、俺はお前にキスをしようと思う。けど」
「…………」
「キスをすることで、お前が俺を忘れられなくなるなら」
「……」
「俺は一度だって、たった一度だって、お前とキスすることはできない。できないんだ」
「……ぅ…」
こんなにも愛しているのは俺だけだと思っていた。ひどく一方的で虚しい気持ちだと思っていた。思っていた。けれど。彼も俺を愛していた。それはひどく一方的で自分勝手な気持ちだった。
彼の愛が正しいのか、間違っているのか。俺の愛が間違っているのか、正しいのか。俺にはきっと理解することはできないけれど。こんな俺に真っ直ぐ向き合ってくれた彼の眼差しに、言葉ひとつひとつに、この世に二つとない愛を感じたのは紛れもない事実で。
俺の内臓を圧迫し続けていた怒りの感情が、すーっと流れるように消えていき。変わりに胸の中にどっと吹き上がった熱が、俺の瞳の裏をじりじりと焦がして熱い熱い涙を溢れさせた。
「お……おれ、…っ」
「ああ」
「アンタに、ッ…ふ、触れたくて…」
「ごめんな、それも、できないんだ」
「アンタと、ずっと、…い、ッ、一緒に…いたくて…っ」
「ごめんな、ネロ。ごめんな」
「ふっ、う…うぅぅぅ、だんて、ダンテ…ッ」
「ごめんな……ネロ」
止まらない嗚咽に呼吸もままならず、心臓もぶるぶると震えて、これ以上ないほど苦しかった。苦しみは一切消えていないけれど、俺の愛を明かすことができて、彼の愛を知ることができて、きっと、よかったのだと思う。
俺はソファに脱ぎ捨ててあったコートを拾い上げふわりと袖を通しながら、これ以上ないほど愛し、これ以上ないほど愛してくれた彼に背を向けた。
end.
ちょー急いで書いたのでこのザマです←
(15/0723)