ベビーキッチン
「すっごく好きで、好きで付き合ってたはずなのに。ちょっとしたことですっごく嫌いになっちゃってね。嫌いで嫌いでどうしようもなくなった時に、ソイツの子どもがぽこっとデキちゃってたりするのよ。世の中ってホント、嫌になるわよね」
そう言って、名前も知らないその女は琥珀色のグラスをカラカラと傾けてみせた。
理由は些細なことだったが、俺は恋人に家を追い出されてしまった。出て行く、と言い張ったのは俺だが、そう言わざるを得ない状況に俺を追い込んだのはアイツだ。口八丁手八丁で、誘導尋問が大得意。結局いいようにあしらわれただけなのだと今更に気づかされて、現在アイツに対する苛立ちが倍増している最中だ。
そんな俺がフラフラと向かったのは、近所の歓楽街だった。別に、腹癒せに一夜の出会いに夢を見ようなんて思惑は一切なく。ここならば、もっと俺を不快な気持ちにさせてくれる現象が起こるだろうと思ったからだ。今よりもっと最低な気分になって、アイツへの苛立ちをキレイさっぱり忘れて。帰ってから、実はこんなことがあってさ、なんて話をアイツにしてやろうと。中々に浅はかな口実作りを考えての行動だった。
吐き気を覚えるほどの不快感が瞳をつたって心臓にまで浸透した頃。もう十分だろうと踵を返した先に、煙草をくわえた女が立っていた。妙な存在感を放つその女の姿にぴたりと脚を止めてしまった矢先、女はそんな俺を見て唇を吊り上げてみせる。煙草を悠々とくゆらせながら女は俺に歩み寄り、
「アナタ、ヒドい顔してるわ」
と言って妖しく笑った。
大きなお世話だった。そう言ったこの女こそ、相当に酷い顔をしているではないか。顔の造形が悪いと言う意味ではない。むしろ綺麗な方だった。しかしその顔は、絶望を知った顔だった。私は今絶望しています、と言うキャッチコピーを全身に貼り付けているのだ。こんな女のために脚を止めてしまったこと。まごうことなき、今日一番の不快感だった。
「アンタも相当だな」
その言葉に、女は軽く目を瞠る。無視をするつもりだったのに、思わず口から言葉が漏れてしまったらしい。失態だ。今更の話だが。
女は左手を俺の胸元に当てながら、「一杯付き合って」と囁いた。俺は女の手を軽く払いながら、目の前の酒場に入った。
ただの客取りか、とも思ったが。女は延々と取り留めのない話を零すだけで。
年はわからない。ただ俺より年上、と言うことは確か。年上の女に対して“年上の女”以外の認識はなく、詳しい年齢など興味もない。最初に自己紹介をされたが、ありきたりな名だな、と思った以外の印象はなく、もう覚えてすらいなかった。
「フラれたの?」
「…………」
「喧嘩かしら?」
「別に、大したことじゃ…」
「謝る必要なんてないわよ。謝らせる必要もね」
「じゃあ、どうするんだよ?」
「許せないままでいいから、彼女のところに帰りなさい。そして、全く関係ない話をするの」
「……………」
「お互いがお互いを許せないままでも、一緒にいてくだらない話ができる関係って、素敵だと思わない?」
「そりゃあ、アンタ……夢の話だろ」
「いいじゃない。大人は夢を見ちゃいけないってことないでしょ」
「で?」
「……なに?」
「いい加減、アンタが一番話したい話、したら?」
「………顔に似合わず親切な坊やね」
「早く終わらせたいだけだ」
クスリと笑った女は酒を一気に煽ると、潤った唇から、ふー、と長い溜め息を吐いた。
「彼にね、プロポーズされたの。結婚してくれって」
「……めでたい話か?」
「あら、女は皆、結婚のために男と付き合ってると思ってるわけ?勘違いしないで」
「………………」
浮かばなかったの。彼のことは好きだったけど。彼と夫婦になって、彼の子どもを抱いている自分の姿が。ひとつもイメージできなかった。彼は私にとって、男であって旦那ではなかったの。男と旦那は全く別の生き物だから。だからね、少し考えさせてって、言ったのよ私。好きだったから。断ったら、きっと捨てられるじゃない。だから、彼と夫婦になるイメージが自分の中にできるまで、もうちょっと待ってほしかったの。でも、その私の答えが、彼は気に食わなかったのよね。彼は無表情でこう言ったわ。お前が、俺の想いに応えてくれるのを待っている時間があったら。俺は別の女を探して、結婚して、自分の子どもをもつことができるだろう、って。酷い台詞よね。本当に酷かったわ。だから私、じゃあとっとと他の女のところに行けって言って、彼を殴ったの。当然、それっきりよ。最低な男だと思ったわ。大嫌いになった。それで終わりにできれば、よかったのに。
女はそこまで一気に喋ると、長い長い間を置いて、その男の子どもを身ごもっていたのだと告げた。
あまりにも聞き馴染んだような話で。それでも、この女の絶望を十分理解できてしまうような話だった。いや、理解などできやしないだろう。自分の身には起こり得ない現象なのだから。アナタの気持ちよくわかるわ、なんて慰めが言えるのは、話す側の事情を他人事にできる聞く側に限るだろう。他人事でしかない俺には、この女の絶望をどうこうしてやれる手段などない。まあ、する気もないが。
「やることやったら、デキちゃうことくらいわかってたのに。なんで、こう、後先考えられなくなっちゃうのかしらね」
「………………」
「愛し合うための行為だったり、楽しむための行為だったり、辛い現実から逃げるための行為だったり、辛い現実を突きつけられる行為だったり。色々あると思うけど、なによりね。なにより、これは子どもを作るためにある行為なの」
「…………」
「若いうちから噛みしめておいたほうがいいわ。お節介かもしれないけどね」
「……お節介だよ」
「ふふ、男の子だものね。でもアナタだって、いつ加害者になるかわからないんだから」
「………」
「キズつけられるのはいつだって女よ。なんて、自分を可哀想な被害者だと思ってる側の台詞だけどね」
「……いや、アンタは可哀相だよ」
「あら、じゃあ……朝まで慰めてくれる?」
「絶対に嫌だ」
「嘘よ。ウソウソ。アナタ、絶対そう言うと思ったもの」
その台詞を聞いて、ふと違和感を覚えた。果たして、子どもを身ごもっている女が、男を誘ったりするだろうか。高いヒールを履いて、酒を呑んで、煙草を吸ったりするのだろうか。
心臓が鳴った。不快感がもう許容オーバーなのだろう。あくまでこれは他人事だ。他人事だから聞けるのだ。もうなにも聞きたくないと叫ぶ心臓を抑えつけて、俺は女に訊ねた。
「その、子ども、は」
「…………………」
「……………」
「……………もういないわ」
「………………」
「殺しちゃった」
なんで、とは聞けなかった。
子どもを一人で育てるのは、きっと大変なことだ。それに、大嫌いになった男の子どもなら、尚更だろう。けれど、けれど。そんなもの、母親になることができた女ならば、なんとかなったのではないだろうか。母と言う生き物は、そう言うふうにできているものではないのだろうか。そこまで考えて、ああ、俺はやはり、ガキなのだと思った。
俺は、それができなかった女を知っている。あまりにも身直に。
けれどその女は、仮にも、母になろうとしたのだ。長い時間、腹の中で俺を守って。たった一瞬であっても、俺の母であったのだ。
そんな女を、知ってしまっているからこそ。大きなお世話と知りながら、俺はこの女に言わなければならなかった。
今日、アイツと喧嘩をして、家を飛び出して、ここに来て、この女と出会ったことに意味があるのなら。きっと、この女にこの言葉を伝えるためだったのだろう。
「俺は」
「?」
「母親に、産んではもらったけど、育ててもらっては、ないんだ」
「………あら……そう、なの」
「ガキの頃から色々あってさ。色々ありすぎて、忘れちまうくらい。でも」
「…………」
「今は、それなりに、普通に生きてる。それなりに、幸せだと思う」
「………」
「だからさ」
「………」
「産んであげるべきだったと思うよ」
「……」
「後先考えなくてできちまったなら。後先考えずに、ただ産んであげればよかったんだ」
「…………………不幸になってたかもしれないのに?」
「うん。幸せになれたかもしれないから」
「…………………」
「…………」
「……………そうよねぇ」
沈黙が続いた後に、もう遅いのよ、と小さく呟いたのが最後で。それから女は、言葉一つ発せられなくなるほどに泣いて泣いて、泣き崩れた。
俺は女の鳴き声を聞きながら、黙ってアイツにぶつける悪態を考えていた。
end.
産みの親であれ育ての親であれ、人の親に成るということは人が成せる唯一の栄誉だと思います。
(15/0303)