それは君を諦めるための長い長い隘路









俺と彼は、世間一般で言うところの“そういう関係”ではなかった。
しかし俺と彼は互いに互いのことをひどく好いていて。おまけに互いに互いの気持ちを良く理解していた。
それでも俺と彼は“そういう関係”には至らなかった。ならなかった。今この瞬間に結ばれてもなんの不思議もないほど強い想いを抱いていながら。これから先、何年何十年と言う時間を共有しようとも、俺と彼が結ばれることはない。
理由など、誰に訪ねても容易に知れるものだった。




俺は彼が好きだった。好きと言う感情は極端なようでいて、場合によっては容易な解釈を許さない湾曲したものであると。いい年をして初めて知ったのである。俺は出会った時から彼が好きだった。しかしそれは、好物のピザや酒に対して思う程度のもので。つまりは興味の対象であるだけだった。この時までは、極端な好き、だったのだ。
それがいつしか湾曲した。気にも留めないゆるやかさで、ベキベキと。


俺は彼を好きになっていた。顔も、性格も、声も好きだが。なにより彼の匂いが、匂いが好きになっていた。
彼が俺の前に座り、仕事やら悪魔やらの話をする日々が習慣になった時分。話を終えた彼が席を立ち、一人になった事務所で気がついた。彼が座っていた席に彼の残り香がまだ存在していたのだ。自分の匂いではない彼の匂い。その匂いに気づいてしまった瞬間に寂しさを覚えていた。心臓に灯った何か。皮膚に染みた何かが、この空間に残った彼の匂いを掴んで離さなかった。
彼を好きになっていた。







「ダンテダンテ!すげぇ依頼が入ったんだよ!また色々教えてほしいんだけどさ!」

「なんだなんだ全く…、ゴムマリみたいに忙しない坊やだな」

「ゴムマリ!?」



紺色のコートをばたつかせながら、幾度となく俺のもとへ押し掛けてくる彼。この時俺はまだことの歪さに気付いていなかった。自分のことしか考えていなかった。だから。彼がもし、俺を拒まなかったら。彼をもし、俺のものにできるのなら。そういう関係になるのも悪くないと、思っていたのだ。いや、もし、なんて淡い気持ちなどではなかった。確かに俺は、彼をものにしようとしていたのだろう。していたのだ。
彼が持ち込んだ依頼を二人で片付け、多額の報酬に浮かれていた夜。普段テーブルを挟んで向かい合う形でしか座ったことがなかったのに。俺は酒を片手に彼の隣に腰を下ろし、嫌がる彼に酒を勧めた。すると彼は「酒臭い、寄るな」などと言って、右手で俺の胸を押したのだ。彼の右手が、俺の心臓に触れたのだ。俺は彼の手を掴んで引き寄せていた。腰が密着する。初めての距離だ。彼は驚いていたが、逃げなかった。彼は一度顔を伏せて、長い沈黙の後に俺を見た。どちらともなく作った流れにどちらともなく流された。俺は彼の両手をソファに押し付けて、キスをした。
初めての相手にする気遣いもなく。大人げなど一切もなく。ただ夢中で。一週間砂漠を彷徨ってやっと水にありつけた遭難者のように、恥ずかしげもなく。ただただ必死で彼の唇に食らいついた。



「ンっんん、あッ、ふぅッ」

「───ふ、……っ…、」



高揚していた。ひどく。ずっと狙っていた女を落とせた、なんて比ではない。欲しかった。それこそ、生き物が水を求める本能に近いものだった。
散々に絡め合って互いの唾液でベタベタになった唇を離す。彼の顔が見たかった。今どんな顔をしているのか、知りたかった。だから、彼の顔を見た。見てしまったのだ。


彼の青い、青い瞳に、よく似た青い瞳を持つ俺が写っていた。


その瞬間、ことの歪さに漸く気がついた。
彼だけはダメだ。彼だけはダメだ。他のどんな女や男や猿や犬を愛しても、彼だけは絶対にダメだった。理由など、誰に訪ねても容易に知れるものだった。
彼の瞳には、俺の────兄、母、そして父の想いが宿っている。人と悪魔が愛し合った証が、これから先もずっと受け継がれるべき想いが宿っているのだ。
彼と俺では、なにをどう考えたってダメだった。
これは俺のための水じゃない。この水がいくら美味かろうが甘かろうが、俺が飲んではいけない。これは、俺ではない誰かのために生まれてきた水なのだ。
彼の体温に触れることも怖ろしくなり、突き放すように彼の上から退いて床に膝をついた。すると、懸命に呼吸を落ち着かせようと激しく上下する俺の肩に、彼の右手が添えられた。



「ダンテ………?」



と、か細く震えた声で俺の名を呼ぶ彼。
不安、期待、困惑、了承。全ての意味を含めたその一言に、俺は居たたまれずに逃げ出した。




忘れるつもりだった。忘れようと心に決めた。彼を好きと思う気持ちを。いや、彼の存在そのものを諦めようと決めた。
しかし、初めての高揚感を忘れられなかった彼は、俺を諦めてはくれなかった。
それから彼は朝だろうが昼だろうが、真夜中だろうが明け方だろうが俺の部屋へ押し掛け関係を迫るようになった。「アンタとシたい」だの「アンタもその気だったんだろ」だの色気もクソもない誘い文句を並べながら。
何度も押し返した。殴ったこともあった。しかし、結局は。彼の体温に触れ、彼の肌に鼻孔を押し付けながら、キスをしてしまうのだ。いろんなことをした。彼の高い声も精の色も香りも知る程に。
それでも、一線だけは越えられなかった。



「ん、んンッ……だ、んてっ」

「はッ……は、……っ」



何度もキスをした。俺の舌が彼の口内の形を覚えるまで。彼のどこに触れれば彼が甘い声を上げるかも熟知するまで。このベッドの上で何度も互いの汗を舐め合った。しかし。たった一度なら、と彼の全てを手に入れたいと熱望する俺を、あと一歩と言うところで聞き分けのいい大人の俺が邪魔をする。結局俺は、散々彼の着衣を乱した後に、彼を突き放すのだ。
甘い甘い愛撫を施した手で、彼の首を掴んでベッドの外へと追いやった。



「…はっ、ネロ………出ていけ」

「………え…っ」

「早く出ていけ。もう終わりだ」

「や、やだっ…なんで!」

「出ていけ」

「なんで、なんでだよ、なんでダメなんだよ!そんなに悪いことか?俺にはわからない!俺、俺はただアンタと…」

「出ていけッ!!」

「………っ!」



彼は部屋を飛び出して、扉の直ぐ向こう側で声を上げて泣いていた。俺は奥歯をギリリと食いしばりながら、耳を塞ぐことも出来ずにただ彼の声を聞いていた。
そんな夜を何度も繰り返した。そんな、未遂と言う濃密で格好悪い時間を何度も共有しながら一歩も前へ進むことはなく。俺たちは年だけを重ねていった。




今でも彼は頻繁に俺を訪ねて来る。しかし昔のように関係を迫ることはなくなった。テーブルを挟んで向かい合いながら仕事やら悪魔やらの話をして帰っていく。彼は大人になろうとしていた。しかし、彼の匂いは変わらなかった。



「髪、伸びてんな。目にかかってんの、邪魔だろ。切らないのか」

「お前が切れと言うなら切ろう」

「なんだよそれ」

「お前ぐらいとしか、顔を合わせないからな」

「………なんかアンタ、変わったな」

「お前がどんどん大人になっていくからな。俺も大人になろうとしているんだ」

「…………なんだよ、それ」



彼は美しい顔を少ししかめながら俺を見る。美しかった。諦められない。諦められるわけがない。彼のことが好きだった。ひどくひどく好きだった。
彼はもう俺を諦めてしまったのだろうか。彼はもう、女を知ったのだろうか。
俺は無駄に外へ出掛けることもなくなった。彼が俺を訪ねて来た時、いつでもここに座って彼を迎えたいからだ。いい年をして独り身で、ロクに女と遊ぶこともない。もっと楽しい人生を想像していた。女なんて後から後から湧いてきて。毎夜毎夜酒を飲んでは遊び呆けて、なんて。俺のためだけの楽しい人生を。だと言うのに。今の俺は、いったい何だと言うのか。俺は彼に、人生を狂わされたと言っても、決して、過言ではないだろう。



「……なあ、ダンテ」

「ん…?」



目の前の彼が小さく体躯を揺らす。
唇を小さくして、言葉を紡ぐ準備をしている。
そして、長い長い睫毛がふわりと浮いた。



「ダンテ」

「……………」

「抱いて」

「……………」

「俺を抱いてよ」

「………………」

「セックスして」

「断るとわかって言ってんのか?」

「断られるとわかってても言いたいんだ」



彼は立ち上がり長い脚でテーブルを越えると、右手で胸元を撫でながら俺の膝の上に跨がった。互いの吐息が、互いを隔てる空気の中で混ざる。彼の青い瞳の中に、よく似た青い瞳を持つ男が映る。彼が俺の頬を撫でながら唇を寄せたが、俺は彼の後ろ頭を掴んで自分の胸元にその額を押しつけた。
諦められない。今直ぐ彼を抱きだい。それでも。それでも。
跳ね上がる心臓の音を黙って聞いていた彼が、少し身動ぎをして俺の首筋に顔を埋める。



「………俺はまだ、アンタを諦められない」

「…………」

「だから俺は、いい年になってもロクなことも知れないままだ」

「…………」

「今、俺はアンタに、人生を狂わされてんだぜ」

「……………」

「遠路遥々、アンタのツラ見るためだけに来てやってんだ」

「…………」

「キスのひとつでも、あっていいんじゃねぇの?」

「…………」



男を促すように、彼は青い双眼を瞼で覆う。男は長い指先で彼の瞼に触れ、頬を撫で、唇をなぞりながら。彼の白く狭い額に、軽く唇を押し当てた。
今何を思っているのか、想像することも許さない程の傷ましい笑みを繕って。彼はその美しい色の唇から、小さく「クソ野郎」と零した。





お前は一度も、俺を求める理由を言ってくれなかった。
たった一度でも、理由を言ってくれたら。
「アンタのことが好きだから」だと。言ってくれたら。
お前を諦めることができるのに。




アンタは一度も、俺を抱かない理由を言ってくれなかった。
たった一度でも、理由を言ってくれたら。
「お前のことが好きだから」だと。言ってくれたら。
アンタを諦めることができるのに。




そうやって、ただ歩き続けるのだろう。
二人手を取り合って光の中へ行くわけでも、闇の中へ行くわけでもなく。
ただ、お互いの顔がほんのりと見えるような薄暗い夕闇の中に立って。
いつでも触れられる距離に立ちながら、決して触れ合わずに。
そうやって二人は、歩き続けるのだろう。
ただ、延々と。



これは君を諦めるための長い長い隘路。








end.



(15/0207)

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