暑さが増してくる午後の日。
庭に水を撒き終えて空になった手桶を抱えて廊下を歩いていると、何やら声が騒がしい。
訝しく思って声のする方を覗くと、橘の部屋からだった。不審者かと思い至ると胸が騒いで、襖に手をかけた。
「…橘、誰かいるのか?」
「あっ!柩、ちょうどよかった!ちょっと来いよ」
「何かあったのか?………。」
返ってきた橘の声は普段通りで別段何かあった様子はない。
しかし、笑顔で柩を見上げて畳に寝転ぶ橘の腕の中には艶のある黒い毛並みの猫がいた。
それがただの猫ではないことを知っている柩は溜め息を吐く。
「…どうしてまたそいつがいるんだ」
「わかんねぇ。柩に会いにきたのかな?」
「当分は必要ないと言ったのに」
橘に甘えた鳴き声でじゃれつく猫、もとい火車は、相当なついているのかあの日に柩を攻撃してきたことなどなかったかのようだ。
文字通り借りてきた猫のように大人しい。
橘も火車がどんなものかわかっているはずなのに、猫の首をくすぐっては喉をごろごろ鳴らされてその度にかわいいと騒いでいる。
そんな二匹(?)の様子に呆れた柩は諦めて橘の隣に腰を下ろした。
「妖怪になつかれる蛍なんて聞いたことがないぞ」
「最初は柩をまた連れていくつもりなのかと思ってさ、柩は渡さねーぞ!って叱ってやってたんだけど。なんか腹減ってるみたいだったから部屋にあった菓子やったらにゃーにゃー喜んで」
「食べさせたのか?火車に?」
普通の動物のように可愛がり、火車の鳴き真似をする橘に頭痛を覚えこめかみを抑える。
こっちはいつ火車が気紛れを起こして橘を連れていってしまわないかと気が気ではないのに。
首をくすぐられて気持ちいいのか、火車が橘の指に頭を擦り付ける。
「オレが柩を連れていかないでくれって言ったから、オレも一緒に迎えにきたのかなぁ」
「…地獄に行けるようなのは俺ひとりだ。お前が連れていかれる訳がない」
「でもさ、柩を持ってかれたら嫌だけど、柩と一緒だったら地獄でも楽しいんじゃねぇかな。オレはまだ死ぬってよくわからねぇけど」
「滅多なことを言うな、」
寝転がる橘を抱き上げて、正面から体を腕の中に押し込めた。
橘の腕の中から追いやられて、火車が不満そうに声を上げる。その両の目から橘を守るように更にきつく抱き込む。
頬をかすかに赤くした橘が柩の着物を掴む。
「オレはまだまだ死ぬつもりなんて全然ないぜ?まだ柩に勝ってないし、まだ柩の飯も食い足りねーし」
「ああ、まだ勝たせてやらないし、美味い物も沢山食わせてやる。だから、お前をどこにもやらない。お前が行くと言うなら、俺は行かない」
「…へへ、美味いもの、楽しみー」
ぎゅうぎゅう抱き着いてくる橘の顔を上げさせて、唇をやわらかく啄んだ。
もしも柩が死ぬときは橘を一緒に連れていけたら、地のはてまで、あの世までこの蛍を手放さないで抱いてゆけたら。
一瞬だけ浮かんだ幻を振り払い、橘の頬をいとおしく撫でる。
まだ現世でやるべきことがある。守りたい、大切な存在をこの手に感じていたい。
放って置かれて飽きたのか、黒猫はこちらを一瞥すると、にゃあと鳴いて姿を消した。
あそこで幻が呼んでるよ
少年チラリズム
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2011.12.14