02 運命の天秤
出会わなければ、変わらなかった。
しかし出会わなければ―――…幸せにはなれなかった。
鏡合わせのようだ。俺が不幸であったなら、きっとお前は幸せでいられたのだろう。俺が幸せになりたいなんて、願わなければ。
いいやそもそも、"愛してくれる人"が欲しいだなんて。手を触れ合わせ、"このままでいたい"などと。愚かな考えを 持たなかったならば?
――お前は、助かっていたか?
それともああ、そうか。 俺が―――"不幸だったなら"。
床に敷かれた赤茶の絨毯を踏みしめて焔は歩く。長い廊下だ、部屋がいくつもあって立派な扉とその横に掲げられたプレートには部屋の主の名前が示されている。
【軍事組織 Eden】と呼ばれる、世界に知れ渡る軍事組織。焔はそこに所属する優秀な軍人であり、同時に…
「よう、焔先生。任務帰りか?丁度良かった、傷の具合見てほしくてな」
「包帯外しゃ分かるべ…治療したの誰だと思ってやがる」
「はいはい天才軍医様は見なくても分かるんだろさすがだな」
「殺されてぇなら外で首と頭分けてやるけど?」
「お断りしまーす」
焔の自室の前に立っていた男の軍人がからかうように笑う。焔が白衣を身に纏う理由は自身が軍医であるという所にあり、決して前線で戦うような立場ではないのだが。
そのあたりは彼の性格というか曰く「戦うのが好き」という所謂戦闘狂である。焔はため息を吐いて自室に入った。
デスクにはパソコンが電源のついたままで放置され、床に落ちた書類には乱雑にサインがされている。窓から入り込んだ風がデスクから吹き飛ばしたのだろうか。
壁のように設置された本棚には開く前から頭が痛くなりそうなタイトルの本や、軍医故の医学書が所狭しと並んでいる。
血に濡れた白衣を洗うために備え付けられた洗濯機へインナーと一緒にぶち込むと、新しくインナーのタンクトップを来てクローゼットから別な白衣を取り出す。ソファの背もたれに掛け、自信はそのソファへと横になった。
部屋に入って一息つこうと思ったはいいが、いざソファに寝転ぶとどうしてか睡魔も何もかもがなくなる。外に出たい。街を歩いて気分転換でもしよう。
がばっと勢いよく起き上がって、さっき背もたれに掛けたばかりの白衣に袖を通すと薄紫色の布に包んだ大太刀「百鬼」を背負い彼は部屋を出た。しっかりとドアノブに「外出」のプレートを下げて。
「…焔、また外に出るのか」
「気分転換だ」
「そうか…あまり遅くなるなよ。仕事がまだ残ってるだろう」
「サインはしてある。提出すりゃいいだけだ」
あと処理から帰ってきたのであろう花厳の横を通り過ぎて焔は外に出た。
「……気分転換、か」
花厳が呟く。彼はとある理由から焔の監視も請け負っているのだが、ここ最近の焔の外出状況が異常に増えているのだ。長く焔と付き合ってきたからこそ分かる。
「気分転換?いいや違う。焔、お前は探してるんだろう?」
墓地で彷徨う魂のように。
******
がやがやと賑わう街並み。至極当たり前のように耳に入り、そして過ぎてゆく喧騒。
視界の隅を流れてゆく黒、茶。彩りこそは鮮やかな服を身につけて流れて行く、極めて一般的な、人。
そんな中で目立つ白衣と赤色の髪。埋もれるようにして歩く焔はただぼんやりと先だけを見て歩く。別段何に興味があるわけでもない。用事もない。気分転換に外に出て風を浴びて、それだけ。
あとどのくらい歩いたら帰ろうか、などと考えていた時、彼の背後から声がかかった。
「ちょっとそこの、赤髪のおにーさん」
「…あ?」
「へへ。アンタだよ、赤い髪してる人なんてアンタしかいないっしょ?」
振り返ればそこには、焔とあまり身長差はない…焔の方が大きいだろうか、青年が立っていた。それなりに、程よく筋肉のついたガタイに白いワイシャツ。風貌からして学生だろうか、しかし目を引くのは奇抜とも取れる緑色の髪。両手首に着けられたリストバンドも腰のベルトも、ワイシャツから覗くインナーも緑色。緑ばかりの青年だったが、その瞳は焔と同じ―鮮やかな赤色。
「おにーさん名前はなんていうの?」
「人に名前を聞くときは自分からじゃねぇのか」
「あは。そうだった、俺は景山…景山和真っての」
景山和真、と名乗ったその青年は「おにーさんは?」と人懐こい笑顔を浮かべて焔にまた一歩近づいた。その笑顔を見て焔は一瞬、ほんの一瞬だけ息が詰まる。
今までに感じたことのない感覚だった。自分の内側がざわめいて、言葉では言い表せない感覚に陥る。
「おにーさん?どったの?」
「…!いや…なんでもねぇよ。…名前は焔だ」
「へぇ、焔っていうんだ…じゃあ焔先輩だね」
「んで、俺に何か用かがきんちょ」
焔がそう言えば景山は「だから景山和真だってば」と頬を膨らませた。しかしすぐにその表情をまた人懐こい笑顔に戻すと焔と向かい合う。
「いやぁ一目見て興味湧いちゃってさ。焔先輩今時間ある?俺とお茶でもしない?」
「……は?」
「ね、少しでいいからさ!」
新手のナンパか?焔は内心ため息を吐く。なぜ男性が男性を誘うんだ。そこは女性を誘う者じゃないのか。しかもこんな年端もいかぬ青年になぜ。
疑問ばかりが浮かんで仕方ないが、同時に焔は彼に…景山に興味がわいたのも確かだった。あの人懐こい笑顔を見るとどうしてか内心ざわついてしまう。決して悪い意味などではなく、なんと表せばよいのか…。
「…しゃーねぇ、付き合ってやるべ」
「まじ?やった!俺いいところ知ってるんだよ、ほらいこーぜ!」
「おい、引っ張んな…」
景山が焔の腕を引く。
ふわり、と。焔の中でまたざわつく何か。いいやそれとは別な、暖かいものだった。
*******
「あーぁ…」
それなりの高さがあるビルの屋上。落下対策に設置された柵の向こう側に座り込んで、その様子をただ見下ろしていた影が息を吐いた。
少しだけ長い、鮮やかな青色の髪。赤い髪紐で纏められた髪を風に揺らめかせているその人の顔は太陽を背にしているせいか表情が読み取りにくかった。しかし声色からして微かな笑みを浮かべているのだろう。
「そのまま素直に諦めて、捨てておけばよかったのにさぁ…」
そう言って影は膝の上で丸まっている猫を撫でた。ふわふわした毛並みは触り心地がよさそうだ。
撫でられた猫はピクリと耳を立て、同時に尻尾を揺らす。その尾は、一般的な猫にはあり得ない二又の尾だった。
「まぁいっかぁ…どうせ"罪の記憶"として残っちゃうんだから」
「…にぁ」
「んん?いいんだよぉ放っておいて…あいつの幸せはあいつが得た大切な人の幸せを呪うんだよ。…今は知らないだろうけどねぇ」
いずれ消え逝くその掌を合わせて、ひたすらに考えればいい。
「運命(さだめ)の天秤を壊しちゃえよ。そうすりゃ幸せになれるぜ」
その代償は……。そう言って影はまた猫を撫でた。
――next...
目次へ