「日野にね、行ってきたよ」

ここに来る前。午前中だったかな。静かなピアノ音楽が流れる中、カチャカチャと時折立てられる食器の音に紛れるように、しかし確かにその声は彼女の耳に届いた。
ちらりと、向かい側に座る男性が、彼女の様子を隠れみる。
固く閉じられた口元も、冷たく伏せられたその視線にも変わりはない。手元も食器の上で規則正しくナイフが動いていて、男は内心、つまらないと感じた。

「…あそこは相変わらず更地のまま。過去、武偵の卵の学生が2人も亡くなったっていうのに、慰霊碑どころか墓もあったもんじゃない。悲しくて涙が出るね。冷たい世の中だ」
『……慰霊碑や墓ができれば納得するという訳でもないだろうに』

ようやく彼女の口から絞り出されたような言葉に、男は口の端を歪めるようにして笑った。

「それもそうだ。そんなことで俺の、俺達の戦徒が忘れ去られていいはずがない。そう思うだろう?図書隊も良化隊もあの第一第二の日野の悪夢に大義名分を掲げている。俺達の戦徒を、ダシにしてる!!」

勢いよく叩きつけられた拳が、テーブルの上のワイングラスを倒した。真っ白なテーブルクロスをじわじわと侵食していく赤いワインに、視線がうつった。
じわじわ。じわじわ。どんどん、どんどん溢れていく。止まらない。

―――とまらない…!血が、血がとまらない……!!どうしよう…潮っ、レキ達の、血が……!

フラッシュバックだろうか。彼女の眼下に広がった光景は一瞬にして消えたものの、手元は急なそれに止まったままだった。
堰を切ったように、男の口からは話がとめどなく溢れ出す。

「俺と一緒においで。俺と、俺達の戦徒の想いを果たそう!俺達にしかできない。俺達にしか、あいつらの想いはわからない。だからこんな馬鹿げた世界、変えてやるんだ!!」
『……2人の想いを果たす?世界を変える?』
「そう。そうさ。あいつらはこんな未来望んじゃいない。俺達の手で、変え、」
『あのさ、』

半ば食い気味に、彼女が声を重ねた。
それとほぼ同時に、彼女は握っていたナイフを静かに脇へと寄せる。皿の上の上品な子羊のローストは、細切れにされているだけだった。

『本題があるなら、早くしてくれないかな。前置きに2人の話をされるのは、不快でとても腹立たしいことだって、わからないかな。今小鷹がやってることは、小鷹が憎んでいる相手と一緒に思える』
「っ、俺は、」
『俺は、俺がって。もうそれは2人のためじゃなくて、エゴだ』

疲れたように伏せられた彼女の目は、白んだ彼女自身の両手に向けられた。ぎゅっと拳を作った両手に、血の気は全くと言っていいほどない。
男は狼狽えた。この口調、まるで今日呼び出した理由を、知っているかのような。
彼女の鋭い眼光が、男をとらえた。

『2人のことは忘れたわけじゃない。忘れられるわけもない。憎い気持ちだってあるかもしれない。けど、それが生きている人達のことを、…生き残った戦姉妹を蔑ろにして、今を生きることから逃げていい理由には、ならない』

がたりと音を立てて椅子から立ち上がった彼女に、男が縋るように声をかけた。

「潮…!」
『本題。未来企画だよね。ごめん、入らないよ。もう、今後のことは決まってるんだ』

ぐっと唇を噛んだ男を振り返らず、潮は静かにその場をあとにした。

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