右半身のひんやりと冷たい感触に高尾は目を覚ました。まだ昨日の具合が引いているのか、こめかみがつきつきとした痛みを訴えている。体を支えようと反対の手で頬の横に手をつく。固い床の冷たさに顔をしかめる。どうやらコンクリート作りのようだ。そういえば右腕が麻痺したように動かない。視線が安定せずグラグラと頭が揺れる。まるで昨日緑間相手に頭突きをかました後に襲われた感覚だった。昨日はリアカーに乗せられていた。だが、今日寝ている場所は地面だ。なぜ自分が床に倒れているのかまでは思い出せない。起き上がろうとした中途半端な体勢のまま、高尾は崩れ落ちた。はぁ、と大きく息を吐き乱れた呼吸を必死に整える。酸素が足りないと脳が叫んでいる。びり、とした痛みに思わず呻く。唇の端に指先を触れて、ようやく自分の体がボロボロなことに気づいた。
 殴られたのか、油断すると沈みそうになる意識を無理矢理引っ張り上げて、考える。思い出すまでもない。高尾は嵌められたのだ。あのお綺麗な面をぶら下げた男に。
 どこかおかしいとは思っていた。都合のいい女子生徒の疑惑。人の噂に敏感な高校生達の話題に登ったことなどない。ましてや謀ったとしか考えられないタイミングのよさ。なぜ気づかなかったのか。元来高尾は頭の回転が速い。冷静になれば付け込む矛盾はあったはずだ。
 分かっている。高尾はもう、分かってしまった。緑間だから、だ。緑間が危ないと、思ってしまったから。きっと、もう偽ることができないほど、緑間真太郎という男に惚れているから。
 例え、嵌められていると気づいていたとしても、高尾はこうすることを選んだのだろう。緑間を守るために。緑間を危険から遠ざけるために。
 緑間の守り続けた指先を。緑間の愛し続けたバスケを。緑間真太郎という男のすべてを。高尾は、ただ守るのだ。クラスメイトとして、チームメイトとして、友人として、相棒として、そして。

 一人の愛しい人として。


 「やっと起きた?」

 聞き覚えのある声に、高尾は視線で追う。今が何時であるか高尾には知ることができないが、恐らく数十分前に顔を合わせた相手だ。間違えるはずもない。無邪気な笑顔は見れば見るほど整っていて、栗色のフワフワとした猫毛もほんのりと赤く染まる丸い頬も愛らしい。おもちゃを見つけた子供のように残酷な光を称える双眸に、ぞくりと背筋へ震えが走る。
 高尾の右半身は相変わらず言うことを聞かない。左手も潰されたのか、徐々に力が入らなくなってきた。自慢の鷹の目は、左目ならば使えるもののやはり右目がぼんやりと霞む程度にしか見えない。彼の、両端にはニヤニヤと下劣な笑みを浮かべる男達。全員が全員学ランというわけではないから、他校生も混じっているのだろう。しかし、どの男も、目の前の相手をいたぶることしか頭にないようだ。まったくもって、救いようがない。

 「ごめんね、高尾くん。本当はここまで乱暴にするつもりなんてなかったんだ。僕、暴力ってあんまり好きじゃないし」

 ふざけるな、状況だけに容易く口にできる言葉ではなかった。高尾は無理に言葉を燕下する。周りの人数はこの男も合わせて8人。対して高尾はたった一人。しかも、かなりの重症だ。圧倒的に不利。どう考えても打破することは不可能だった。

 「あぁ、勘違いしないでね。僕は別に君にフラれた腹いせにこんなことをしているわけではないんだよ」

 「じゃあ……」

 「僕はね、ただ君が好きなんだ。愛してるんだよ」

 どこか現実味のない台詞が高尾の耳を擦り抜ける。けれども、男はうっとりと恍惚めいた表情で高尾に近づく。

 「頭のいい高尾くんなら、分かるよね。僕が目の前にいても君は予想通りとでも言うように動揺一つ見せなかったんだから」

 「真ちゃんは……緑間は、どこだ。頼む、から。あいつには、手を出さないでくれ」

 途端に男は表情を消し、つまらなさそうに目を細めた。

 「緑間。緑間緑間。また緑間、か。そんなにあいつがいいの」

 問い掛けられる瞳に、口をつぐむ。何を言ったとしても、緑間にとって悪い事態にしかならないだろうと高尾は判断した。

 「ねぇ、高尾くん。簡単な“取引”をしよう。本当に簡単なことだよ。君が僕を選んでくれれば、いい。そうすれば、君を解放してあげる。あいつにも、今後一切手を出さないと誓うよ」

 ぐと近まった男のハニーフェイスが、高尾の鼻先数センチの位置で妖しい笑みを見せる。労るように慈しむように、高尾の頬を撫でてくる。ここで頷いたとして、緑間の安全が確保されるとは限らない。下手に反応すれば高尾もすぐさま蜂の巣となるだろう。

 「まぁ、いいや。どっちみちあの女も痛めつけてやろうと思っていたから、緑間くんも巻き込まれてるんじゃないのかなぁ?」

 「……あの女?」

 「そ。よりにもよってこの僕のことを告発しようとした馬鹿な女。飢えた男共の格好の餌食だね」

 「なっ…!そんなことすれば確実に学校側にばれてアンタもただじゃ」

 「済まないって?それはどうかな」

 くくく、男は堪らないと言うように忍び笑いを零す。
 この男にダシにされた名前も知らない少女。確か彼女は男の取り巻きの一人だったはずではないのか。少女が想い慕う男の本性を知ったとき、どんな気持ちだったのか。裏切られたと知ったときの気持ちは。高尾は言葉にならない憤りに唇をきつく噛み締める。

 「このことを知っているのは、僕と君と緑間くんとあの女。あの女がわざわざ学校側に告げ口すると思う?なんて言うの?他校生に強姦されましたって?いいね、それ!捨て身の告白か。
 それに言っておくけど、僕は学年首席で生徒会の人間。彼女はしがない一般生徒。さて、賢明な教師陣はどちらの言うことを信じると思う?しかも、ここは都内有数の進学校。あはは、面倒ごとはなにより嫌うだろうね。問題自体を揉み消すかもしれない。 君達の方は?部活という一つの団体だ。言うまでもないね」

 息が詰まる。行動できない自分が憎い。彼女は、きっと高尾のために危険と分かって動いてくれたのに。例え原因が目の前の男であったとしても、問題を起こせばバスケ部の問題ともなる。すなわちそれは、試合出場が危ぶまれることにも繋がるのだ。運動部にとって、敏感にならざる負えないほどそれだけは回避しなければならない問題だ。
 高尾はもう既に満身創痍といっていいほどの深手を負っている。冬のWCまでにはどうあっても治すつもりだが、先の練習試合には出れないかもしれない。緑間と特訓している技の完成も。この時期に練習ができないというタイムラグは、レギュラーから降ろされる可能性も出てくる。そうなれば、高尾はチームにいらない存在と見做されるであろう。緑間の隣に立てないことは、すなわち高尾のバスケへの否定と同義であった。
 そうなるくらいならばいっそ、という考えが高尾の脳裏にちらつく。すぐに頭を振って、部活後の緑間のシュート練習を思い出す。IH予選で誠凛に負けた緑間は、より一層人事を尽くしている。フレームの奥に隠された射殺さんばかりに眇られる獰猛な視線。まるで恋い焦がれるかのようにボールへ触れる指先。その先に待ち構えるゴールに、一寸の狂いもなく突き刺さる。同じフィルムを巻き戻し擦り切れるほど何度も何度も再生している正確さというのに、明彩は欠くどころかむしろ磨きがかかっている。そうして緑間は人事を重ねていく。高尾とて、努力の割合で言えば同じかそれ以上だ。日々命を削るように鷹の目でボールを追い、比例して吐く回数も段違いに増えた。エースの隣に立つ人事、高尾が選んだ道はあまりにも険しい茨の道だ。それだけではない。チームには、今年で最後となる三年生の先輩がいる。最後の年ながら、一年にレギュラーの座を奪われたベンチの三年生もいる。だめだ。出場停止は、それだけは。

 「そうだ。高尾くんに選ばせてあげる。あの女か、君の大好きな緑間くんか」

 愉快げに声を上げる男の言葉が倉庫内に反響する。ぎり、と歯を噛み締める高尾は、憎々しげに男を睨み上げた。

 「それとも、君がバスケ部をやめて僕の恋人になる?そうしたら、二人には手を出さないよ」

 最初からこの男はこれを狙っていたのか。高尾に逃げ出す機会を与えないとばかりに、外掘を埋めてくる。高尾にそれ以外の回答を答えさせないために。
 悔しい。高尾は力の入らない右手に拳を作る。全て一蹴できるほどの力があれば。無力な自身が情けない。この男の言いなりになるよう仕向けられたことに気づかなかったなんて。

 「分かった」

 男の口の端が吊り上がり、大きく弧を描く。虐げられる者に対する優越感を、隠そうともしていない。

 「バスケ部を、やめる。アンタの恋人に、なってやる」


 ――ごめんな。緑間。



 その日。既に6限の予鈴もなり、全身大怪我を負った高尾はノコノコと教室に戻る訳にもいかず、大人しく家へと帰り両親と妹からの尋問を受け病院へ連れ出された翌日。いつものようにリヤカーを連結させた自転車を漕いで、緑間を迎えに行く。緑間のテーピングを巻いた左手には、おは朝占いのラッキーアイテム“ほうきとちりとり”の存在があった。やたらと長身の見目好い男子高校生が、自宅の前で突っ立っている状況では若干シュールな代物だ。吹き出しそうになるのを必死で堪え、自転車を停める。緑間は不機嫌そうな表情を見せたものの、高尾の包帯に巻かれた頭を見て言葉をなくしたようだ。眼鏡の奥で眇られた両目は驚愕で見開かれる。

 「その包帯は……」

 「これ?いやぁ、昨日思いっきりすっ転んじまってさ。ごめんな、勝手に帰って」

 「転んだ……?馬鹿め、人事を尽くさないからそうなるのだよ」

 「たはは…、つか、真ちゃんの方こそ昨日何かあった?」

 「…?なんのことだ」

 緑間は高尾の言っている意味が分からないというように首を傾げる。緑間が高尾に対して嘘を言う意味はない。芝居でもなさそうだ。ならば、昨日の男の取引は、と高尾は混乱する。そして、すぐに思い至った。あぁ、そうか。あの男に、また嵌められたのか。きっと、緑間も少女も男に捕われていたわけではなかった。高尾一人が男の言うことを信じてしまい、勝手に空回っただけだ。
 それでも別に構わない、と思う。高尾が守りたかったものは、無事だったと知れたのだから。

 「なんでもねぇよ。ほんじゃ、行きますか。エース様!」

 お前は、何も知らなくていい。
 例え、二度とお前の隣に立つことができなくても、お前だけが俺にとってのエースなのだから。



―――――君を想う僕は、いらない。







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