あっ、俺の短い声に驚いた子猫が、びくんと身を固くした。硝子玉のような瞳を大きく見開いて、下手くそな鳴き声を披露する。思わず落としそうになった子猫を抱き留めて、ペダルから足を離す。後ろを振り返ると、眉を寄せたまま不機嫌そうにこちらを見る緑間と目が合った。

「なぁ、緑間。今日のラッキーアイテムって確か」

「マタタビだが」

俺の疑問に合点がいったとでも言うように緑間はポケットの中から一本のマタタビを取り出した。意外とまともなお題ではあったが、緑間が一本だけを所持しているなど珍しい。どのようなラッキーアイテムだろうと必ず見つけるのだよと無駄な行動力を発揮する緑間は、大きければ大きいほど多ければ多いほど効果はあるはずだと存外単純な思考回路をしているのだ。
緑間からマタタビを受け取り子猫に渡す。しかし、子猫はキョトンと首を傾げるばかりだった。

「あれ、反応しねぇな」

「そうか。マタタビは子猫には効かない」

「そうなの?」

「猫科の動物にとってマタタビというのはそもそも、媚薬のようなものなのだよ」

「媚薬?」

「性的快感を促す薬だ」

へぇー、気のない相槌を打って、なんとなく潔癖なイメージのある緑間の口から飛び出た言葉に驚いた。俺が知っていたのは、猫がマタタビ好きという誰もが知っていそうな常識だった。それから、じゃあさと一つ前置きして自転車のハンドルに腕を乗せながら緑間の続きを口にしてみる。

「まだ生殖機能が発達してない子猫には、効かないってことか?」

「そういうことになるな」

「曖昧だなぁ」

「俺も詳しくは知らないのだよ」

マタタビの先でちょんちょんと子猫の顎を突いてやると、うにゃうにゃとよく分からない鳴き声で暴れる。長い尻尾が俺の腕を叩いて大層ご機嫌そうだ。
部活終了から大分居残った今の時間帯からではペットショップも開いていないだろう。遊び道具はこうして確保したものの、餌もなければ他に用意しなければいけないものも分からない。

「今、うちには誰もいない。一度寄っていくのだよ」

「お、マジか。ラッキーだったな」

なぁ、と子猫に同意を求めればにゃあ、とあどけない顔を見せた。俺は笑った。
190センチの巨体と掌サイズの子猫を乗せて、俺は自転車を漕ぎ出した。目指す方向は、毎日送る緑間の自宅。右へ左へ重心を傾けながら、長い道程を進む。
暗くなり始めた住宅街は、ピカピカと点滅を繰り返す街灯が頼りなさげに照らしているだけだ。俺は段々と乱れてきた呼吸に、大きく冷たい酸素を体内へ取り込んで咀嚼する。噛んで含んだ空気は、緑間のおしるこよりずっと甘ったるいような気がした。


緑間を送迎する際は、いつも玄関前で別れるのが俺の決まりだった。緑間は突っ立ったまま動こうとしない俺に気づいたのか、早く入れと促した。緑間母の趣味か、品のいい装いで飾り付けられた玄関は、いかにも上流階級の家庭を匂わせている。名前も知らないような薄紫と桃色の花弁が彩る花瓶。レースのふんだんに用いられた敷布。どこもかしこも綺麗に掃除の行き届いた内装。一度だけ緑間の母親とは顔を合わせたことがあったが、緑間に似て美しい容姿を持ちながら、おっとりとした雰囲気が印象的な人だった。丁寧な立ち居振る舞いもさることながら、まるでアニメにでも出てきそうな深窓の令嬢だ、と密かに思ったのを覚えている。緑間の外見は母親から、堅物な性格は父親から受け継いだのだろうか。
先を歩く緑間を追いかけ2階へ上がる。扉が三つある内の一番隅の部屋へ、緑間は躊躇なくドアノブをひねった。

「好きに座って待っていろ」

「何すんの?」

「ミルクとタオルを持ってくる。そのままでは部屋が汚れるだろう」

言われてそろりと子猫に視線を落とす。確かに外にいたこともあり、砂や泥で汚れているようだ。できるだけ部屋のカーペットに砂を落とさないように、子猫を組んだ足の間に降ろして座った。俺の制服が汚れる羽目になるが、緑間の高級そうなカーペットにシミを作るよりはマシだろう。鳴き疲れたのかうとうとと船を漕ぐ子猫は、ぱたりと倒れて動かなくなった。

「し、死んだのか?」

「呼吸はしてる。寝てるだけだよ」

「そうか…」

ほっと息をついて胸を撫で下ろす緑間を見上げて、俺は思わず忍び笑いを零した。照れているのかむっと顔をしかめる緑間がおかしくて更に笑う。

「何を笑っているのだよ」

「いや、真ちゃんって本当、優しいよなぁ」

ぴたりと一時停止してしまったみたいに、緑間は硬直した。いい加減、照れの沸点まで達すると、行動と思考が停止する癖はなんとかならないものか。よほど慣れていないのだろう、中学時代が少し心配になってくる。帝光では一癖も二癖もあるキセキの世代を纏め上げていた赤司と親しかったらしいが、上手く扱われていたのか。よくもまぁ揃いも揃って面倒臭い野郎共の統率を取れていたものだ。緑間一人でこれほど扱い難いのだから、いっそ感心してしまう。だからといって、緑間の扱いに関して俺が劣っているとは微塵も考えていないが。
緑間はしばらく動きを止めていたかと思うと、突然我に返ったように部屋を飛び出して行った。寸前ちらりと覗いた赤く色づいた目元は、俺の見間違いではないだろう。普段ならば作法にうるさい緑間が決して許さない、バタバタと足音を鳴らしながら階段を降りていくところ動揺が窺い知れた。一人部屋に取り残された俺は、寝息を立てる子猫の右耳に触れて落ち着きを取り戻そうとしていた。そうしていないとなんだか、おかしなことを考えてしまいそうだった。
緑間の部屋は家具やインテリア自体はシンプルながら、統一性のないラッキーアイテム達がぐるりと俺を取り囲んでいるせいで、不思議な圧迫感がある。ベッド脇に掛けられた時計の秒針が規則正しいリズムを刻む。カチカチカチ。心臓の鼓動も同じだ。自然、俺の左手は何かに耐えるように、強く胸元を掴んでいた。少しだけしわになった制服が、俺の複雑に絡んだ感情を代弁しているようだった。
ガチャ、扉の開く音に顔を上げる。わずかに肩が震えた。緑間は一度だけ俺を見て、ミルクを注いだ底の浅い皿と二つのマグカップを乗せたお盆をテーブルの上に置いた。

「早かったな」

「そうか?」

「お前のことだから、牛乳温めるのにもっと手間取るかと思った」

調理実習の時間、必ずと言っていいほど問題を起こす緑間は、教師さえも度々頼むから何もしないでくれと頭を抱えさせていた。嘘のような話だが、初めて包丁を持った緑間を見た瞬間の衝撃は到底忘れられそうもない。振り上げられた包丁に同じ班の女子が絶叫したのに驚いて、緑間に気づいたのだ。幸い緑間の隣の班だった俺は、咄嗟に緑間の腕を掴み事なきを得た。それからは緑間の役割といえば、もっぱら道具を出すか混ぜるかのどちらかである。
そういった事情を知る俺は、緑間が家庭でもキッチンに入ることを許されているとは思えなかった。何より緑間自身が左手を危険に晒すような場所へはできるだけ近づかないようにしているだろう。子猫のミルクを作るとして、皿がどこにあるかすら知らない可能性も否定できなかった。てっきり少なからず時間はかかるだろうと油断していた俺は、差し出されたマグカップを両手で包み込んで、口を開いた。

「馬鹿にしているのか」

憮然と言い張る緑間は、俺の真正面に腰を降ろした。

「俺だって温めるくらいはできるのだよ」

「いや、だってさぁ」

「両親はほとんど出かけていることが多い」

もう一つのマグカップに手を伸ばす緑間に、言いかけた口をつぐんだ。緑間の母親は専業主婦であるが、両親の仲がよく頻繁に出かけるらしい。極端に不器用な息子を置いて行くなど、心配ではないのだろうか。料理ができない息子に唯一教えたのが、作り置きしたものを温めるという手段だった。
緑間は腕に掛けて持ってきていたタオルを俺に投げ渡した。この辺り体育会系の癖が染み付いているようで、苦笑が滲む。よほど疲れていたのかぴくりとも動く様子のない子猫を起こさないように、慎重にタオルで体を拭く。しゅん、と小さくくしゃみをして俺と緑間を驚かせた。いつの間にか子猫を見下ろす距離まで近づいていた緑間と顔を見合わせる。吹き出す俺に緑間は慌てて距離を取って、下がってもいない眼鏡を押し上げている。

「可愛いだろ?」

「…ふん。猫など勝手気ままに家の中を荒らしていくだけなのだよ」

以前、一度緑間がおは朝占いを見逃したことがあった。おかげで緑間はその日一日、命の危機と隣り合わせだった。大袈裟ではない。鉄骨が倒れてきたときは、本気で頭が真っ白になったものだ。おは朝の番組を見逃したというのも、猫が家に侵入してきたのが原因らしい。なんだそれ。

「その割には、こいつ飼わないって言ったとき、ちょっと残念そうな顔してただろ」

「なっ、していないのだよ」

「またまたぁ」

相変わらず妙なところで素直になれない緑間をからかいながら、そっと子猫の白黒に別れた斑模様に触れる。

「なんにしても、俺は人間様ほど自分勝手な生き物はいないと思うけどな」

「……仕方ない部分もあるだろう」

「まぁね。飼い主にも飼い主の事情があるんだろうし。俺達がこうして一時の同情で連れてきたって、野良に帰れば保健所行きは免れないかもしんねぇ」

所詮、運命のサイクルなんて皆そんなふうにできている。緑間のように人事を尽くしても、報われる運命は一握りだ。誰よりも努力を重ねた緑間が、一番よく知っているはずだろう。そうして小さな生き物は、神様に選ばれながら日々弱肉強食の世界を渡っている。定められたレールの上を、渡っている。

「高尾」

「んー?」

「そのことだが」

腕を組んで険しい表情をする緑間に視線を移して、首を傾げる。言い淀む、というよりこのタイミングで言ってよいものかと思案している顔だ。

「なんだよ」

「あぁ…。そいつは一応ウチで預かっていいことになった」

ぱちぱち、目を瞬かせて、緑間の台詞を反芻する。預かる?何を。そいつを。そいつって、こいつ?そうだ。
何を当たり前のことを、とでも言いたげに呆れた顔の緑間を見て、ぽかんと口を開く。ひどい間抜け面をしている自覚はあった。

「は」

空気と一緒に吐き出した声は、随分と情けない音になった。考えてもいなかった。緑間の家で預かる、だなんて。真っ先に緑間が許すとは思えなかった。

「いや、でも。おばさん今日いないって」

「さっき電話があったのだよ。ついでに報告したら、あっさりと了承を得たのでな」

いや、でも。でもでもでも。並べ立てる俺に、緑間は淡々と無表情で答えていく。

「俺が勝手に連れてきたのに」

「もとはといえば、俺が見つけたのだよ」

「いいのかよ」

「こいつの飼い主が見つかるまでだ」

え、俺は再度目を瞬いた。

「飼い主、探すのか」

「さすがに、ずっと面倒をみるわけにはいかないのだよ」
「そりゃ、そうだけど。なんで」

「お前が言ったのだろう。野良に帰しても保健所行きがオチだと」

そうだけど、と同じ言葉を返すも、弱々しい。じわじわと熱を上げていくものはなんだろう。侵食されていくみたいに心が柔らかくなっていく。そうか。この子猫、助かるんだ。まだ、助けてあげられるんだ。腕に抱いた小さな子猫が、急に重たく感じられた。これが、命の重み、なんだろうか。ポカポカと暖かい。愛おしい。可愛い。守って、あげたいな。

「真ちゃん」

「なんだ」

「こいつの飼い主、絶対見つけような」

「…当然なのだよ」

ふん、偉そうに鼻を鳴らす緑間が、今の俺にはいつもより大きく見えた。





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