床を滑るバッシュの音が体育館中に響き渡る。高尾は休憩がてら手にしたスポーツドリンクを傾けながら、一心不乱にゴールへ向かう緑間を眺めていた。こめかみを汗が伝う感触が嫌に背筋を震わせる。火照った体に今の季節冷えた体育館は急速に体温を奪ってくる。うなじに張り付いた髪を乱暴に払い、ドリンクと共に隅に置いてあったタオルを首に掛ける。目の前の男は、ハーフライン上から動かないままにフォームの崩れない美しいシュートを放つ。常にコートを駆け回る高尾とは違い、こうして遠くからスリーを狙うことに意味を見出だす男だ。高尾に比べるとスタミナを必要としないが、それでも高尾でさえ吐くほどの練習をこなした後の自主練にしては男の額に汗一つ見当たらない。何となく感じる不公平さに唇を尖らせて高尾は緑間に声を掛けた。
「真ちゃん、俺もうそろそろ帰ろうと思うんだけど。あと何回で終わんの?」
「このシュートで今日のノルマは達成されるのだよ」
言い終わると同時、シュッと軽い音を立ててオレンジのボールがゴールの真ん中へと突き刺さった。
「帰るぞ高尾」
「へーい」
反射的に緑間のタオルを引っつかみ高尾は投げ渡す。緑間は高尾に目もくれず当然のように受け取ると、さっさと部室へ歩いていく。慌てて追い掛ける高尾は、今だズキズキと痛む頭を押さえて苦笑を漏らした。
「高尾」
「んあ?なに、どったの真ちゃん」
「今日の昼休み、どこに行っていたのだよ」
高尾は汗でベトベトに汚れたシャツを脱ぎ捨て、緑間を見上げた。ペラペラと聞いてもいないことを喋り続ける高尾と違って、黙々と着替えていた緑間は既に制服をきっちりと着込みロッカーに手を掛けていた。高尾は意味もなく頭をかいて困ったような笑みを浮かべる。
「言ったじゃん。購買部に寄ってたんだって」
「そんな言い訳が俺に通用すると思うか」
「通用してよ」
はぁ、と今日何度目かも分からないため息を吐いて、ワイシャツに腕を通す。緑間は高尾が同性から告白を受けようと誰かに言い触らしたり、態度を変えるような真似をする人間ではないと分かってはいるが、だからといって話す気にはならなかった。もしそれで少しでも嫌悪を見せられたら、同じように同性である緑間を好きな高尾は立ち直れない。
「別にいいだろ、何でも」
「下僕の分際で隠し事とはいい度胸なのだよ」
「お前が気にするようなことじゃねぇって」
わざと分かりやすく、にぃと深い笑みを浮かべる。これ以上干渉するなという意味を含めてだ。
大抵、緑間はそれだけで何が言いたいか理解して、納得いかないながらも口をつぐんでくれていた。が、今回はそうもいかなかないようだ。
逃げることは許さないとばかりに距離を詰める緑間に、嫌な予感が高尾を襲う。
「ならば、当ててやろうか」
「へ」
ガン!
鈍い音を立てて開け放たれたままのロッカーが勢いよく閉まる。それが緑間の仕業と気づいたときには、高尾の右腕は緑間の左手に捕らえられていた。逃げようと一歩退くも背中には自身のロッカーが阻んでいる。目の前にはアンダーリム眼鏡の奥の翡翠がグツグツと煮立ったように熱く重量を増している。試合中の真剣さでもって睥睨され、全身が痺れたように動かない。拘束されているのは腕一本でも、視界の先にちらつく綺麗にテーピングされた左手を見て到底振り払うことなど高尾にはできなかった。
「なに、すんだよ」
存外至近距離にある緑間の目を真っ直ぐに睨み返す。黙っていればきつい印象を与えがちな釣り目が更にきりりと引き上がる。声が震えそうになって小さく唾を飲み込む。練習中とは違う種類の汗が握る手の平にじんわりと染みて、唇を引き結んだ。ぐ、近くなる緑間の顔に、高尾はロッカーに頭を強かに打ち付けた。痛いと悶える暇もなく、耳に寄せられた緑間の口に、一気に体中が沸騰する。ぎゅう、と閉じられた瞼にうっすらと涙が浮かぶ。
「高尾」
重くのしかかる低い音が、高尾の名を呼ぶ。ぞくりと全身を隈なく犯していく声に肌が粟立つ。過剰反応している自覚はある。緑間でなければ気持ち悪いと叫んで突き飛ばしているところだ。これ以上緑間の言葉に耳を傾けていては危ないと理性では分かっているのに、足元は床と縫い付けられてしまったかのように微動だにしない。
「高尾。好きな人とは、誰のことだ」
高尾は目を見開いた。拍子に滲む涙が一筋頬を伝う。
「おま、聞いてたのか」
思い返すのは昼休み、呼び出された先で待っていた男子生徒に断った台詞。知っていてわざと何をしていたか聞いてくるとは、緑間も性格が悪い。
「今、俺は質問をしているのだよ」
言うが、どこか確信めいた緑間の顔は、口角が僅かに上がっている。左手の拘束もいつの間にか緩み、逃げられるものなら逃げてみろと言わんばかりだ。羽織っただけのワイシャツが心許ない。
「あれは、断るための嘘に決まってんだろ」
「断り文句なら他にもあるだろう。同性ならば尚更」
「傷つけたくなかったんだよ」
「お前が興味のない男相手に、そこまで殊勝な考えを持っているとは初耳だな」
ぐ、と押し黙る高尾に緑間は意地の悪い笑みを浮かべる。まさかそこまで緑間が自身の好きな相手を気にすると思っていなかった高尾は、引き攣る頬を歪めて無理矢理笑顔を作ってみせた。
「なに、真ちゃん。じゃあ、俺が好きなやつ、誰だと思ってるわけ?」
高尾が墓穴を掘ったのだと気づいたときには遅かった。緑間の両腕が肘で半分に折られ、今までの距離が可愛いと思えるほど近まったのだ。緑間の美貌を形作る長い睫毛の一本一本が観察できる距離。お互いの呼吸が触れ合う。緑間の片膝が高尾の脚を割り開くようにぴたりと添えられている。高尾は完全に身動きの取れなくなった状態で、顔からはすっかり血の気が引いていく。
「何、して……」
「言え。お前の口から聞くまで、ここから退く気はないのだよ」
余裕のなくなった高尾は何度も生唾を飲み込む。緊張から強張った体に妙な力が入り、青ざめた唇が震え出す。緑間の膝が高尾の腿を押し上げるように動き、溜まらず喉の奥から声が漏れる。
「っうあ……」
自身のものとは思えない甘い声に高尾は唇を噛み締める。滲む涙が眦から溢れボロボロと止まらない。緑間に対する嫌悪ではない。素直に反応する自身の体への生理的なものだ。心では望んでいないのに、欲求に従順な体はどんどんと熱を増していく。
「高尾」
耳に押し当てられた唇が明確な形を作ってダイレクトに高尾へと伝わる。視界を遮断しているせいで、敏感になった聴覚が緑間の低い声にいちいち反応する。はだけたワイシャツの隙間から滴る汗が、高尾の緊張を表していた。
「や、めろ」
「高尾」
「も、いやだぁ……」
必死に頭を振る。その度、髪が緑間の頬を撫でても気にする余裕すらなかった。完全に力の抜けきった高尾をかろうじて支えているのは、両腕を捕らえる緑間の掌のみだ。ガクガクと徐々に笑い出す膝が限界を訴えている。
緑間に想いが知られてしまうことが、高尾にとって何よりも恐れていたことだった。誰よりもバスケに対し誠実で真剣な緑間の邪魔な存在にはなりたくなかった。高尾もまた、高校三年間をこの我が儘な男を支えるために費やすと決意したのだ。高尾の決意とて揺るぎないものではあったが、さすがに好きな相手に詰め寄られて固く口を閉ざすのも難しい。
高尾は既に限界だった。ワイシャツ一枚に隔たれた触れ合う熱も、意地汚い自身を晒す姿も、少しでも油断してしまえば醜い感情を吐露しそうになる薄い口元も。
部活からずっと我慢し続けた頭痛さえも。
両足に最後の力を込めて踏ん張る。そして、
「!?」
高尾は、緑間の顔に自身の額を思いっきり叩き込んだ。