◎ 哀しい恋の匂いがした
「真選組副長土方十四郎!幕府要人殺害で現行犯逮捕する!!」
カラン、と刀が地面に落ちた。静かな路地裏に似合わぬ大量の足音と怒声が飛び交う中、土方十四郎その人はただ自分の足元に転がるもはや誰と判別がつかぬであろう死体を視界の隅にうつした。
哀しい恋の匂いがしたその日の朝は夢見が悪かった。何の夢を見たかは覚えていないが、悪かった気はする。晴れない気持ちのまま、まだ子供の従業員がいるリビングへと銀時は足を運んだ。
朝食が並べられている、いつも通りの卵かけご飯。だがイレギュラーな存在が一つ銀時の視界に入ってきた。そいつは堂々と卵かけご飯を食べながらおはようございますなんて呑気なことを言ってきた。従業員二人も何でこんな奴をわざわざ家にあげたのか。
「あー、なんでここに居んのかね」
「細かい事は気にしないで下せェよ旦那。あ、眼鏡おかわり」
「ちょっとちょっとナチュラルにおかわり要求しないでくんない?」
真選組一番隊隊長沖田総悟は銀時の言葉を無視して早くしろィなんて言っている。ちょっと副長さんに教育方針を聞きたいくらいだ。育て方を間違ったとしか思えない。銀時は軽くため息を吐いた。
「で、本当に何の用?」
「土方さんが捕まりやした」
「……は?」
「幕府のお偉いさんをちょっと殺っちまいやしてねェ」
「え、何してんのお宅の副長さん」
「本当、阿保としか思えないでさァ」
卵かけご飯を掻き込む沖田を、銀時はただ見ていた。
銀時と土方の関係は、それ程いいものではなかった。顔を合わせれば喧嘩、喧嘩、喧嘩でお互いがお互いを気に食わない存在として認識していた。だから沖田がなぜわざわざそのことを話に来たのか銀時にはわからなかった。
銀時がもんもんと考えている間に沖田は卵かけご飯を食べ終わったらしく、行儀正しく両手をあわせていた。
「じゃ、俺は帰りまさァ」
「え?そんだけ言いに来たの?」
「ええ、そうですけど」
沖田は何事もなく万事屋を出て行った。残された銀時は、混乱する頭を抱えてただ呆然と立ち尽くしていた。
朝の出来事から気分を変えようと少ない所持金を持ってパチンコに向かった。だがその途中で見慣れた隊服が目に入る。げ、と思って進行方向を変えようとしたがその前に声をかけられてしまった。
「旦那」
「んだよジミー俺は忙しいのさようなら」
「ちょちょちょ、待って下さいよ!」
山崎は銀時の腕を掴む。銀時は忌ま忌ましそうに山崎を見た。だがいつも土方に邪険な扱いを受けていて慣れているのか、また何事もなかったように話し出した。
「副長、捕まったんです」
山崎のその言葉に、またかと眉をひそめる。いったい何なんだ、どうして皆俺に土方の事を報告したがるんだと胸の内の疑問が膨らむ。銀時は山崎の腕を振り払って面倒臭そうに答えた。
「知ってるよ。朝沖田君が言ってたからね」
「副長、絶対に拷問受けてますよ」
「……」
だから何で俺に言うんだと叫びたくなるが寸前でぐっと堪える。
「副長が無実でも、俺達には助けられないんです」
なんて、悲しげな顔でそんな言葉を残して山崎は去って行った。
なんだこれ、間接的に俺に助けてくれと言っているのか。確かに土方が真選組の不利になるような事はしない。それに幕府の要人を殺害するほど馬鹿ではないだろう。
「―――っくそ」
関わりたくなかったが、もう目を背けられないところまで知ってしまった。これで見捨てる事など銀時にはできやしない。それに土方のことは気に食わないとはいえども嫌いではなかった。真っ直ぐに生きるその在り方は、むしろ好いていた。だから、
銀時の足はもうパチンコ屋には向いていなかった。
**
冷たいコンクリートの地面に横たわっていた土方は、聞こえて来た一つの足音に静かに目を開けた。先程まで拷問を受けていた身体にはあちこちに血が滲んでいて、土方にも起きる体力は残されていなかった。ガチャガチャとドアが開く音がする。牢獄に入って来たのは幕臣だった。この場に不釣り合いな高級な服を着て土方を見下ろしている。
「ふっ、痛みには慣れているようだな」
「んだよ、てめぇ…」
「壊すにはまだ時間がかかりそうだ」
「意味、わかんねぇ」
「私はね土方君、君が邪魔なんだよ。真選組の中でも勘のいい君が」
男はそう言って懐から何かを取り出す。それが何らかの薬物を入れた注射器だと土方が脳で認識したときにはもう遅かった。元々拷問で体力を奪われていた土方は、ろくな抵抗も出来ずに男に抑えられる。自分の右腕に消えていく液体をただ見ることしかできなかった。
「―――っあ?」
ドクンと心臓が大きく跳ねる。その不自然な動きに思わず胸を抑える。呼吸がしにくくなって、喉が変な音を立てはじめた。
霞んでいく視界の中、俺を見下ろして微かに笑っている男の顔だけが写った。
「存分に楽しんでくれ」
誰が楽しめるか、死ね。
言葉は分散していく意識の中、声になることなく消えた。
**
銀時がその瞳に写した光景は、悲惨なものだった。生きているのか死んでいるのか、それすらもわからぬ程ボロボロになった土方は、ただ静かに目を閉じていた。ピクリとも動こうとしない土方、まるでそこだけ時が止まったかのように。
土方は嵌められたのだと沖田は言った。
あのあと屯所に走り込んだ銀時は沖田を捕まえた。銀時の質問に淡々と答えていく沖田、だがその瞳の奥に静かに勢いづく怒りが度々見えかくれを繰り返す。――ああ、やっぱりコイツも平気なんかじゃねーじゃん、銀時はどこかホッとしたように感じられた。
「おい」
カツン、銀時の足音だけが部屋一面に反響する。いつも悪態をつく口からは何も発されていない。隊服は乱され、何をされていたか一目瞭然だった。
きっと、いろんなものがこの男の中で踏みにじられたのだろう。人一倍プライドの高いこの男にとって、このうえない屈辱を与えられたに違いない。
「何か言えよ」
自分の声が震えているのに気づいた。この光景があまりにも衝撃的過ぎて。だってこんな土方を銀時は知らないから。憎まれ口をたたいて、鋭い眼光で睨みつけてきて、でもたまに交わす普通の会話はどこか楽しく感じれる部分もあって。真選組の為に命かけて、悪役は進んで買って出て、自分より他人の優しい鬼で。
「なぁ、土方」
その白い頬に手を伸ばす。はたして土方は受け入れてくれるのだろうか。目を開いたその時に、拒絶しないでくれるだろうか。
どこまでも対等で、どこまでも離れた存在だった。そんな二人が触れ合ってもいいのだろうか。きっと戻れなくなる。今までの心地好い距離から、別れを告げなければ次には進めない。それだけの勇気が、はたしてあるのだろうか。
銀時は木刀を投げ捨てて代わりに土方をその手で抱き寄せた。