アンダンテ | ナノ

どこかの世界のふたりのはなし

日のひかりを浴びて波がきらきらと光っていた。目の前に広がる空と海はどこまでも青く澄み渡っている。少し冷たい風、潮の香り、後ろで車椅子を押す彼のご機嫌な鼻歌。ああ、とても穏やかだ。自分たちを脅かすものなどここには何もない。何も。
「おい」
彼が急に足を止める。と同時に上から顔を覗き込まれた。垂れ下がった彼の長い髪が風で揺れる。出会ったときよりも伸びたな、とふと思う。
「…何だよ」
「まだしかめ面してやがるな」
何が気に入らねえんだ、と荒い口調で彼は静かに問うてきた。怒っていないのは顔からも声からもわかる。彼はただ納得が出来ないだけだ、今のぼくの態度に対して。
「だから、海なんて来たくなかったんだってば」
「だから、それが何でなのかと聞いてるんだぜこっちは」
朝から幾度か繰り返されている会話だ。何でなのか、何でだろうか。聞かれても、答えられない。

天気がいいから海にでも行くかと誘ってきたのは彼の方。せっかくの休みなんだから家にいようよと言ったのはこちらの方。彼は職業柄とても忙しいし、ぼくは毎日両脚のリハビリに励んでいる。彼がオフの日ぐらい一緒に家でのんびりしていたかったのが理由だ。
それに、もう一つ。いや、それは理由とは言えないかもしれない。
海、と聞いて突然波の音が、硝煙のにおいが、血の色が、まるで白昼夢のように脳内をよぎり、胸が詰まった。本当に一瞬のことで、あれが何だったのかなんて、こちらが聞きたいぐらいだ。
結局彼に(2重の意味で)押されてここまで来てしまった。自分たちと海の間にはまだもう少し間隔がある。車椅子では砂浜へ向かえないから、行けるのはコンクリートで舗装されているここまでだ。他の場所であったなら悔しかったかもしれないが、今はこの距離が有り難かった。あの青に近づきたくない、いや、近づかせたくないと思う自分がおかしいのだろうか。こんなにも気持ちいい天気で、きれいな景色が広がっていて、たいせつなひとがそばにいて、それらを壊すものも奪うものもどこにもないはずだ。ないはずなのに。
どうして胸中を覆う黒いもやは消えてくれないのだろう。

「……なあ、何が嫌だってんだよ」
「ごめん、ぼくにもわからないんだ。ただ君が、」

――君が、波にさらわれてしまいそうで、怖い。

強い風が吹き、遠くで波しぶきが音を立てて上がった。
ああ口にしなければよかった。漠然としていたものが確信になる。あれは彼をさらっていき、ゆらゆらと漂よわせ、ぼくが2度と触れることの出来ない遥か彼方へと連れ去ってしまうんだ。
嫌だ。
怖い。
やめてくれ。
お願いだから。

最高の相棒を、最愛の友人を、かけがえのないこのひとを、どうかぼくから奪わないで。


「    」

名前を呼ばれた。俯いていた顔を両手で持ち上げられて、もう一度名前を呼ばれる。突拍子もなく零した言葉も、ぐしゃぐしゃに歪んでいる自分の今の顔も、常だったら笑い飛ばしているだろう彼はしかし真剣な眼でこちらを射抜く。

「オレはどこにも行かねえよ」

――仮に波にさらわれたとしても、こうしてお前の元に戻ってくるぜ。だから、何も不安に思うことなんざねえんだ。

そう力強く言われた瞬間、思いきり飛びついた。おい危ねえだろ補装具も無しにいきなり立ち上がって、と焦ったように言う彼の胸に顔を押しつける。鼓動が、生きていまここにいる音が確かに聞こえて、それがどうしようもなく嬉しくて、何度も何度も彼の名前を呼んだ。
「    」
その呼びかけ一つ一つに応えるように、彼はぼくの背中をさすったり頭を撫でたりしてくれた。

海の色も波の音も黒いもやもどこかに消える。鮮やかに笑う彼の温もりと泣きじゃくるぼくの涙。それがこの世界のすべてだった。




雰囲気現代パラレルでした
150802


Clap

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