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英雄亡き後、その志は薄れ行く。 いくらその後を継いだ者が秀頴と言えど、一度傾きかけた船を再び安定させる事は容易ではない。
昨日、南方の戦線が崩されたと聞いた。 血は流れなかったと言う。 つまり内通者が門を開いたと言う事だ。 上に立つ者の代が変わってから、そんな話をよく耳にするようになった。
張韻は不図、手にした筆を走らせるのを止め、顔を上げた。
「太守様、お客様がお見えです」
扉の外から声がする。 「今行きます」と返事をし、張韻は徐に立ち上がった。 すると鏡に映った自分の姿が目に入った。鏡の中の女は、柳眉を寄せている。 それを見て「歳をとった」と、張韻は心の中で苦笑した。 さもあらん。 “義兄上”と供に戦場を駆けていた頃から数えて、もう二十余年。 張韻が真に戦うべき相手は、城壁の外ではなく、時間であろう事は解っている。 この身が滅んだその時は、以降誰がこの国を守るのだろうか―― ふっと張韻は嫌な思考を振り払い、客人の待つであろう謁見室へと足を進めた。
「久しいな、元才。先主が身罷られた時より以前に会っただけだったな」
張韻は蒼い衣を翻しながら椅子へと向かった。 客は見知った顔で、酒家の店主だ。 “義兄上”が存命中からの付き合いで、よくその情報に助けられている。
「その件について、ちょっとお話が……出来れば内密に」
元才は声を低め、辺りを睨め付けた。 いつもならば、人目に付かぬよう、仕事が終わった後に尋ねて来る男で、このような場所に顔を出すとは、よほどの事態なのが伺える。
「解った。執務室へ来ると良い」
言いながら張韻は立ち上がった。
二階の一角、執務室の奥にある隠し部屋に元才を案内し、辺りを確認した後、張韻は扉を閉めた。
「先主の最期……何かあったのか?」
遠い任地でその訃報を聞き、張韻は不審に思っていた。 歳は張韻より十余りも下だし、持病も持っていなかった。 体調を崩しているとの噂は、遥か東にまで届いていたが、その最期はあまりにも唐突すぎる。
「先主が身罷る数日前、私の店に顔を出して頂きました。あの様子からは、全く病があるとは思えませんでした。ただ……」
元才は一息置いた後、一気に事を喋り始めた。 自らの最期が近いと知っていた事、名医が身近にいる事、宮中に不穏な空気があった事……。
「思うに、陛下は誰かに一服盛られたのではないかと……」
「そのような事をして、どのような利があると。よもや敵の草ではない限り……」
「敵は内にあり。ですよ」
元才はふっと溜息を吐いた。 今は内輪揉めをしている場合ではないのに、戦線から遠く離れた中央にいる人間にはそれが解っていない。 悪徳な役人が幅を利かせ、さながら前王朝末期をそのまま再現しているかのようではないか。 先主が存命中は、まだ上手く抑え込まれていた。だが、今上皇帝に代わってから、状況は急激に暗転していった。 理由は明白である。 今上皇帝がまだ十代と幼く、支える者が好き勝手に動かせる為であろう。
「先主が亡くなれば、動きやすくなる人間が沢山いた。帝を傀儡とし、実質上自らが先頭に立った男……」
張韻の脳裏には、鮮明に一人の男の顔が浮かび上がっていた。
「黒に限りなく近いが、それを証明する手段が無い……そう言う所だろう、元才」
「その通りです」と元才は頷いた。 中央で奴の信頼は絶大となっている。 証拠があったとしても、すぐに揉み消されてしまう気もした。 元才は何を言いたいのか、張韻には解りかねる。
「張韻殿には大将軍として、中央にお戻り頂きたいと思います」
一時の沈黙。張韻はその間、頭が真っ白になっていた。 大将軍? 私に奴を討てと、この男は言っているのか。 確かに、元才は今上陛下に一番近い人間ではある。 だが、もし勅命を密かに下す事が出来たとしても、張韻一人で何が出来るか。 それこそ、奴の権威を高める手助けをするだけだろう。 張韻は顔を顰めた。
「貴殿は、私に何を望むのか。私にはさっぱり解せぬ」
張韻に睨み付けられても、逆に元才はにっこりと微笑んだ。
「大将軍と言う役職は、ただの飾りです。貴女に望む事は、他にあります」
言いながら、元才は懐に手を伸ばした。
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