nocte ventus
 目の前に横たわるのは小さな肉片。
 命を持って生まれ出でなかったただの形あるものである。
 それを大事そうに抱きかかえ、女が一人。
 わたしの足元に縋りつく。

「息子を起こしてくださいませ……この子は眠っているだけなのです」


 女はある帝気取りの男の寵愛を受け、一人の男児を身ごもった。
 わたしは気まぐれにその者の近くで様子を伺い、暇をつぶしていた。
 何しろ人間の行動はおもしろい。
 このように人の多い場所であればなおさらである。
 どうやら帝気取りにはもう跡取りがおり、これ以上跡目争いの対象は増えてほしくない一派が多いらしい。
 わたしは荒波が立つよう、女を生かそうとこっそり力を貸してきた。
 やれ、飲み物に毒だの。
 やれ、足元が崩れやすく細工をしてある、だの。
 やれ、呪いの類が見つかったぞ、だの。
 やれ、頭上に注意せよ、だの……。
 あれやこれや毎日が忙しく、稚拙な策が失敗して悔しがる人間の顔を見るのは楽しかった。
 そしていざ子供が生まれようと言うのに、その子供は空の器であったとは。
 去り際に姿を現してみればこうだ。
 誰とも知れぬ得体の知れないものに縋りつき、どうかどうかと泣きじゃくる。
 唯一己を己たらしめるにはこの子が必要なのだと。
 人間とはどうしてこうも権力に執着するものなのか。

「見返りは」

 訊くと女は息をのむ。
 何も持たぬのは知っているし、別に人間の肉体などに興味もない。
 わたしと言う存在をどう認識し、どう返答するか興味があった。

「わ……私の命を……」

 そうか、この女はわたしを死神だとでも思ったか。

「それでは足りぬ」

 そう、命一つでは足りぬのだ。

「では……では……どうしたら……」

 女の声は、もはや耳に届かぬほど細く、小さく成り果てていた。

「わたしが望むのはただ一つ。」

 夜の闇の中、近くの木に止まっているいるらしい鴉が啼いた。


「この世に混沌あれ」





 赤子がすやすやと寝息を立てている。
 夜の帳はとうの昔に下りていて、行燈の明かりが夜風に撫ぜられ怪しく揺らめいていた。
 赤子のいる部屋からは少し離れた屋敷の北側では、何やらばたばたと多くの人がせわしなく動き回っている様子だ。
 しかし、赤子にはそんなこと全く関係のない話である。
 帝の長子が突如血を吐いて死んだとか、次男が戦場で行方不明だとか、そのような話は知ったことではないのである。
 鴉の羽根を握りしめ、誰もいない部屋で一人眠り続ける赤子は、小さなあくびを一つ漏らした。

 今暫く眠っていればいいのだ。
 目を醒ますのは、もう少し先でもいい。
 自ら手を下さずとも、この世は勝手に混沌へ突き進んでいくであろうから。
 それを終わらせることの無いよう、永遠に続く火種となってもらうのだ。
 今はまだ、名もなき赤子よ。



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