海の蒼とベニトアイト
 海に面した崖の上に、こじんまりとした喫茶店がある。
 観光地として有名な場所ではあるのだが、中心地から離れている為か、この店のある辺りは人気もなく、実に静かだ。
 波の打ち付ける音と、風鳴り、そして店主が珈琲を淹れる音のみがそこにある。
 訪れる客は、この店主の美顔を眺めにやって来る客も多く、いつもはもう少し騒がしい。
 だが、今日の客は海が見えるテラスの席にただ一人、壮年の男が座っているだけだ。
 他の客とは違い、店主の美顔を眺めるでもなく、ぼうっと珈琲片手に海を眺めている。男が手にしている珈琲は、大分前に冷めていた。
 男は時折、見計らったかのように他の客がいない時に現れて、今日と同じように数時間ぼうっと海を眺めていく。
 その海を眺める瞳は、眺める先の海と同じように深く、冥い色をしている。
 人をまとめる役職にいる人間は、得てして孤独なものなのだろう。店主はそう思った。

「閣下、もう一杯いかがですか」

 店主が男に声をかけた。
 顔を上げた客の口髭が小さく動く。

「そんな呼び方はやめてくれ。俺はただの客だ。しかも、珈琲一杯で長々居座るような、質の悪い客だ」

 低く、落ち着きのある声だが、激しい波の音に打ち消される事のない力強さのある声でもある。
 男は店主に新しく温かい珈琲を注いでもらいながら、再び海へと視線を移した。
 ふわり、海風に店主の黒い髪が靡く。

「海は好きかね。……いや、好きでなければ、このような場所に店など開かないか」

「閣下もお好きなのですか、海。いつもずうっと眺めていらっしゃる」

 店主は徐に男の隣に腰を下ろした。
 答えが返って来るまで、少し間が開いた。

「嫌いではないが、好きではない。……昔、色々あってね。それまではとても好きだった……とても」

 男は瞳を閉じ、ふっと溜息を吐いた後、ゆっくりと珈琲を啜った。

「昔の話だ。遠い昔のね……。私は、君と同じように若い世代の人間が、私と同じような目に合わないようにと戦っている……」

「存じております。けれど、今回は難しい……そうでしょう?」

 男は小さく頷き、瞳を開いた。
 ここ最近、いつにも増して不穏な動きを見せる国がある。話の解る相手ではない。
 戦争が間近に迫っているだろう事は、誰の目にも明らかであった。
 三十数年前に起きた戦争と同じ、もしくはそれ以上のものを覚悟せねばならないと、皆感じ取っている。

「私の命を賭けて、全てを終わらせる。我々歳老いた者が礎となり、君たちの未来を切り開いて往かねばならぬのだ」

 かた、と、珈琲カップが置かれた。

「……機会があれば、また来よう。申し訳ないが、直にこの場所も騒がしくなるやも知れんぞ」

「望む所です。……が、そうはならないと信じていますよ」

「は、は、は……それはプレッシャーだな。まぁ、死力を尽くすとするよ。……」

 男は目を細め、笑みを浮かべた。
 

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