恋と世界のアンチノミー
(多所普)


例えば世界に俺といろはしかいなくなったとしても、あいつが俺と間違いを起こすことはないに違いない。

例えば今の彼氏である綾が死んでしまっても、そう。綾って何されても絶対死にそうにない気がするけど、万が一何かが起こって綾がいろはを残して世界からいなくなったとしても、いろはは俺じゃなくて他の人間を選ぶに決まっている。それは憶測なんていう曖昧なものではなく、確信に限りなく近い。


「これ、作ってきたの」

「あー、うん」

「お茶もあるよ」

「いや、いらん」

甲斐甲斐しく世話を焼こうとするいろはを、綾は冷たい言葉であしらう。手渡されたクッキーも、一口で頬張ったきり、次に手をつける様子はない。

不安そうな表情を浮かべるいろはを見て、俺は思わず「食べねぇの?」と綾に尋ねた。

「あぁ、後で。アマちゃんも食べれば?」

「何でだよ、いろははお前に作ってきたんだろ?」

「俺だけのためなわけねぇだろ」

な? と、いろはに話を振る綾は、本当に冷たい。秋良のように女心が分かっていないとか空気が読めないわけでもないくせに、そんな風にかわすんだから。

「普君も食べて」と、差し出されるクッキーを見ても、食欲があまりわかなかった。いろはの料理はうまいし、腹がいっぱいなわけでもないのに。

「普君、具合悪いの?」

心配そうに俺を見るいろはに、別に、と冷たく返す。俺まで冷たくしたくはなかったのに、自然とそんな口調になっていた。

綾といろはが付き合い始めてからこうして三人で昼食を食べるようになったのだが、この時間が小さいながらもストレスになっているのは確かだった。

イチャイチャされてももちろん気分がいいわけではないが、こうして冷たくされているいろはを見るのもあまりいい気がしない。かといっていろはを追い返すわけにもいかないし、俺だけ席を外すというのも嫌だったりする。

我ながら本当に我が儘だ。

「恋煩いじゃねぇの?」

いつもの調子で綾が笑った。

冗談めかして言ってはいるが、綾は多分分かっている、俺の気持ちの大半を。分かっているからいろはに素っ気ないのか、普段からこうなのかはわからない。元々恋人に対してあまりベタベタしない奴だから。

けれど、少なからず気を遣ってくれていることは普段の態度から伝わってきていた。もっと早くに気付いていたら、綾はいろはと付き合うことさえしなかったように思う。

何言いだすんだよ、と俺が悪態をつく前に、いろはが「そうなの、普君?」と、驚きの声をあげた。

「ばーか、綾の言葉を真に受けんなって言ってんだろ」

「冗談なの?」

「当たり前。悩んでる暇あったらコクってるっつーの」

いろはが安心したのは、あくまで俺が悩んでいるわけではないとわかったからだ。

いろはが相手ではなかったら、あっさり気持ちを伝えられたのに。可能性がほぼゼロに等しいとしても。


兄妹になってしまった日からきっと、俺はいろはに恋をしていたんだと思う。

初めていろはを見た時、こんなにかわいい子が妹になるなんて嬉しい、と素直に喜んでいた。そして、ずっと大切にしよう、とも。

しかし、当時感じたそれは、自分が気付かなかっただけで、本当は淡い恋心だったのだろう。それに気付き始めたとき、俺の中にあった幸せや喜びは少しずつ不安と焦りに変わっていった。

兄妹になったからこそいろはの一番近くにいられるようになったのに、今は兄妹という名前がただただ鬱陶しい。


数年前、両親は事故で他界した。以来俺は妹になったいろはと二人で暮らしている。

両親がいなくなった今、血は繋がっていなくとも一番近い存在が俺だ。けれどいつか、この隙間に割り込む人間が現れる。それが分かっているのに、俺といろはの間にある距離を消すことはできそうにない。

あの日からずっと俺はひとりぼっちで、きっとこの先もずっとひとりぼっちだ。だっていろはの未来予想図には俺の姿なんてないんだから。

両親が死んだあの日から、俺の世界にはもういろはしかいないっていうのに。


ニコニコしてるいろはから目を逸らし、大きくため息をつく。

すると、そのせいではないと思うが、笑ってた綾がおもむろに立ち上がった。

「どうしたんだよ」

「次、英語だから。訳見せてもらわんと」

笑って手を振る綾を見て、あぁ、やっぱわかってんだな、と確信した。あいつの英語は母親仕込みだから和訳なんてわけないくせに。

二人きりになった部室に、沈黙が走る。家でもこんなに重苦しい空気になることは滅多にない。

ストレス、だと思う。本来なら教室に戻ってから部活を終えるまでに発散できる程度の。

「普君、大丈夫?」

覗き込んでくるいろはと目が合って、ふいに手が動いた。

俺の手がいろはの肩を掴んだ瞬間。

「だめだよ」

俺の目を見つめたままいろはは言った。

この時、初めて気付いた。いろはは俺の気持ちを知っていたんだ、って。

わかってる、って言って、いろはを抱きしめる。
こうして触れ合っていても、それ以上先へは進めない。

わかりたくなんてなかった。

自己中心的で理性のない人間になったとしても。
我儘で常識のないガキになったとしても。
いろはを困らせるだめな兄貴になったとしても。

理解したくなんてなかった。
受け入れたくなんてなかった。
知らないふりをしていたかった。

「好きだよ……」

情けない声で呟くと、いろははコクンと頷いた。

「私も、好きだよ」

そして、優しい言葉で俺を突き放した。

お兄ちゃん、と。


end


悲しい両片想い。
わかりづらいけどヒロインも好きなんだよ。
そして綾はその全てを分かっている、と。

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