唯「ゾンビの平沢」

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★14

私は十分程度の間、転寝をしてしまった様だ。

あまり遅くなっては彼女が心配する。
私は斉藤さんの部屋を後にし、ムギちゃんの元へと向かった。

医務室に着くと、まだ斉藤さんがムギちゃんの傍にいた。
私に気付くと、斉藤さんは失礼しますと言い残し、医務室を去って行った。
ムギちゃんを見ると、その目は真っ赤に腫れていた。

唯「どうしたの?」

紬「ごめんなさい。斉藤の事が心配で……会ったら何か安心しちゃって……」

紬「気付いたら涙が出ていたの……」

唯「そっか……。大丈夫、斉藤さんはいつでもムギちゃんの事、見守っているからね」

紬「唯ちゃんは……?」

唯「私も斉藤さんと同じだよ。いつもムギちゃんの事、ちゃんと見守っているから安心して」

紬「……。ありがとう、唯ちゃん……」

ムギちゃんが私に抱き付いてきた。
私もムギちゃんを抱き締めた。

もう大丈夫、何にも心配はいらないからね……。


その日から、私はムギちゃんとずっと一緒の時を過ごす様になった。
点滴の時も、私はベッドの傍らで彼女を見守った。
寂しさを感じさせぬよう、私は常に彼女の傍に居る事を心掛けた。

ボーカルがいなくなってから、私達の会話の中に彼が出て来る事は無かった。
もしかしたら、ムギちゃんは意図的にその話題を避けていたのかもしれない。

彼の事を思い出すと悲しくなってしまうから。

ムギちゃんは時折、酷く悲しそうな表情を見せる様になった。
彼女自身は、それを私に隠そうとしていた。
私の視線に気付くや否や、その表情は瞬く間に消え失せ、いつもの笑顔になる。

しかし、私の意識は常にムギちゃんに向いている。
ふとした仕草や表情ですら、見逃す事はないのだ。

ムギちゃんは、彼が居なくなって寂しいんだ。悲しいんだ。
そしてそれを私には気付かれぬ様、明るく笑顔で振舞っている。
悲しみや苦しみを一人で抱え込まないでと憂が言ったのに。

作り物の笑顔。ムギちゃんの嘘吐き。

ムギちゃんが悲しそうな表情をする度、私は強く胸を痛めた。
でも、それ以上に彼女の笑顔を見るのが辛かった。

私は彼女の笑顔を見る度、胸に杭を打たれたかの様な激しい痛みを感じた。


私 は 彼 女 を 満 た せ な い 。

私は生まれて初めて、自分が女で在る事を呪った。
女同士で在るが故に、私達の間には絶対に超えられない壁が存在するのだ。

寂しさや悲しさを紛らわす為、肌を合わせる事が許されない。

異性であれば壁など存在せず、好意が無くとも快楽に身を任せられる。
本能的な欲望に任せて、ただ只管に互いの肉体を貪る様に。

全てを忘れ、肉欲に溺れられたらどんなに良いだろう。
例えそれが、一時的な逃避であったとしても。

こんなにも互いを想い合っているのに、どうして私達は一つになれないの?

私なら彼女の全てを受け入れ、「愛」する事が出来るのに。

その時、私はふと思った。
どうして私は彼女を「愛」する事が出来ないのかと。

私達の間に在る壁、それは「倫理」と呼ばれるモノ。

同性愛は、一般的な社会では受け入れられていない。
しかし、もうその社会はどこにも存在しないのだ。
常識も良識も壊れてしまったこの世界で、誰が私達を否定する?

私を阻む壁は、もはや存在しなかった。

好きであろうが嫌いであろうが、男であろうが女であろうが、 肉体に刺激を受ければ、反応するのは当たり前の事なんだ。

だったら、私がムギちゃんを満たせない筈が無い。

彼が私にした様に、私がムギちゃんにしてあげる。
あの最低な男の身代わりだとしても構わない。

それでムギちゃんが悲しみを忘れられるのなら。
私がこの苦しみから、一瞬の間でも逃れられるのなら。

私は冷静な判断が出来なくなっていたのかもしれない。

夜の点滴が終わり、私達は自室に戻った。
そして今日も一緒にお風呂に入る。

今まで意識していなかった、「女」としてムギちゃんの体。
以前の膨よかな体型は失われ、骨と皮だけになってしまった彼女の体。
悲しみと苦しみが、彼女の体をこんなにしてしまったのだ。

でも、もう大丈夫だよ。
ムギちゃんの悲痛な想いは、私が全部忘れさせてあげる。

私はムギちゃんの本当の笑顔を取り戻すんだ。


浴室を出たムギちゃんは、バスローブ姿のまま、食器棚からグラスを二つ取り出した。
それを居間のテーブルの上に置き、その横にあるワインボトルに手を掛けようとする。

私はワインボトルに手を伸ばした彼女の腕を強く掴んだ。

突然の出来事に、彼女は困惑した表情で私を見る。
私はそんな事も気にせず、寝室へと彼女を引っ張っていく。

彼女は抵抗もせず、ただ私に引き連られベッドの前まで来た。
これから起こる事など、彼女に想像出来る筈も無い。

どうしたの?と、心配そうな顔で私を見詰める。

やめて、そんな顔で私を見ないで。
私なんかを心配しないで。
私はそんな事をされる様な人間じゃないのだから。

私はムギちゃんはベッドに押し倒した。
ベッドに倒れ込んだ彼女に、私は上から覆い被さる。
ムギちゃんの両手の手首をしっかりと握り、彼女の体勢を固定した。

紬「ゆい……ちゃん……?」

不安そうな瞳で私を見る。
私は可愛いモノは好きだけれど、同性愛者ではない。
今まで、周りの女の子をそういう視線で見た事など無かった。
しかし、今、私は目の前のムギちゃんを「女」として見ていた。

私は彼女に対して、性的な興奮を喚起していた。

ムギちゃんは察しが良い。
私がこれから何をするのか理解した様だ。

ムギちゃんが、何かを言おうとその口を開く。
私は透かさず、彼女の桃色の口唇を自分のそれで塞いだ。

紬「っん、ん……っんむぐ……んんっ……っんふぅ……!」

私は舌を彼女の口内に滑り込ませ、その内部の蜜を啜る。
そして彼女の舌に、私のそれを絡ませた。

彼女の目が虚ろになる。どうやら感じているみたいだ。
私は口を窄め、彼女の舌を一気に吸引した。

紬「っんん!? んぐ!? っっん゛ん゛ん゛!!??」

こうされると凄く気持ち良いでしょ?
彼女は大きく体を弓形に仰け反らせた。

でも、キスって長くすると苦しいよね。

私はムギちゃんに苦しい思いなんかさせないからね。

私は一旦彼女の口から自らのそれを離した。
ムギちゃんがハァハァと呼吸を荒げている。
彼女の胸は大きく上下に動いていた。
薄っすらと涙目になっているのが分かる。

その姿が、私の淫らな感情をさらに昂らせた。

紬「ゆい……ちゃん……どう……して……」

唯「凄く気持ち良いでしょ……? これからもっと気持ち良くしてあげるからね……」

私はムギちゃんのバスローブを捲り上げ、彼女の秘部に手を伸ばした。
下着の上からそこを触ると、既に淫蜜でグショグショに濡れていた。
私は下着の上からその部分を優しく、力強く刺激した。

紬「っん! だめ……ゆいちゃん……おね……がい……」

唯「大丈夫、安心して。全部忘れさせてあげるからね……」

紬「わ……すれ……させ……る……? ん゛ん゛っ!」

唯「そうだよ、ムギちゃん。彼が居なくて寂しいんでしょ?
私があの人の代わりになるから……。ムギちゃんを満たすから……」

ムギちゃんの目から涙が溢れ出した。
やっぱり、ムギちゃんはまだ彼の事を想っていたんだね。

苦しいよ。

私はムギちゃんの瞳から流れ出る雫を、ゆっくりと舌で舐め取った。

もう君にこんな涙は流させないから……。
だから、私の全てを受け入れて……。
ムギちゃん……。

紬「ごめんなさい……」


紬「ごめんなさい……唯ちゃん……ごめんなさい……」

ムギちゃんは涙を流しながら、私に謝罪の言葉を繰り返した。

ごめんなさい?
何でムギちゃんが謝るの?

彼女から出た予想外の言葉に、私は当惑し動きを止めた。

唯「どうしてムギちゃんが謝るの? ムギちゃんは何にも悪く無いんだよ……?」

ムギちゃんは何も答えない。
ただ、悲しげな瞳で私をじっと見詰めていた。
どうして私をそんな目で見るの?

その目……やめてよ!

唯「なんで!? なんで謝るの!? なんでそんな目で見るの!? 分からないよ!
ムギちゃんが分からないよ! 教えて! ムギちゃんの事をちゃんと私に教えてよ!」

私は興奮し、強い口調でムギちゃんに迫った。

紬「…………私、知ってたの。」

知ってた?何を?ムギちゃんは何を知っていたというの?
訳が分からず茫然としている私に、ムギちゃんは続けて言った。

紬「唯ちゃんが彼を殺したって事……」


心臓の鼓動が急激に速くなり、呼吸がし辛くなる。
私は胸に手を当て、必死にそれを抑えようとした。

私が彼を殺した事を知っている……?どうして?誰から?

ムギちゃんの情報経路を考えれば、斉藤さんしか在り得ない
でも、斉藤さんがムギちゃんにそんな事を言う筈が無い。

私が殺人をしたと知れば、彼女が酷く悲しむ事は自明の理だ。
わざわざそんな事を彼女に知らせるメリットなど何も無い。

そして、仮にそれを知ったとして、どうして私に謝る?
責めるなら話は分かるが、謝るなど、辻褄が合わないじゃないか。

紬「彼が死んだ日にね、斉藤から全部聞かされたの……。彼がどんな人だったのかも全部……」

紬「ごめんなさい……私が弱いから……唯ちゃんばかりを傷付けてしまって……」

唯「何を言ってるの……? 言ってる意味が全然分からないよ……」

紬「あの女の人達も、彼も、私を傷付けようとしていたのでしょう……?」

紬「だから、唯ちゃんはあの人達を傷付けてしまったのね……」

紬「私を守る為に……。ごめんね、唯ちゃん……」

唯「違うよ! あいつらは私を傷付けようとしたの! だからそのお返しをしただけ! 」

紬「私は唯ちゃんがどういう子か良く知ってるもの。唯ちゃんはとっても優しい女の子。
例え自分が傷付けられても、それで相手を傷付ける様な事は絶対にしないって知ってるの」

紬「だからね、唯ちゃんがあの人達を傷付けたって聞いた時、私はすぐに気付いたの……」

紬「唯ちゃんがそういう事をしたのは、私を守る為なんだって……」

私の目からも涙が溢れ出していた。

紬「確かに、私は彼に好意を持っていた……。
そして、斉藤の話を聞いて、自分の浅はかさを悔いたわ。
その所為で、唯ちゃんが彼を殺めてしまう事になってしまって……」

紬「私は苦しくて、誰かに頼りたかったの……。
でも、斉藤は琴吹家に仕える人間だし、唯ちゃんには負い目があった……。
だから、斉藤にも唯ちゃんにも甘える事がどうしても出来なかったの……」

紬「そんな時にボーカルさんが現れて、私は盲目的に彼に依存してしまった……。
私が弱かったばっかりに、私は彼を受け入れてしまったの……」

紬「ごめんね、唯ちゃん……。私の所為で辛い目に合わせてしまって……。
私が強くてもっとしっかりしていれば、唯ちゃんがそんな事をする必要なんて無かったのに……」

紬「私ね、そんな辛い目に合いながら、笑顔で振舞う唯ちゃんを見て、申し訳無くて、辛くて、切なくて、どうしようもなく悲しかったの……。

でも斉藤にね、彼の死の真相を聞かされた時に言われたの。
唯ちゃんの心が酷く傷付いているから、傍に居てあげて欲しいって。
唯ちゃんを癒せるのは私だけだから、私にしか出来ない事だからって。だから私……」

斉藤さんがムギちゃんに真相を教えたのは、私の為だったなんて……。
私の為に、ムギちゃんが苦しむ様な事を敢えて伝えたというの……?

本当に斉藤さんは駄目な人だ。

そんなんじゃ、ムギちゃんを守り切れないよ。
どうして私の事なんか気にしてるのさ……。

あの日の朝食の時、何故斉藤さんが私に謝ったのか、私は漸く理解した。
斉藤さんは、ムギちゃんと同じ事を考えていたんだ。
私が彼を殺したのは自分の所為だと、自責の念を持っていたんだ。
自分が彼を止めなかったから、私が手を汚す事になったのだと。

唯「う゛う゛う゛……うああああぁぁぁぁぁーーーー!!!」

ムギちゃんはゆっくりと上半身を起こし、大声で泣く私を抱き締めた。

紬「忘れよう……? 辛い事は何もかも忘れちゃおう?」

唯「ぅぅ……ムギちゃん……」

紬「私は、例え何があっても唯ちゃんの事を一番に考えて、唯ちゃんと一緒にいる。
唯ちゃんの痛み、悲しみ、苦しみ、その全てを、一番近くで共に分かち合うと誓うわ」

私達は、涙を流しながら口付けを交わした。
束の間でもいい。逃避でもいい。誰に否定されても構わない。
神様にだって、私達を止める事なんて出来はしない。
互いの名を呼びながら、果てるまでその体を求め合った。

ムギちゃんと一つになっている時、私は全ての苦しみから解放された。



それから私達は、二人だけの時間を生きた。

この荒廃した世界で、私達は漸く安らぎの場所を見付ける事が出来たのだ。
そこは蜃気楼の様に儚く、少しの衝撃でも崩れ去ってしまう程に脆い。

それでも、私達はその地に縋り生きて行くしかなかった。

もう世界から隔離されたこの箱の中でしか生きられない。
その箱の中の隅に、私達は自分達の「居場所」を作った。

籠の中の鳥は、もう外の世界を求めない。

その場所こそが、自分の安住の地で在る事を知ったから。
檻の内側から見ると外は広く、そこに全ての自由があるかの様に錯覚をする。
そして、その自由こそが至福であると妄信してしまう。

でも、もうそんな幻想に惑わされる事は無い。

自由なんていらない。
私とムギちゃんは、互いに束縛する事で満たされているのだから。
私はムギちゃんの為に、ムギちゃんは私の為に。

二人の間に繋がれた鋼鉄の鎖。
それは囚人の足枷?友情の絆?

そんな事はどうだっていい。
今のままでいい。今のままがいい。

永遠を共に、死が二人を別つまで。


そんなある日、遂に恐れていた事が起きた。
施設内に感染者が出てしまったのだ。

この箱には、ありとあらゆる娯楽施設が揃っている。
しかし、人の欲望は限り無く、際限なく膨張する。
そこに有る物だけでは満足が出来なくなる。

もしかしたら、狭い空間から抜け出そうとするのは、人の本能なのかもしれない。

金持ちの若者達は警備に賄賂を渡し、勝手に施設外を行き来していたのだ。
本当の地獄を知らない彼等にとって、「外」は冒険心を掻き立てるSF世界だった。

「探検」と称したそれは、瞬く間に若者達の間に広まっていった。
金持ち達だけではなく、彼等の「お気に入り」であった一般人もそれに加わっていた。

私も以前、「楽しい事」と唆され、誘われた事があった。
その時の私は、それを「厭らしい事」と思い、その誘いを断った。
後から「探検」の事を知ったけれど、自分には関係が無いと思っていた。
せいぜい、馬鹿が勝手に死ぬ程度の事だと。

しかし、私のその認識は間違っていた。
この施設に逃げて来た金持ち達には、危機感という物が欠如していた。

「危ないと聞き、ただ何となく逃げて来た」

本物の恐怖を知らない者達。
他人が感染したのなら即刻ここから追い出そうとするのだろうが、自分の身内となると話は変わる。

「金を払っているのだから、我々はここに居る権利がある」

彼等は開き直ったのだ。


私とムギちゃんは、紬父の部屋に来ていた。
そこには深刻そうに額に手を当てる紬父と、現状を報告しに来た斉藤さんがいた。

斉藤「紬様、唯様、こちらへどうぞ」

私達がソファーに腰を下ろすと、斉藤さんは紅茶を淹れに行った。
重い沈黙が流れる中、ウバの爽やかなハッカの香りが漂ってきた。
紅茶を淹れ戻って来た斉藤さんが、どうぞ、とティーカップとミルクを私達に差し出した。
私とムギちゃんがそれに口を付けると、紬父が小さく、弱々しく言葉を発した。

紬父「ここはもう終わりかもしれない……」

紬「お父様、それはどういう……」

紬父「ここがもう安全じゃないって事だ……紬」

紬「そんな……」

斉藤「現在、感染を確認出来た者は5名です」

紬父「その者達を隔離しているのか?」

斉藤「家族の猛反発により、その様な処置は行われておりません」

紬父「感染者はその5人だけなのか?」

斉藤「……いえ。調査を断るなど、家族が感染を隠蔽している可能性も否定出来ず……」

斉藤「実際の感染者の数は不明です……」

紬父「そうか……」

憂いの表情で紬父は天井を見上げた。

紬父「プライバシーを優先したこの施設の造りも裏目に出たな……」

紬父「平沢君、君はこの現状をどう思うかね……?」

私は自分がここに呼ばれた意味を理解した。

ウイルスの危険を十分認知している紬父も、実際にそれを体験した訳ではない。
私の様に、実際に地獄を体験した者の意見が聞きたいのだ。

皆の視線が私に集まる。

唯「すぐにこの施設から別の場所に避難した方が良いと思います」

紬父「しかし、感染しても暫くは自我を保っていられるのだろう?」

唯「それは精神的に安定していられればの話です。
ここにいる人間達が精神的に強いとは思えないし、一般の居住区では、みんな強いストレスに晒されています。
心から信頼出来る友人も無くそんな状態にあれば、発症に時間は掛からないでしょう」

唯「誰か一人でも『崩壊者』になれば、血の臭いに触発されて、ここは一気にゾンビで溢れますよ」

唯「何人感染しているかも分からないし、感染者を隔離する事も追い出す事も出来ないんでしょ?」

唯「それなら、ここから逃げるしかないじゃないですか」

紬父「そうだな……。平沢君の言う通りかもしれない……」

紬父「斉藤、東京の施設に受け入れの要請を。私はここの施設運営者達や住人と話を付けて来る」

斉藤「承知致しました」

紬父「紬、平沢君、君達は部屋に戻り、移動の準備を。荷物は最低限だ。
屋上には琴吹家所有のヘリがある。それでここから脱出しよう」

唯「分かりました」

紬父「君達は準備が出来たら部屋で待っていなさい。
斉藤も準備を整えたら彼女達の部屋で待機だ」

斉藤「しかし、旦那様……」
   
紬父「私は一人で大丈夫だ。お前には、彼女達の護衛を頼みたい。任せたぞ?」

斉藤「……承知致しました」

紬父「何かあったら私に電話をしなさい。分かったね、紬」

紬「はい、お父様……」

紬父「平沢君、紬の事を宜しく頼む」

私は黙って頷いた。

そのまま紬父は部屋を出て行った。

斉藤さんも私達に一礼をし、部屋を後にした。


唯「私達も行こう!」

紬「うん、唯ちゃん」

唯「あ、部屋に行く前に寄りたい所があるんだけど、いいかな?」

私達は食堂に来た。
今は16時、厨房には誰も居ない。
私は厨房に入り、刃物置き場の扉を開けた。
数々ある包丁の中から、私は刺身包丁を選び取り出した。

人間相手ならばあの小さなナイフでも十分だけれど、ゾンビが相手ではそうもいかない。
ここの人間がゾンビ化する前に脱出するから、必要は無いと思うけれど……。

紬「唯ちゃん、それは……?」

唯「護身用だよ、ムギちゃん」

紬「そ、そうなんだ……。それじゃあ私も……」

唯「大丈夫、ムギちゃんの分は部屋にあるから」

自分達の部屋に戻った私は、ポーチからスタンガンを取り出し、それをムギちゃんに渡した。

あくまで気休めの為の物。
刃物を振り回すよりは安全だ。
そもそもゾンビを彼女に近付かせるつもりは無い。

ムギちゃんに近付く前に、私が全員殺してやる……。


私達は旅行用の大型バッグに着替えと生活用品を詰め込んだ。

準備を終えた刹那、インターホンが鳴る。斉藤さんだ。
扉を開け、バックを持った彼を部屋に招き入れた。

斉藤「お待たせ致しました。後は旦那様からの連絡が来るまで、ここで待ちましょう。
東京の施設は、我々を受け入れてくれる様です。何の心配にも及びません」

私と斉藤さんがテーブルの前に座ると、ムギちゃんが私達にお茶を淹れてくれた。
私は彼女が淹れてくれたお茶を飲み、高ぶる感情を静めていた。

何も起きない。何事も無く、私達は東京の施設にヘリで移動する。きっとそうなる。

それから1時間が経過した。
紬父からの連絡はまだ来ない。

ムギちゃんの表情が曇る。
斉藤さんも、さっきから時計をちらちらと気にしている。

待ち兼ねたムギちゃんが、紬父の携帯に電話を掛けた。
静まり返った部屋に、無機質なコール音が響く。
私と斉藤さんは、その音に耳を澄ます。

コール音が鳴り止む事は無かった。


唯「斉藤さん、紬父の様子を見に行って下さい。
ムギちゃんには私が付いてますし、この部屋にいれば安全だと思います」

例え崩壊者が来たとしても、入り口の頑丈な扉を壊す事は出来まい。

斉藤「しかし……」

紬「お願い、斉藤! お父様の無事を確認して来て頂戴……」

斉藤「……はい。唯様、紬お嬢様を宜しくお願い致します」

そう言うと、早足で彼は部屋を出て行った。
ムギちゃんが私の横に来て、その体を私に委ねる。

紬「怖いわ……。私、いま凄く怖いの……」

私は震える彼女の体を抱き寄せ、力強く彼女を抱き締めた。

唯「斉藤さんが行ったから、ムギちゃんのお父さんはきっと大丈夫だよ……」

紬「うん……」

私達は、紬父と斉藤さんからの連絡を、ただじっと待つしかなかった。
しかし、いくら待っても彼等から連絡が来る事は無かった。

時計を見ると20時、斉藤さんと別れてから既に3時間が経過していた。

こんな時間まで連絡が来ないとなると、緊急事態的な何かがあった事は間違いない。
ムギちゃんは俯き、今にも泣き出しそうな顔をして震えていた。

本当なら、私一人で何があったのかを調べに行きたい。
しかし、今のムギちゃんを一人この部屋に置いていく事など出来ない。
かといって、彼女を連れて行くのは危険過ぎる。

私はどうしたらいい……?

行動力の有るりっちゃんなら、こんな時は一体どうするの?
様々な思考が私の頭を交錯する。
そして私は結論を出した。

唯「ムギちゃん、一緒に部屋から出てみよう」

ここで待っていても埒が明かない。
私はムギちゃんとこの部屋から出る事を決意した。

私は刺身包丁を、ムギちゃんはスタンガンを服の内側に隠し、部屋を出た。
念の為、扉に書き置きを貼り付けておいた。
紬父や斉藤さんがここに戻って来たら、私の携帯に連絡が来る様に。


赤い絨毯の敷かれた廊下を、ゆっくりと私達は歩いてゆく。

紬「ゾンビが……出たのかしら……?」

唯「多分違うと思う。仮にゾンビが居たとしたら、悲鳴や奇声が聞こえる筈だよ……」

ここはVIP中のVIP達がいる居住区だ。
扉や壁も厚く、外部からの音も聞こえにくい。
それでも、大量の声が響けば、耳の良い私には届く筈だ。

私は耳に全神経を集中しながら、慎重に歩みを進めた。

まずは応接間に行こう。

唯(この扉を開けば、並みのお金持ち達の居住区か……)

並みのお金持ち、という表現はおかしいかもしれない。
そもそも、その区域に居る人間達も、財界や政界、芸能界で名の知れた大物達だ。
私は扉に耳を付け、向こう側の音を拾おうとした。

何も聞こえない……。

やはり、ゾンビは居ないのだろうか……?
私は緊張で高鳴る胸を押さえ、扉にカードを通す。


扉が開く。周囲が静かだと、その音は以外に大きい。
幸い、扉の向こう側には誰もいなかった。

五感を研ぎ澄ませ、周りの気配に注意しながら、私達は応接間に向かった。

応接間の扉の前に到着した。
大きな扉をゆっくりと開けてみる。

誰もいない……。

ここにいないとすると、一体何処に行ったのだろう?
いや、ちょっと待って……。
何かがおかしい。

唯(人気が無さ過ぎる……?)

確かに、この辺はあまり人が来ない場所ではある。
しかし、これ程人の気配が感じられない事は今まで無かった。
確実にここで異変が起きている。

唯「ムギちゃん、気を付けて。何かが起こっている事は間違いないみたいだよ」

私は小声でムギちゃんに話しかけた。

紬「うん……」

とりあえず、誰か人を探そう。
その人が何か情報を持っているかもしれない。

唯「1階のホールに行ってみよう」

あそこはいつも多くの人が談笑をしている場所だ。
もしかしたら、誰かいるかもしれない。
私達は階段を下り、1階を目指した。

1階のエントランスに出ると、そこには一人の男がいた。

良かった、人がいた。ゾンビじゃない。
私は彼に声を掛けようとした。
その時、男が私達に気付き、大声を上げた。

男「いた! 琴吹の娘がいたぞ!!」

男の声を聞き付け、数人の男達が駆け寄ってきた。
男達は鋭い目でムギちゃんを睨んでいる。
私達はいつの間にか男達に囲まれていた。

唯「あの……」

男「ん、君は確か平沢唯さん……?」

男2「彼女も琴吹の仲間なのか?」

男3「琴吹の娘と友人なのだから、当然そうだろう」

男4「しかし、彼女は琴吹の人間じゃないぞ?」

男達は、ムギちゃんに対して敵意を持っている様だ。
私の心に黒い影が現れた。

唯「すみません、ちょっとお聞きしたいのですが、皆さん一体……」

男「ああ、私達は君の友達に用があってね」

唯「用って何でしょう……?」

男「……君は関わらない方がいいだろう。下がっていたまえ」

男はそういうとムギちゃんに近付き、彼女の手を掴んだ。

紬「いやっ! はなしてっ!!」

ムギちゃんが叫ぶと同時に、私は服から包丁を取り出し、男の上腕を下から突き刺した。
刃を抜くと血が飛び散り、私の黒い洋服にそれが染み込む。

男は悲鳴を上げ、ムギちゃんから手を離した。
私は透かさず彼の背後を取り、首の横に包丁を突き付けた。

男「君……何を……」

唯「ムギちゃんに触れるな……」

周りの男達が私達に近寄ろうとする。

唯「全員動かないでくれる? 動いたら私、この人を殺しちゃうから……」

男「待て、落ち着け、私達は君を傷付けるつもりは無い……」

唯「……それって、ムギちゃんは傷付けるつもりだったって事?」

私は彼の首筋に包丁の先を押し当てた。
そこからじんわりと紅い血が染み出してきた。

男「や、やめてくれ……」

唯「私の質問に正直に答えてね……。なんでムギちゃんを捕まえようとしたの?」

男「そ、それは、琴吹と施設管理者達が私達を見捨て、自分達だけで逃げようとするから……」

男2「そ、そうだ。悪いのはあいつらだ!」

男3「法外な金を搾り取った挙句、都合が悪くなったら逃げるなんて許されないぞ!」

男4「我々だって、安全な場所に避難する権利があるんだ!」

唯「……それってどういう事なの?」

男「この施設内には、感染者がいるんだ。それを『処理』出来ないから、ここを放棄するって……」

男「自分達は別の安全な施設に避難するから、君達も好きにしろって……」

男2「そんな無責任な事が許される訳ないだろう!?」

男3「俺達には、ヘリも次の避難場所も無いんだぞ!」

男達の言い分を聞き、私は心底呆れ返っていた。

唯「あのさぁ……」

唯「そんな事を言う権利がお前達にあると本気で思っているの?」

唯「琴吹の人間も、お前達も、私もさ、みんな同罪なんだよ?
こんな安全な所で自分達だけぬくぬくと生きてたんだからさ……」

唯「ヘリコプターが無いのも、次に行く場所が無いのも、それだけのお金と権力が無いからでしょ?」

唯「お前達がこの施設に来れたのだって、お金と権力のお陰じゃない。
だったら、次の場所もそれで勝手に探しなよ。他人なんかに頼らずにさぁ!」

男達「……」

唯「それで、紬父と斉藤さんはどこにいるの?」

男「……一般居住区の最下層、収容所に彼等はいる」

紬「お父様と斉藤がそんな所に……」

収容所……。一般居住区にいた時、受付嬢から聞いた事がある。
この施設の規則を著しく乱した者を一時的に収監する場所だ。

唯「……そう、分かった」

唯「ムギちゃん、そこに行こう」

紬「ええ!」

男「ま、待て! 私達の仲間は大勢いる! 二人でどうするつもりだ!?」

唯「……仲間が大勢いるんだ。それじゃあ、私達だけで助け出すのは無理そうだね……」

男「ああ、そうだ。彼等の中には銃を持っている者だっているんだぞ?」

唯「そっかぁ……。教えてくれてありがとう。お礼に、私も一つ、良い事を教えてあげるよ」

男「な、なんだ……?」

唯「早くこの施設から逃げた方が良いよ。これから大変な事になるから……」

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