第14話・計画始動







車内は静かだった。
後部座席と運転席が仕切られているため、ギアチェンジの音も聞こえず運転手の姿も見えない。窓も本来なら囚人の護送に用いられるような、特殊なガラスのはめ殺しである。エンジン音すらも聞こえない。ただ体が重力に任せて右へ左へと揺れて、この車が移動している事だけは辛うじて知覚できる。
アンジュは護送されていた。昼間の騒動を咎められ連行、というならまだ分かるが、あいにく乗り合わせたのはパトカーでも何でもなく、豪勢な公用車だった。ここまでくると、相手もアンジュの扱いを周囲に隠すつもりなど毛頭無いらしい。

アンジュは溜息が止まらなかった。

なぜ、彼まで連れて来いなんて辞令をよこすの?

アンジュが指示さえすれば、隣で長身を窮屈そうに詰めるアレクに指示を出せば、この車の進路をある程度推測できるかもしれない。しかしそれも彼の立場を追い込むだけなので、アンジュはあらかじめ彼には「一切の解析はやめろ」と忠告しておいた。アレクの事だから、アンジュをこの場から救い出すためならそういった手段も辞さないのだろう。
昔からこのヒューマノイドはそういう性質だった。自分が「大切だ」と認めた相手を守りたい。その一心で彼は学習を続け、最終的に本人を押しつぶすような重大なバグに見舞われた。
アンジュはそのバグを回避するためのストッパーも、『箱』解析と併行して構築してきた。それがあの青年、ジャックの前でも見せた強制的なコマンドの書き換えだったわけだが、実はここ数年それを必要とするバグ自体が発生しなかったので、アンジュは正直、今この場でも頭を抱えている。
油断していた、どころの話では済まない。
ジャックの経歴を辿ればアレクがあれほどまでに「思いつめた」理由などすぐに分かる事だ。あの青年を取り巻く過去こそがバグの原因であり、しかし彼が存在する限りその原因を取り除くのは不可能に近い。

そのジャックが現れる前、30年前にアレクを襲ったバグは彼が様々な協力を得て組み上げた学習の堆積を根本から破壊し尽くすような、余りにも致命的な一撃だった。彼は人格を、人工知能の稼働を維持できなかった。優秀な頭脳のベースとボディを遺し、

彼は一度、死んだのだ。

だからアンジュは、30年前の彼を知る数少ない人間である彼女は、アレクを保管して、サーティーン・コードシステムの創始者であるドクター・フランクリンの遺言通りに彼を再起動させた。アンジュが研究所に若くして入所し、アレクの頭脳をこねくり回す権限を得るまでには少々時間を要したが、まっさらな頭脳を携えて、アレクは無事に目を覚ました。
「彼」を一から組み直せば、彼は優秀なサーティーン・コードの始祖として再び活躍できる。アンジュもそのように期待した。期待するしかなかった。


そして今、アンジュを守ろうとアレクはこの「連行」に同乗している。
今ここにいるアレクが最初に認識し、学習の礎となったアンジュを守るために。

「…アンジュ、顔色が優れないようだが」
「いつもの事よ。ていうか、お肌の曲がり角なんてとっくに過ぎた歳なのよ?言葉に気を付けてくれたって良いじゃない」
「ジャックは、あれからどうした」

アンジュは片眉を上げてアレクを一瞥した。

「貴方が心配する事じゃないわ。もう彼を護衛する任務は取り消したでしょう?」

思ったより刺々しい自分のトーンに、アンジュも驚いた。アレクはモスグリーンの目をさ迷わせ、

「そうだったな、手間をかけさせた」

と呟いた。以前ならこんな会話も成立する事はなかったのだが。アンジュは溜息を吐いた。そしてアレクの整えられた髪を一筋ずつ、丁寧に撫で付けた。

「アンジュ、それは子供に行うリアクションだよ」
「にしては、あんまり嫌そうな顔しないじゃない。…貴方もまた学習を進めてしまったのね。前はバグが発生しても罪悪感を感じたりしなかったのに。無理をさせてごめんなさい」

アレクは困ったような苦笑するような、あいまいな笑みを浮かべた。誰かさんに似た笑い方にアンジュは人知れずドキリとしたが、アレクのくすんだ金髪をくしゃくしゃにして誤魔化した。

「君のせいじゃない。私のような旧式を今も活動させている君の腕は大したものだ」
「褒めたって何も出ないわよ。貴方に使う指のグリースとかがグレードアップするくらいで」
「それは願ってもない事だな。君の散らかった部屋の片づけがはかどる」
「言っとくけど、どこに何があるか分かるレベルなら散らかってるとは言いません」

お互いに、相手の笑顔を確認して休息を挟む。夫婦のような手の打ち方だが、理屈をこねる女性研究者と人間をよく知るロボットの間ではこれが丁度良いのだ。

「…アンジュ、これから君は…」
「私はむしろ、貴方の事が心配で仕方ないの、アレク。無論、ジャックやドーリィの事も。私は別に自分のやりたいようにするだけだけど、奴らが貴方達をどうこうするつもりなら容赦はしないわよ」
「…君には世話になりっぱなしだ。でも、私とて同じ気持ちだよ。誰の未来も傷つけたくはない」

唐突に体が高級な設えの座席に押し付けられ、やがて全てが静止した。真っ黒だった車窓が徐々に薄らぎ、窓の外でこちらを確認するSPと目が合う。1人や2人ではなく、車を囲むようにして彼らは2人を出迎えた。

「アンジュ・カーライル主任研究員、お降り下さい。安濃津博士がお待ちです」

ドアは開錠され一同が丁寧に応対するも、アンジュは眉間に皺を寄せて降りようとしない。

「どうせあいつの口約束でしょ?」
「いいえ、直接お話したい事があると伝えてほしいと、仰せつかっています。同行したヒューマノイドもご一緒に是非との事でした」

アンジュの機嫌はいよいよ急降下した。目の前に安濃津が、安濃津塔一がいたら張り倒していたかもしれない。昼間の騒動を忘れたのだろうか。アレクをあそこまで激昂させたあの急襲を、忘れたと言うのはどの口か。いずれ会わねばならない事に変わりはないが、何度あの男に煮え湯を飲まされてきただろう。
アンジュは隣に座っている筈のアレクに話しかけた。思った通り全くの無言、本当に微動だにしない。ぐっと口を引き結んで、安濃津の名を聞いただけでこの反応だ。会わせたら激昂どころでは済まないかもしれない。
モスグリーンの目に攻撃的な光を宿し、アレクは応えた。

「アンジュ、君はあの男からのアポを承諾していたのか」
「そうよ、一度は会っておかないと示しがつかないもの」
「誰に対する示しだ。君が危険に晒される理由など無い筈じゃないか」

SPの1人がアンジュとアレクを引き離そうと、車に顔を突っ込んだ。

「降りろ、アレクセイエフ。スウォルスキー女史を護衛する必要はない。お前には当施設でボディ・メンテナンスと頭脳の解析を受けてもらう」
「定期メンテナンスなら先日受けたばかりです。必要はありません」

何が面白いのか、SP達の間で卑俗な笑いが伝播していくのが感じられた。

「70年前に作られたなんて経歴は本当だったんだな、融通の利かない奴だ」
「彼の事を悪く言うなら帰るわよ」

それはアンジュの本心であった。
アレクの専属管理責任者として彼の事は熟知しているし、最高の友人だと思っている。あの男、安濃津以上に彼の事を認めているという自負があった。
SPも彼女に冗談が通じないと分かったのか、ドアを静かに開けて降車を促した。
アンジュの緩く束ねた金髪は虚しく揺れる。引き返すつもりもないし、実はそんな根性も無い。歳は取りたくないものだ。

「彼女1人であの男に会わせるつもりか。そんな事は許さない」

アレクの切羽詰まった声が彼女に追いすがった。しかし瞬く間に彼女は黒服の男達に囲まれる。遠ざかる。彼女もまた、離れていく。
SPの1人が反対側のドアを開け、アレクの動揺など意に介さず乱暴に肩を掴んだ。

「ロボットの意見が通るとでも思ってるのか。さっさと来い」

別のSPがスムーズにその後を続ける。

「安濃津博士が研究所とこの軍直下研究連携施設を行き来する事自体、彼女含め『箱』研究チームは容認していたし、研究の一環として受け入れていた筈だ。まさか、知らなかったとでも言うのか?サーティーン・コード」

生体反応や声以外にSP達を判別する要素は希薄だった。全員がサングラスをかけており、全く同じ黒のスーツでやる事話す事は皆同じ。悪い夢のようだ。
アレクは表情筋の制御を解き、全くの無表情となった。彼は諦める時、いつもこのように自分の顔を仮面に作り変える。不気味の谷とはよく言ったものだが、彼の精緻に作りこまれた顔はむしろ人間味を増してしまう。
初めて彼のそれを見た時はアンジュも愕然とした。文字通り、彼の見えない一面だった。

アンジュは何事か彼に訴えようとしたが、SPの壁がそれを阻む。真っ黒なスーツの壁が力なく立ち上がるアレクを殴り飛ばすような勢いで連行するのが辛うじて確認できた。

それがアンジュの我慢が限界に達した瞬間であった。
立ちはだかる者達を睨む彼女の目は怒りと覚悟に満ちていた。
数人のSPの電脳にアラートが強制的に流し込まれる。ハッキングだ。アンジュも『箱』研究チーム主任という経歴を持つ手前、実力そのものはあの安濃津博士に及ばないにしてもこのような荒業もお手のものだった。

「私の許可なしに彼をいじり回すつもりなら、ここのマザーにウイルスぶち込んで帰らせて頂くわ。私はアレクと一緒でなければ誰にも会わない。上にはそう伝えてちょうだい」

彼女は言い放った。SP達も束の間返答に窮するような気迫が彼女を覆っている。
要求が承諾されるまで一歩たりとも動くつもりはない。誰とも会うつもりはない。
施設側の人間達と同じく驚いたのか、少し表情を戻したアレクにつかつかと歩み寄り、彼女は不機嫌を隠さず合金の足を蹴飛ばした。

「何やってるのよ。彼に会っても何もしないって約束できるなら一緒に来て良い、って言ってるの。もう、ロボットのクセに思考停止しないで!」


2人は更に地下の階へと通された。駐車場で特定の操作を行えば、つるりと継ぎ目のないエレベーターが床からせり上がる。
ここ、軍直下研究連携施設の厳重な警備は年々精度を増していく。毎年のようにアンジュはこの施設から招集を受けていたが、今年こそは「息が詰まりそうだから」という理由で断ろうかと思っていたところだ。
でも今回ばかりは辞退そのものが不可能に違いない。自分はジャックやドーリィの逃亡に加担した。それは安濃津も立場を同じくしており、この施設で相応のペナルティを受けている可能性がある。
それを思うとやはり、アンジュは胸が痛んだ。仮にも30年前、彼女の背を押して科学の道を拓いてくれた男なのだから。彼に限りない憧れを抱いていた10代の日々が懐かしい。
そして、あれほど楽しかった日常が、このような息苦しい過程を辿ってしまったのは何故なのか。誰のせいでもなかった、彼女は今もそう思う事にしている。
アレクと、安濃津、いや、安濃津トーチとアンジュの養父が揃って、毎日がしっちゃかめっちゃかで騒がしかった。あんなに、とても楽しかったのに。
本当に全てが崩れたのは些細なきっかけが起点であった。安濃津が彼女のもとから、アレクの傍らから離れ、アンジュの養父と別れの握手を経て、アレクが全てを忘れ眠りに落ちた今。
自分に出来る何かを彼女は手あたり次第実行に移し、1人戦っている。地上から遥か下方へと降りる個室の中、彼女は本格的な戦いに挑もうとしていた。

通された先はどこもかしこも白くて、ああやはり息苦しいな、とアンジュはげんなりした。
白く長い廊下が湾曲して奥へ奥へと続き、終点がカーブの向こうに見えなくなる辺りまでガラス窓がピカピカと沿って輝いている。ガラス窓を覗いた下方には数え切れないほどの培養プラント。そのどれもが何かしらの生体を培養するべく、pHから温度、塩分濃度諸々を徹底管理されていた。
ここにウイルスを撒かれては、その種類に関わらずたまったものではないだろう。アンジュの切った啖呵は有効だったわけだが、プラントに浸かった生体、もとい名も知らぬ少年少女達の儚い命を危険に晒すわけにはいかない。

「キメラの研究もまだ積極的に取り組んでるのね…」

アレクは厳しい顔のまま、アンジュをそっと窓から遠ざけた。窓とアンジュの間を歩き、つまり彼女の目に実験現場が見えないようにと、気を使っている。アンジュは苦笑した。

「私に関する情報、ちゃんと更新してくれてる?いつまでも20歳の若造じゃないのよ、これくらいで気分を悪くしたりしないわ」
「しかし、」
「平気よ。私は貴方の方が気を使い過ぎて消耗するんじゃないかって心配なんだけど?」

アンジュが少し気合を入れて腕を上げて、やっとアレクの頭に手が届く。彼女はその人工の頭髪をわしわしとかき回した。

「アンジュ、今私の髪はどうなってるんだ?」
「窓ガラスに映してみたら?私の目を貸してあげても良いわよ」



カーブを何度か曲がって、更に地下へと降りていく内に、アンジュの表情がだんだんと重く沈んでいくのをアレクは眺めていた。いったい彼女をどこまで連れて行くつもりだろう。
近代的な作りの建造物は地下へ地下へと広がっていたが、やがて今までになく古風な設えの行き止まりにたどり着いた。
他の部屋より外装が古めかしいというだけで、さほど変わりはない。しかし、アレクはこの部屋からは尋常でない量の電磁波や赤外線発生源を検知した。アンジュを1人にする事なくここまで来られた事に安堵する反面、自分が徐々に獲得しつつある原始的な感情が首をもたげようとしている。

はっきりと感じた。
恐怖を。

アンジュはアレクとちらと目を合わせ、ドアを開錠するSPに従って部屋に踏み込んだ。良くない兆候だと思った。危険過ぎると。
アレクを彼女と共に連れて行く約束はきちんと適用されていたようで、入室自体は許可された。彼はその巨体に似合わぬ素早さをもって、アンジュと部屋の主の間に立ちはだかった。
部屋の内装はこれもこじんまりとしている。ガラスとはまた違った特殊な合板によって二分された一室で、どう見ても特殊な面会を目的とした設計だ。
アレクも見た事がない、極めて透明度の高い材質の壁が部屋を分かち、どちらの区分にも一脚の重厚なチェアが置かれている。

男はあちら側に座っていた。
明るいブラウンの髪をゆるく撫で付け、ヘーゼルナッツのような明るいハキハキとした目をこちらに向ける。高級なスーツを着こなす50代手前の男だ。

アレクは「これが驚愕か」と新たに小さな学習を進めた。
この男なら彼も知っている。誰もが知っている。
この男の、名は。肩書は。

アンジュは硬直するアレクを強引に引き戻し、口元に指を当て目配せする。

「久しぶりだね、アンジュ」

分厚い合板を通している筈なのに、男の声はとても明瞭だった。歳に見合った落ち着いた声量に、顔立ちに似合った快活な声質。このような場でなければ、誰もがこの男に好印象を抱いた筈だ。
だがアンジュはいよいよ怒りを隠さない。男を睨みつけて、必死で声を抑え冷静を保つ。

「今度呼んだら張り倒すわよ、ライゼナウ」

男の顔からほんの一瞬だけ表情が消えた。これもアレクの中に恐怖を引き起こすに十分な変化だった。
ライゼナウ、と呼ばれた男はすぐにこやかに表情を作り変えたが、目から一切の感情が消えていた。

「君もその名で私の事を呼ぶなら、天寿を全うしてもここから出る日は来ないね」
「望むところよ。さっさとトーチを出しなさい」

はっは、とライゼナウは爽快な笑い声を立てた。

「トーチ、って誰の事だい?今も先生の名前をキチンと発音出来ないんだね、君は」
「貴方もハッキングされたいのかしら?早くあいつをここに呼んで来なさい」

アレクは仁王立ちでライゼナウに挑むアンジュをそっと、自分の懐に引き入れた。

『アンジュ、それは危険だ。彼のような閣僚の防壁は我々の比では』
『んな事、百も承知よ。でも一度は真っ向勝負を挑んでおかないと腹の虫が収まらないわ』

周囲に気付かれぬように個人間通信で会話を試みる。
アレクは少なからず混乱した。アンジュがまさか、この男とまで旧知であったとは思いもよらなかった。
30年前の、記憶が吹き飛ぶ前の自分であればこの事を予期できたろうか。彼女が自分にこのような事実を隠す事すらも。
やるせなくなるが、今はアンジュの安全が最優先だ。アレクはアンジュを庇うのに必死だった。

『君は、現大統領にハッキングを仕掛けるつもりか?』
「あんな男が大統領になれる世の中がそもそもおかしいのよ、中身はただの変態だわ」

アンジュは通信を介さず、ライゼナウを見据えて言い放った。

「そうでしょう、レオナルド・イスキ大統領閣下。私みたいな研究員なんかに何の用?」

大統領は微笑みを絶やさなかった。事は彼が思うように進んでいるのだ。

「以前から君にも持ち掛けていた計画、あれがそろそろ実行段階に入れそうなんだ。手伝ってくれるだろ?」

さあ君も驚くぞ、とイスキは嬉しそうに次の一手を繰り出す。アンジュは渋い顔で合板の仕切りぎりぎりまで歩を進め、イスキを睨みつけた。はためく白衣から煙草の香りがした。何故かアレクは、その香りに軽い動作不良を起こした。彼の頭脳が勝手にその香りを解析してしまう。
この匂いはどこかで。煙草の銘柄そのものは見慣れている。時々彼女に代わって買いに出る事だってある。シティのどこかで紫煙を感知した?いや、それだけではない。
あの男。
安濃津。
彼の真っ黒なスーツはいつも、この香りで染まっていた。
どういう事だ。何故、彼女とあの男が。

あの男は、アレクに何かを示すように、煙のように仕切りの向こうに姿を現した。大統領の真横に、付き人のように姿勢良く立った影は、黙って大統領の方を向いて俯いている。
アレクの全身が警鐘を叫んだ。

「アレク、駄目よ」
「しかし!」
「駄目と言ったら駄目」
「何故君はそんなにも落ち着いていられる?あの男が、安濃津はジャックの父親を!」

この場で感情らしい感情を表しているのは、ロボットであるアレクだけだった。人間達はみな異様に物静かで冷静で、誰もロボットの言う事には耳を貸さない。
やがてライゼナウ、いや、イスキ大統領が「まあまあ」と笑った。アレクの暗視スコープのように見開かれた目が、仕切りの向こうの男達を射抜く。

『トーチ』

この時、アンジュは密かに安濃津塔一に向けて個人間通信を飛ばしていた。何年も前に彼に渡された秘密のIDに向けて。その回線は今回、イスキの「娘」であるドーリィを逃がす為にも使われた。
トーチは応えなかった。30年前から歳ひとつ取らぬ横顔が見えるだけで。
彼だけがあの日から変わっていない。その筈だった。

「メサイア拿捕計画」

アンジュはぽつりと呟いた。

「そうそれ」

イスキの目がギラリと光った。

「どこがメサイア(救世主)なのかっていつも思うんだけど、まあ、あれが通り過ぎた跡は汚染がかなりのレベルで浄化されるわけだし、先人の遺した荒療治にしてはよく働いてくれたって事だね」
「しかし、そろそろあのシステムも寿命が近い。君達には今まで明かしていなかったメサイアの仔細も含め、一部始終を説明させてもらう。そのうえで協力を願いたいのだ」

イスキに続き、初めて安濃津が口を開いた。彼の姿は背景が透けて、研究所を襲った時と変わらず亡霊そのものだった。

アレクはこの場で声を荒げる事に意味を見いだせなくなった。安濃津もイスキも、発する声に感情らしい感情が感じられない。仕切りの向こうまでは解析の手を広げる事が出来ない為、アレクは彼らがそこに存在するか否か、それも疑わずにはおれない。
見たもの、聞いたものをそのまま感覚できなくなったのはいつの事だろう。
そんな彼が学習の中で自分を見失わずにいられるのは、今ここでも凛とした居住まいを崩さないアンジュのおかげであった。

「あんたがこの男にずっとくっついたまんま、うすぼんやりとボケてるワケも話してくれるんでしょうね。トーチ」
「アンジュ」
「呼ぶなって言ったでしょ、ライゼナウ」
「アンジュ、もう…前にも言ったじゃないか。先生は僕の良き理解者なんだ。僕も先生をずっとサポートしてきたんだもの、良きパートナー、先生と弟子の関係は今も昔もそのまんまさ」

暫し、皆が口をつぐんだ。アンジュが段々と炭酸の気が抜けるように肩の力を抜く。せめて彼女を、1人で色々な物を背負い込んでいる彼女を一度ここから連れ出したい。
だが彼女はアレクが話しかける前にすっと微笑んだ。

『…アレク、やっぱり貴方は別室で待機した方が良いわ。認めたくないけど、貴方がトーチに抱くその気持ちは人間で言う憎しみに近い。貴方の頭脳にとても負担をかける反応だわ』
『もう、目を背けたくないんだ。君が私の届かぬところで苦しむのも、見過ごすわけにはいかない』
『馬鹿ね』

また、アレクは自分の表情がマヒしていくのを感じた。それはロボットである彼にとって、「無意識」が呼び起こす数少ない挙動だった。アンジュもそれは良く知っている。知ったうえで彼女は首を振る。

『そういう風に貴方が学習してくれたのは凄く嬉しいの。だからこそよ。後で合流しましょ…』

彼女は最後まで言葉を繋げなかった。何かに気を取られたようである。視線がその何かに奪われる様子がアレクにもはっきりと確認できた。

安濃津が、こちらを向いていた。

『トーチ』
『…アンジュ、君という存在と関われるこの時は何にも代え難い。待ち望んだよ』
『あんた、まさかアレクとの通信、聞いてたの?』

アレクは判断に窮した。
安濃津の声はとても優しかった。冷徹の権化とも言うべきあの電子の幽霊がこんな、何と人間らしく語り掛けるのだろう。
安濃津は困ったような弱ったような複雑な微笑を向けた。アンジュだけでなく、自分にも。視線の矛先に疑念は感じなかった。彼は我々を見ている。
そこにイスキが動く。椅子から乱暴に立ち上がり、未だ半透明の安濃津を睨む。恐らく、彼らの間でも個人間通信が行われている最中なのだ。
イスキの顔はどんどん歪んでいく。その横顔に浮かぶのは苛立ちやそしり、ほんの少しの怒り。アレクが学んできた人間の感情の中でも、とりわけ扱いに困るものばかりだ。

「先生、近日中に会議を開きます。彼女との細かい打ち合わせはその時に済ませて下さい」
「ああ、そうだな」
「彼女との、アンジュとの話はこの部屋に限って許可する。最初に打ち合わせしたじゃないですか」
「その通り。君との約束だったね」

イスキは安濃津の肩を乱暴に掴む。その頃には安濃津の姿は完全に形を得ていた。

「先生」

安濃津は踵を返す。まっすぐアンジュとアレクのもとに向かう。イスキはバランスを崩してチェアに縋る。なぜか彼の手は安濃津の肩を再びすり抜けたのだ。

「トーチ!」

切羽詰まったアンジュの声が狭い室内にこだました。あの透明な間仕切りなど最初から無かったかのように、喪服と白衣を纏った奇妙な男はぬるりと通過する。
アレクに迷っている暇はなかった。ただアンジュの盾になり、安濃津とイスキから彼女を庇った。
アレクの懸念とは裏腹に、誰も実力行使に出るような真似はしなかった。ただ、アレクにも計り知れない思惑が縦横無尽に狭い室内を錯綜しているだけで。
何も感知できなかった。

「先生、計画に支障をきたすような真似は…」
「君は職務に戻り給え。今晩の会見まであまり時間が無かっただろう」

イスキはじっと安濃津を見据えた。じっくりとなめ回すように見つめ、やがて鋭い嘲笑を発する。アレクはそれを「彼らしい」と感じた。イスキ大統領の本来の顔に近いものを見たような気がした。

「一仕事終えたらもう一度、貴方の人格矯正をやり直します。先生、貴方は一度は人の身を超越したんだ。あの頃の貴方を蘇らせるまで、僕は決して諦めない」

とばりを下ろすように仕切りは突然白く濁り、向こう側の一切が見えなくなった。


照明が落ちた場合の事も考えたが、やはりそれ以降、何も変化はなかった。
だしぬけに安濃津は、ほう、と溜息を吐いた。先ほどまで仮面のように無表情だった彼はどこにもいない。痩せた顔は安堵に満ちて、しかし対照的にアンジュは腕を組んでしかめ面だ。
アレクとて内心は警戒の度数を底上げされた状態で彼に接している。アンジュを自分の背に隠したまま安濃津の様子をひたすら観察した。

「アレクセイエフ君、彼女が納得いくように直に話がしたいんだ。少しだけ彼女を貸してくれないか」
「彼女は誰の所有物でもない。貴様のように国家に買われた者とは全く違う」

安濃津は少し考えて、

「違いない」

うんうんと頷き、改めてアレクの瞳を覗き込んだ。

「…どうして君はそんなに優しいのだろうね。私も君の研究に参加してみたかった」
「私が修理したからここまで出来た男に育ったに決まってるでしょ!あんたみたいな余計な因子がいたらたまったもんじゃないわ、この大ボケじじい!」

壁とアレクに挟まれていたアンジュが、制止もものともせず無理くり前に出てきた。

並べてみると、彼らの歳格好にはそれほど違いがない。アンジュに関してはとても40代に見えないエネルギーを感じさせると所員は言う。だが実際は双方の表情から推測される年齢はそれほど変わらないのだ。アレクの解析機関がそのように算出したのに、どういうわけか、機関の主たるアレクは人知れず驚いた。
相変わらず安濃津の身体構造そのものは解析不能、正体不明、ロストテクノロジーのかたまりと言わざるを得ない。だが、アンジュと彼が旧知の仲である。それは紛れもない事実のようで、アンジュなど時々涙を浮かべて怒鳴り散らしている。

「ひとつ上の階に客室がある。今日はそこで休みなさい。ああ、そんな顔をしなくても私が知る限りの話をきちんと伝えるつもりだ。良いね?」
「誰が信じるものですか。ここで例の『詳細』を聞くまで一歩も動くつもりはないわ」
「さようで。どうしてくれようね、アレクセイエフ君」

アレクがやっと、状況の推移について処理と判断を終えたところを狙ったかのように、彼は話を振る。アレクは三つ編みを振り回すアンジュを引き寄せ、安濃津を睨んだ。

「貴様をアンジュにこれ以上近づけるつもりはない。もし計画が危険だった場合には彼女を連れて…」
「残念ながら、君達は政府の許可無くしてここから出られない。私の力をもってしても」

アレクの表情はますます険しくなった。アンジュが何か言いたげに男達2人を見上げる。

安濃津は皆を遮って続けた。

「アレクセイエフ、彼女の護衛に全力を尽くしてくれ。私は君を信じている」


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