第3話・白衣の男








ぐっと倍率を上げて男を視界に収め、何者か見極めようとした。しかしその出で立ちに突出した何かしらは認められない。所内に紛れ込んだら分からなくなりそうだ。変装のつもりだろうか。

「いたか?」
「研究員らしい男ならそこに」
「そ、そいつだ!よくやったぞターナー!」

鈍い音が腹の底に響いた。物陰に隠れようともがいた長官が足を取られて転倒したらしい。
俺は心底ため息を抑えて長官のもとへ駆け付けた。所内のお偉いさんに怪我をさせたとあっては俺の立場がどうなっても文句は言えない。そんな事で研究の機会を逃してはあんまりだ。
長官は震える手で端末を取り出す。急いで俺に突きつけると口角から泡を飛ばし叫んだ。

「よし、奴を透過して武装レベル、そうだ、奴が丸腰でもなんでもいい、透過した情報をあるだけ警備に送信してくれ。とにかく君もここで待機して安全を確保…」
「しかし。個人の情報をむやみに解析するのは例え現役の兵士でも」

苛立ちを隠そうともせずダンクル氏はグローブのような両手で俺に縋り付いた。目は完全に動転の為に瞳孔を開き、脂っこい輝きが手放しに増している。

「そんな事はどうでも良い!あいつはそんなもの知った事じゃあない!あれは!」



「人間じゃない」



今度は俺が脂汗を浮かべる番だった。
今の声。誰の声だ。どこから聞こえたんだ。
ちょうど両耳から吹き込まれたように、その低い声は奇妙な反響を残して俺の脳を揺さぶった。
脳。電脳にハッキングを喰らったのかもしれない。

「窓から離れて、そのまま机の裏に隠れて!」

所長の背を蹴飛ばしたい衝動に駆られたが、大人しく俺もソファの裏に身を潜め出方を窺った。
現に今この部屋は長官と俺と少女型ロボットをおいて皆、厳重な施錠によって締め出されている筈。なのに。
無理を言えば窓を隔てた庭園から先程の黒い影が声を上げた、とも考えられたがそれにしては先程の声は明瞭過ぎた。何故かヘッドホンで遠隔講義を聞いて勉強していた頃を思い出して俺はハッとした。
とにかく電脳をオフラインに切り替え呼吸を整える。またも所長が転ぶ衝撃音が轟いた。派手に転ぶものである。


『パノラマモード:フル=オン』
『光度:オート=セッション』
『位置情報:捕捉完了』
『Lord…』
『Over』


網膜もどんどんと切り替えて『視界』をより明瞭にシフトした。今度は花弁に気を取られる事もないだろう。
俺はそっとソファから庭園を覗き見た。角度に問題はない。改めて白衣の男を『視界』に収め狙撃すら可能なレベルまでくっきりと像を捉えた。
男は既に振り向いていた。壮年の男性。随分と痩せて青白い。鋭い鼻梁が映えるが、恐らくアジア系の出身だ。癖の強い黒髪には桜の花弁が好き勝手くっついており、今の今まで桜に埋もれていた死体のような不気味な風貌であった。

防弾ガラスと桜吹雪をかき分けて目が合う。男は死んだ魚の目のような黒い瞳をわずかに見開き、それこそ幽霊のような茫漠とした笑顔を浮かべた。

瞬間、俺は弾かれたようにソファ裏から飛出し執務用のデスクの影に身を隠した。
恐らく最も安全な場所だ。所長がとっくに占領していたが何とかなるだろう。何とかしてみせる。
走る俺の耳元で、今度は背に何者かが、恐らくあの男が張り付いたような生々しい距離で声が聞こえた。

「実に、見事」

何が見事だ。この桜か。執務室の設えか。所長の体格か。
あまりに飄々とした声質にいよいよ苛立ちが募った。

続いてざらざらと枝葉の軋む音が耳を掠めた。ちょうどデスクから落ちたらしい万年筆を『視界』に認め、丸腰よりは良い筈と利き手に構えた。
ナイフ1本でもあれば良かったのに。妹や旅だった両親に顔向けできるくらいには損失を抑えて脱出したいものだと、天にさっと祈り心を決める。
戦地で出撃するたびに半ば習慣としていたお祈りだ。お守りは持たない主義だったのでいつも手持ちの武器や乗り合わせた戦闘機に願掛けをしてやり過ごしてきた。

どうか。幸多かれ。

誰の幸かはお察しだ。少なくとも俺の幸じゃない。


視界の端に震える所長を確認する。俺は勢いをつけて物陰から躍り出た。

やはりと言うべきか、枝葉の向こうであの男がにやついていた。
地上からだいぶ高さを保って建てられた執務室だが、俺と男の目線はほぼ同じ。男の笑みはますます深くなり、人間どころか猫すら支えられるか怪しいくらい細い枝が申し訳程度にしなった。
どういう仕掛けなんだろう。俺の脳は既にこいつの手の内なんだろうか。
こんな白昼夢のように前触れもとっかかりもないハッキングは聞いた事がない。

俺は色々と悟ってしまったようだった。万年筆の蓋をゆるめて窓に投げつけた。
尋常じゃない量のインクが飛び散りガラス壁を汚し、男の癪に障る笑顔を塗りつぶす。
これはもう駄目かもしれない。こんな量のインクがあの万年筆に収まっていたとは考えにくい。悪い夢のようだ。悪い夢が熱と質量を伴って押し寄せてきたかのようで、本当に気分が悪かった。

最後のあがきと所長を呼ばうため振り向いた。その瞬間、俺は本当の意味で諦めがついてしまった。



ぱち、ぱち、ぱち、と壊れたメトロノームのようなリズムで拍手が零れ落ちる。
男がソファに深く腰かけ、満足げに笑い声を上げ待っていた。



「実に見事だったよ、ジャック。ジャック・ヘイミシュ・ターナー」


俺はずっと耳元を掠めていたあの声が初めて、然るべき場所から発せられている事を確認した。



「麻酔銃ならデスクの右側、下から3番目の引き出しだ」

白衣の男は長い枯れ木のような両足を組んでこちらを見上げた。俺の背後ではドスンバタンと所長が暴れ回っているようだったが男は俺から視線を逸らす気配がない。
曇りガラスをはめ込んだような生気のない目がこちらを覗き込む。覗き返せば、いや応えれば害をもたらしそうな毒気を孕んだ目つきだった。

「ど、どういうことだ!防壁は3時間前に更新したばかりなんだぞ!!」

所長の上ずった絶叫が耳に障った。この期に及び耳までやられては大ごとだな、と俺は諦めをひしひしと感じてため息を吐いた。
男は所長がいる事に今気づいたぞ、とでも言うようにわざとらしいジェスチャーを交えて笑う。

「あまり頻繁に更新するのも考え物ですよ、長官。7番攻壁に若干ほころびがある。第5防壁に容量を取られ過ぎたようだ」

男は俺に目配せしてみせた。何を意図したのかは流石に分からずにいたが非常に楽しげだ。
俺としては何故そのような機密情報を事もなげにピックアップできたのかが気がかりだった。このように調べ尽くした上で急襲をかけたのなら俺の名前を知っていたのも頷ける話だが、本当にこの男は一体何なんだ。

時折男の腰かけた革張りのソファが重々しく軋む。一連の微細な挙動全てがハッキングにより見せられた幻影だったとしても不思議ではないが、認めたくはない。あまりにリアルすぎる。

「お2人とも。座ってはいかがかな?若干に込み入った話がしたいんだ」

男が畏まる。しかし最後まで言い終わるか否かのところで暴力的な金属音が全てを遮ってしまった。恐らく3番目の引き出し。例の麻酔銃だろうか。長官が今になって引っ張り出してきたのだろうが、いや、にしてはこの音は…

「バカめが、これは実弾入りだ!ついに焼きが回ったらしいなこの化け物め!」

バシャン、と空薬きょうが床に散る騒音が嫌に空しい。所長は未だ膝を大笑いさせながら震える銃口を男に向けた。こげ茶のごま塩頭には冷や汗が浮かんで止まらない。
男は愉快そうに肩を揺らしてそれを見据え、すぐさまその肩をすくめて俺に向き直る。男の細い指先が思い出したようにくるくると踊った。

「22日の午後15時だったか、執務室周辺のセキュリティがダウンしていたようだ。ジャック、ここは一つこの武骨な銃が私の目をすっかり盗み、持ち込まれたルートを考えてごらん」
「…そのまま両手を頭の後ろにあててこちらを向け。丸腰だって事は分かってる」
「ほう。その『目』で走査した気配は見えなかったけども、私が懐に何も持ち合わせていないと思い至った手がかりは如何ようなものか、教えて頂けるかい」
「聞いてるのか?」
「質問はしないのか?」

銃の無遠慮な金属臭が俺の鼻にも届いたが、男はまるで意に介さず俺をまっすぐ見据えたままだった。丹田に力を込めて俺も男を見つめ返したが、自分の無駄に構えた両腕が段々馬鹿らしく思えてきた。
不意に男の目線が宙に飛ぶ。俺は思わずそちらに目線を釣られ呼吸を乱した。
そういえば、この男の黒服。とてもフォーマルな出で立ちだったが良く見ると。
喪服だ。

「…22日のシステムダウン。停電というわけではなかろう。仕事中に難儀はなかったろうね?ジャック」

心ここにあらずだった。男の視界には何が写っているのかてんで見当がつかず、らちが明かない。

「貴様、」

俺はハッとして、男に掴みかかろうと1歩を踏み出した。後々に思うとそれがいけなかったのかもしれない。

轟音。金属の焼ける匂い。続いて火薬の荒ぶ無遠慮な閃光。
随分と旧式な拳銃だったようだ。しかしこの距離なら外す事はない。恐らく。


即座に銃口に魅入られたように男の喉笛はぼうと膨らみ、銃弾に噛み千切られ風穴が残った。庭園に急な強風が吹き荒れ、血肉の飛ぶ音を幾分かかき消し和らげたようだった。

俺の動きに呼応して引き金を引いた所長はけたたましい笑い声を上げ、弾切れに至るまで銃を振り回し乱発した。

「口ほどにもないわ!わしとてそう簡単にやられてたまるか!」

どすどすと足音が机の上に忘れされられていたコーヒーカップを揺らした。そうだ、このコーヒーを運んだロボットはどうした。
改めて部屋を見渡す。少女型のロボットは入口のある壁面に置き物のように佇んでいた。わずかに俯いて垢ぬけた金髪のツインテールを垂らして静止している。どうやらあの男に機能を停止させられたらしい。
あの男の手により停止していたという確信は揺るぎなかった。
ロボットの手には、一振りの枝。桜の枝。満開で完璧に咲き乱れる薄紅色の桜を白い手に捧げ持っていた。
思わず目をそむけてしまった。苛立ちと焦燥を振り切って男の死体を確認すべく体勢を整える。

「よ、よくやったぞターナー。とりあえず引き続き周囲を警戒してくれ、もうすぐ警備の人間が…」
「所長!!」

所長が凍り付く。目線だけで「助けてくれ」と俺に訴えた。分かっているのだ。自分の置かれた状況を。始終慌てていたにしては上出来だ。

男が立っていた。所長の背後で首からどろどろと体液を流したまま。
血液である、と言い切るのはどうしても躊躇われ、俺もその場に立ち尽くした。
緑。緑の血。暗緑色の苔を煮溶かしたような暗い血液が男の白衣を染めている。


幸あれ。

脳裏でいつもの祈りが渦を巻いた。


幸あれ。
幸あれ。
幸、多からん事を。


俺は所長を跳び箱のように飛び越え、男の眼前に立ちふさがった。
所長がここにきて初めて悲鳴らしい悲鳴を上げ、また転倒し俺の眼前から消えた。

「伏せろ!」

男の顔がぐっと歪み、俺をまたまっすぐに捉えた。
あれも笑顔のつもりだろうか。構っている余裕はなかったが、くっくと震わせた喉からまた緑色の体液が漏れ出し俺の目に焼き付く。

男は大人しかった。俺が力任せに組み敷くまでまるで無抵抗で、からからに乾いたマットレスを相手にしているような味気なさが俺の両腕に残る。

「所長!」

俺は半ば怒りに任せ叫んだ。


何だこれは。
俺の服にまで染み込むこの暗緑色の血は何だ。
この研究所はいったい何なんだ。


「何ですか!これは!」

俺が顔を上げたそばで所長はへたり込んでいた。男の無機物のように冷たい身体は完全に脱力しており、生きているのか死んでいるのかも白黒つけがたい。
所長は床に尻をつけたままじりじりと後ずさる。絞り出すような呟きを残し、天井を仰いだ。

「化け物だ、…そうとしか言いようがない」



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