第一話・紙面辞令







研究チームへの正式な配属命令が下ったのは研究所、正式には「ブラックボックス統合研究所」に入所してからおよそ2か月ほど経った日の事。明け方だった。春先にしてはしーんと冷えていたのでよく覚えている。
余程重大な辞令もしくは手続きでない限り、紙の書類を使う機会が激減して久しいご時世だ。それでも出勤してみれば辞令は所内の水晶掲示板前にも堂々と浮かんでいた。上質なコピー用紙に印刷されており、背面の掲示板でゆらゆら点滅する文字列を透かして見る事ができた。
 
その日以来、俺はシティでの素行をある程度制限されている。といっても門限やアクセス端末の指定といった具合に、いたってシンプルな条項を載せた誓約書類にサインしただけだ。俺の生活にはあまり差障りを感じさせるものではなかった。
仕事は日中に大方片づけるし、外にも持ち出さない。実生活がもっと変質する事をどこかで期待していた俺は、チームメンバーと合流する日を自然待ち遠しく思った。

研究チーム。ブラックボックスないし『箱』と呼ばれる外部記憶装置。
旧時代より現代に受け継がれた貴重な遺物、の筈なのだが、未だに中枢の構造や動力に関しては不明な点も多い。未だアクセスできずに放置された情報の方が容量としては膨大だ。

しかし「『箱』から引き出した技術情報があってこそ、戦後のささやかな復興は実現した」。初等教育からブラックボックスがもたらした恩恵については大まかに教わっていたが、科目の分類は科学や社会でなく何故か道徳だった。それも社会の根底を支える科学的遺産というより「内部不明の機械装置」、「偉大なロストテクノロジー」としての側面を推した内容で子供たちを惹きつけた。
おとぎ話のように語り継がれても不思議じゃない。現時点で抽出まで漕ぎつけた情報の中でも最古記録は約1200年前とされている。研究・解体を続ければもっと古い情報に打ち当たるかもしれない。

にしても不信感は募る。「1200年」という具体的な数字に触れたのも、俺が研究所のデータベース閲覧の許可を与えられたその時が初めてだったからだ。データベース自体決して充実しているとは言えず、本当にチームのみがアクセス権限を持つとは思えなかった。
入所してから2か月という決して短くはない期間を過ごしたが、研究所の名に冠しているはずなのに『箱』本体の研究に携わる人間にも未だに出会った事がない。辞令が下ったあの日から俺の周囲はむしろ動揺しているようである。何かの間違いではないか、と。当の本人が一番に驚いているとも言えないほどだった。


研究所員の間ですら『箱』の存在はどこまでも不透明なのだ。『箱』が発掘された当時から国内外のパワーバランスを担ってきた研究所の内ですら。




俺が所長との挨拶を控えたある日、所内のカフェでリ・ウェンルーという青年に呼び止められた。寮で俺と同室だった男だ。


「ジャック、お前『箱』の研究チームに配属になったんだって?」

ここ数日は大体この皮切りでの会話を繰り返しており、しかしウェンルーのさばさばした性格に助けられた数か月を思って俺は現状を大まかに明かした。

「まあ、そうつっけんどんになるなよ。この先もたないかもしれないぞ」
「もたない?」
「ああ」

やはり皆一様に『箱』に関する話題を避けているような気がしていたが、ウェンルーが必ずしも所内の空気に倣っているという風でもなさそうだ。

「ここ、結構うさん臭いだろ」
「何か知ってるんですか」
「俺はデータベースを見る権利ないからなー。ジャックに教えられる情報は特にねえわ」

ウェンルーは珈琲に砂糖を入れるか一瞬迷ったが、「このご時世、俺も虫歯でさ」とシュガーポットを閉じた。
ポットに一瞬、ほんの一かけらの陰影がよぎった。
見上げると半地下にあるカフェの天蓋から花びらが見て取れる。
桜か。知覚野が「異常なし」と網膜にロゴをさっと投影した。

「とりあえず、『箱』には深入りしない方がいい」

ウェンルーがコーヒーに映り込んだ花を目で追いながら、ぽつっと零した。
研究所の人員を眺めていると何となく合点がいく話だ。この2か月教科書以上に詳しい情報に触れる事がなかったし、『箱』が半ばタブー視されている現状もチームと合流すれば障害にはならないだろう。

「研究チームに配属されたんなら尚更だろうと思ってさ」
「…ごちそうさまでした」
「2か月経ってもあんまりせっかちなところは変わらなかったなあ。まあ良い奴だったと思うよ、ジャック。顔は悪くねえんだし、もうちょい丸くなったらまたの御来訪をって事で」

俺は珈琲の産地だけ記録してカフェを後にした。








わずらわしい人ごみもまばらになり、長いガラス張りの渡り廊下に出た。
長官の執務室に続く回廊だ。屋外には遮蔽用の広葉樹林が広がっている。



ここに来たのは初めてではなかったが、以前渡った時とは少し装いが違った。
林のほとんどは霧を押し固めたような薄紅色に染まっており、その情景を臨めるよう所々に展望用のソファが置いてある。

思わず目を奪われる。足がひとりでに窓に向け歩を進めていた。シティは旧時代に桜が自生していた区域より若干寒冷な筈だが、木々の間でどの株も精一杯花を開いていた。

約束の時刻までにまだ間は空いていたのが救いだ。後で押し花にでも加工して妹に送ろうかと思っていた矢先。

端。いや、確かに。日頃絞っている視力ではおぼろげな距離に白い袂が揺れた。
白衣の、あれは?随分と背丈がある。おぼつかない足取りでそばにあったソファにもたれかかる人影が見えた。
屋内で知覚野を起動する機会があるとは思ってみなかったが、つい癖で長身の影を走査しにかかっていた。

「…!」

網膜を切り替えた途端、廊下の向こうが一瞬陰った。
雲の流れだろうか。しかし、ピントを合わせるのにコンマ2秒とかからなかったはずだ。ここに来た時無理を言ってアイは新調してきたというのに。


何もいなかった。

長官か?

走り寄るにも、執務室に入る頃には影の主は消えているかもしれない。それくらい素早く跡形もなかった。
この2か月根を詰め過ぎたのだろうか。白い制服に白い壁、白い床と、日常が漂白されたようで少々げんなりしていたのは本音だが。




桜は満開だった。それだけは妙に覚えている。









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