| 「ただいま」
静かにドアを開けてリビングに入る。返事はなかった。あれ、明かりはついてるのになと首を傾げたビルは、ふと目に入った光景に目を丸くした。
床に散らばっている画用紙と、同じく散乱する数本のクレヨン。その奥にあるソファのうえで、男児が一人タオルケットにくるまっている。男児の母親は膝のうえにクリップボードをのせて床に座り、ソファにのせた腕の上に頭をもたせて眠っていた。
リンが昼寝なんて珍しい。留守以外の理由で出迎えがなかったなど、同棲生活と結婚生活を通してはじめてだ。そんなことを思いつつ、ビルはとりあえずリンに自分の上着をかける。息子にだけタオルケットをかけて自分は放置するのだから、彼女は困ったものだ。今日は夕方に帰ってこれる日でよかった。
「ん……?」
気配と音に反応したのか、リンが身じろいだ。閉じていた目が開き、ぱちぱちと瞬く。横にしゃがみ込んだビルが「おはよう、リン」と微笑むと、きょとんとした。
「………えっ?!」
バッと勢いよく身体を起こすリンに、ビルが「静かに! アーサーが起きる!」と慌てる。リンはハッとして息子を見やったが、すぐに「アーサーには防音の結界を張ってるから大丈夫です」と言った。
すうすう眠る息子を一瞥して、ビルは「……あ、そう」とだけ返した。さすがである。その間にリンは、クリップボードを伏せて床に置き、ビルのほうに向き直って正座した。それから「ごめんなさい」と眉を下げる。
「あの、お絵かきしてるうちに、いつの間にか眠っちゃったみたいで」
「いいよ、リンだって疲れてるだろうし」
気にしてないとビルは笑うが、リンは恐縮しているようだった。妙なところでまじめな彼女のことだから、夫の帰宅を出迎えられなかったことを気にしているのかもしれない。日本にはそういう価値観もあるらしいし。ビルは苦笑した。
「俺的には、謝るよりさきに『おかえり』がほしいかな」
申し訳なさそうに見上げてくるリンに言う(上目遣いかわいいなあという心情は表に出さないよう気をつけた)。リンは瞬いたあと、ふわりと笑みを浮かべた。
「おかえりなさいませ」
「………」
ビルはとりあえず、無言で立ち上がりつつリンの腕を取って立たせ、彼女を思いきり抱きしめた。
「……ただいま、リン」
「あ、はい、おかえりなさい……あの、夕食の用意、」
「あと五分だけ。もうちょっとだけ補給したい」
「はぁ……」
何を補給するんだろう……。疑問に思いつつも、リンは、しばらくはビルの好きにさせようかと、大人しくされるがままになっていた。
きっかり五分後に、ビルはリンを解放した。彼女の頬にキスをひとつ落としてキッチンへと送り出し、それから息子の横へとしゃがみ込む。あどけない寝顔がたまらなくかわいいなどと思いつつ、散らばる画用紙とクレヨンを片づける。
ついでに画用紙に描かれているものを確認していく。箒、クアッフルらしき茶色の丸、ブラッジャーらしき黒い丸、スニッチらしき金色の丸、鳥、汽車っぽいもの、マグルの車と電車、棒人間が三つ……。
かわいいなと感想を抱いて、ローテーブルの上にある画用紙も回収する。今度はちゃんとした人が三つ描いてあった。一つは赤毛のポニーテールで、一つは黒髪のロング、もう一つは黒髪のショートの子どもだ。みんな笑顔で手をつないでいる。
ほんとかわいいなこいつ。ビルは画用紙を握りしめそうになる手を抑えた。空いている片手で口元を覆って俯き、肩を震わせる。この胸に湧き上がる衝撃をどうしたらいいのか。
意味のない咳払いをひとつして、落ち着いたビルは画用紙とクレヨンを整頓してテーブルに置いた。片づけ残しはないかと床へ視線を走らせ、ふとクリップボードに目を留める。リンが膝のうえにのせていたものだ。ということは、リンが何かを描いたのか。
好奇心に駆られて手を伸ばす。ひっくり返して絵を見たビルは目を丸くした。どこの油彩画だと言いたくなるほどのクオリティーの「お絵かき」だった。描かれているのは、膝のうえに抱えたアーサーと笑い合っているビルだ。
思わず硬直していたとき、リンが「ビル?」とキッチンからやってきた。そして、絵を見ているビルに気づいて硬直する。一拍おいて、その顔が赤くなった。
「え、な、ちょっ、え、なに、なに見て……っ!」
「リンは絵がうまいな」
「かっ、勝手に見ないでください……!」
おもしろいくらい動揺して、リンはビルから絵を奪った。お得意の超能力である。わたわたとどこかに絵を転送するリンに笑みを浮かべて、ビルは彼女へと歩み寄った。びくっと身体を跳ねさせたリンが後ずさる。
「いいじゃないか。リンだって勝手に俺を描いたんだから」
「う……、だ、だってアーサーが、」
「うん、何を描いてって頼まれたんだ?」
すばやくリンを追い詰めて、ビルは目を細めた。ふだんの姿からは考えられない様子で怯える(というか恥ずかしがる)リンは、見ていて実におもしろいし、かわいらしい。ビルの妻だと知っていてなお懸想する輩どもに自慢してやりたい。俺だったら、こんな顔もさせられるんだ。
名前を呼んで首を傾げれば、リンは視線をビルから逸らした。赤い顔で小さく「……い、いちばん好きな光景を描いて、って言われて」と呟く。そのあとも何やら言葉が続いたが、ビルの耳には届かなかった。
腕を伸ばしてリンに抱きつく。うれしさが伝わるように、ぎゅうぎゅうと。最初は目を丸くしていたリンだったが、やがて遠慮がちにビルの背中へと腕を回してきた。
「……あなたがいて、アーサーもいて、幸せです」
「俺もだよ。君と家族になれて、すっごくうれしい」
いったん少しだけ身体を離して、リンと目を合わせる。額をくっつけると、リンは恥ずかしそうに目を伏せてはにかんだ。ビルも頬を緩めて「幸せだな」と呟いた。
**あとがき** 雪梅様リクエスト“世界主で、ビルと結婚して子供が生まれたらどんな生活をしているか”でした。 ハリー ver. 同様、子どもの名前変換の有無で迷いました。固定の必要性はとくにありませんでしたが、結局固定に。変換画面に戻るのも煩わしいでしょうし。と言い訳。 ビルと「世界」主なら、無自覚に万年新婚夫婦になると思います。子どもも好きな良い親子だけど、やっぱり二人の世界をつくってしまう。主にビルが攻め(?)て「世界」主がたじろいで結局二人で甘く落ち着く。 基本ビルが優位だけど時折「世界」主のほうが優位になるとか。そんな感じだといいです。
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