「××先輩……! おはようございます! おかえりなさい!」



 笑顔で駆け寄ってきた後輩を見て、**は、自分の眉が微かに寄るのを感じた。



「………おはよう、ミスター・ディゴリー」



 素っ気ない口調と声調が、**の口から出た。だが、セドリック・ディゴリーは気にせず、「昨日までの長期任務、お疲れ様でした」と世間話を始める。

 適当に相槌を打ちながら、**は、エレベーターの扉が開くと同時に、さっと人を掻き分けて降り、スタスタと歩いていく。セドリックが、慌ててその後ろに続いた。


 **に話しかけ続けるセドリックの声を聞き流しつつ、廊下を進み、**は、自分の所属する部署の部屋へと入った。



 相変わらず雑多な部屋だと、**は思った。むしろ、自分が任務に出る前より散らかっている気がする。……ひょっとしたら、たった今、一気に散らかされたのかもしれないが。


 溜め息をついて、**は、すっと杖を取り出した。床にできている書類の海に、杖先を向ければ、書類が、バラバラと舞い上がって、机の上に積み重なった。



「……トンクスさん」


「や、やあ、**。おかえり」


「ええ、ただいま戻りました」



 綺麗になった床の上で、薄いピンク色の髪をした女性が、尻餅をついていた。ニンファドーラ・トンクス ――― **の先輩だ。特徴は、気分一つでガラリと変わる容姿と、天性のおっちょこちょいさだ。



「助かったよ。書類を取ろうとしたら、雪崩〔なだれ〕起こしちゃってさ」



 **が差し出した手を取って、トンクスがぼやいた。その髪が、さわさわと揺れて、薄いピンクから、赤っぽいピンク色に変わり始める。

 セドリックが目を丸くした。この光景を、まだ見慣れないらしい。**の方は、とっくに慣れているので、いつも通りの無表情だ。



「それにしても、よかったな。**はちゃんと帰ってきてくれて」



 再び書類に手を伸ばしながら、トンクスが言った。**は、さっとトンクスの前に腕を伸ばして彼女を制し、彼女の代わりに、目当ての書類を取り出す。


 薄い紙一枚をトンクスに差し出して、**は、静かに口を開いた。



「………どなたですか」


「……え?」


「殉職なさったのは、どなたかと、聞いてるんです」



 淡々とした口調で、しかし鋭い視線で、**は質問をした。空気が固まる。トンクスと、セドリックが、ゆっくりと表情を消し、口を閉じた。







 闇祓いというのは、魔法界の中でも最も危険な職業の一つだ。

 高収入だ超エリート街道だと、しばしば憧憬を集めるけれど、その魅力的な部分も、任務において、常に死と隣り合わせとなることの裏返しだと、みんな気づいているのだろうか。


 誰もいない、静まり返った仮眠室の中で、**は思った。


 そっと、手にしている写真を見下ろす。少し前に撮った、闇祓い本部の集合写真だ。セドリックが新しく入ってきたのを機に、全員で都合を合わせて撮影したもの。

 その中で、一番豪快に笑っている人。記念写真の言い出しっぺの人物が、皮肉にも、今回の任務で帰らぬ人となった。



「………先輩」



 **は、静かに瞬いた。顔を上げれば、仮眠室のドアのところに、セドリックが立っていた。


 いまの声は、彼が、自分に向けて出したものらしい。一瞬だけ、**は、自分が「先輩」に向けて呟いたのかと思った。



「………××先輩」



 今度のは、確実に、セドリックが出したものだった。妙に霞がかかったような思考の**にも、はっきりと分かった。



「……どうかした? ディゴリー」



 呼びにきた用件は何かと聞く。声は、自分で聞く限りだが、いつも通りのようで、**は安心した。セドリックの方は、眉を寄せていたけれど。



「……××先輩」


「…………」



 いつになく真剣な、どこか思い詰めたような表情。そんな顔で、静かに近づいてくる後輩に、**は首を傾げ、そのすぐあと、直観した。彼が、何をするつもりなのかを。

 頭の中で、ダメだと、誰かが叫ぶ。その声に従って、**は、彼を止めるべく口を開いた。だが、セドリックの方が早かった。


 **が気づいたときには、もう、セドリックの腕が**の頭を抱えていた。一瞬遅れて知覚した**は、焦った。

 密室のベッドの上で、男女で、この体勢は、やばい。いま誰かが入ってきたら、確実に誤解される。



「ディ、」


「僕は、××先輩が、好きです」



 **の声に被せる形で、セドリックが告白した。**は、まじめに固まった。同時に、観念を抱〔いだ〕いた。


 ――― 彼から、恋愛対象として慕われているのは、なんとなく気づいていた。あからさまに好意を向けられて、それに気づかないほど、**は鈍くない。先輩に対する憧憬程度のものに過ぎないのではと、そう思いたかったけれども。


 ああもう、なんで、いま、このタイミングで。


 渋面を浮かべる**の頭上で、セドリックが大きく息を吸い込んだ。



「好きです。たとえ先輩が、僕を避けていても。それでも、好きなんです」


「…………」



 **は、唇を引き結んだ。セドリックの言葉が、じわじわと、**の思考回路に浸食してくるような感覚がする。それを振り払おうと、**は目をきつく瞑った。


 しかし、そうすると、聴覚が鋭くなってしまうわけで。



「好きです……**先輩」


「…………、」


「……あなたが好きです、**さん」



 自分を閉じ込める腕に、さらに力が込められた。それを感じて、**は目を開け、そして顔を歪めた。



「………私、は……私たちは、闇祓いだ」


「……知ってます」


「いつ死ぬかも、分からない」


「…………」


「守れないことも……、人間を、傷つけることだって、ある」



 物理的にも、精神的にも。

 見殺しにしてしまったり、巻き込んでしまったりした人たちがいる。果たせなかった約束や想いがある。守るために、攻撃する。闇側の魔法使いや魔女だって、同じ人間のはずなのに。

 闇の魔女と自分、より汚れているのは、どちらの手か……ふとしたときに、**は、そんなことを考えてしまう。


 俯いて、ぎゅっと拳を握る。そんな**から、セドリックの身体が離れた。



「……それでも、あなたが好きです」



 **の手を包んで微笑むセドリックに、**は一瞬だけ呆然としたあと、再び顔を歪めた。


 なんて男だろう。

 闇祓いのくせに、能天気でまっすぐで。

 後輩のくせに、物知り顔で心を乱してきて。

 年下のくせに、包み込んでその気にさせて。




「………ばか」



 いろいろな想いを詰め込んだ言葉を吐いて、**は、彼の胸に頭を預けた。じんわりと、目頭が熱いのには、気づかないふりをした。


 セドリックが、**の手を離して、もう一度、彼女を抱きすくめる。**は、半ば自棄〔やけ〕になって、彼の背中に手を回した。大きな背中が、少しだけ憎い。



「………好きです、**さん」



 幸せそうな声音に、**は「そう」と素っ気ない相槌を打った。頭上で、セドリックが力を抜いて笑う気配がする。


 雰囲気とは裏腹にバクバク音を立てている、彼の心臓の音を聞きながら、**は指先に力を込めた。



「…………好きだよ、セドリック」



 認めよう。



 君に想われていると気づいたときから、無意識にも、君を意識していたんだ。
 


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