不死鳥の騎士団の本部は、シリウス曰く「ひどく陰鬱なところ」である。基本的に至るところどの時間帯でも薄暗い。地下にある厨房は、ことさら不気味な雰囲気を醸し出していて、清々しい早朝でも陰気だった。まあ、リンはあまり気にしないのだが。


 リンは珍しく欠伸をしながら、朝食の仕込みをするべく、真っ暗な階段を降りて厨房のドアを開けた。


「おはよう、リン。今日も早いね」


 瞬間、にっこり爽やかに微笑まれた。リンは吃驚して、ドアを開けた体勢で静止した。その間も、にこにこ、場にそぐわない無駄に爽やかな笑顔は絶えない。なんとなく、威圧されているような感覚。リンは溜め息をついて、身体の力を抜いた。


「……おはようございます、ビル」


 付け足すように「お早いですね」と言えば、ビルは「ちょっと仕事の都合でね」と肩を竦めた。淡々と「そうですか」と返し(無遠慮に深入りはしない)、リンは、ようやく厨房に足を踏み入れた。


「朝食は取られましたか?」


「リンがつくってくれるスクランブルエッグとベーコンの乗ったトーストと、ヨーグルトがかかったフルーツが食べたいな。あ、でもそのまえに、リンが淹れてくれるコーヒーが飲みたいかな」


「………」


 暗に調理しろと言っているのか、とか。なにげにリクエスト多いな、とか。思うことはたくさんあったが、すべて呑み込む。にこにこ微笑むビルのリクエストは拒みきれないことを、リンは知っている。


 零れ落ちそうになる溜め息も呑み込んで、リンは腕まくりをし、調理スペースへと向かう。そんな彼女の背中を、ビルは機嫌よく見送った。




「やっぱり、夫婦の食事はこんな感じがいいよなぁ」


 咀嚼したトーストを飲み込んで、ビルが言った。リンがビルに押し負けて、一緒に朝食を取っていたときのことである。彼の向かいでトーストを食べていたリンは、思わず固まった。


「夫が食事してる間、妻がキッチンで甲斐甲斐しく、ってのも悪くないけどさ。俺は断然、妻と向かい合って食事したいね」


「……いきなり何の話ですか?」


「ん? 俺の理想の夫婦像だよ」


 ……そうですか。曖昧な相槌が、リンの口から漏れる。はっきり言って、意味が分からない。無表情ながらに頭のなかで疑問符を飛ばすリンを見て、ビルは楽しそうに笑った。


「リンは? なにか理想の夫婦像あるかい?」


「………、きちんと家事を分担してくれる人、とか、ですかね」


 パッと思いつかなくて、しばらく迷った挙句、以前に伯父たちが言っていたことを口にする。男子たるもの、もっと妻を大切に。とかなんとか言っていた気がする。あれ、ちがったっけ。まぁいいや。


 だんだんテキトーになってきたリンに気づいているのかいないのか、ビルは瞬きを一つして、「そうか。じゃあ心がけないとな」と神妙な顔で呟いた。


「………」


 やっぱり意味が分からない。そのせいで、会話もつなげられない。どうしようか迷って、リンは苦しまぎれにトーストの残りを頬張った。


 リンがトーストを食べ終えたころ、ビルは食事自体を終えていた。相変わらず食べるの早いなぁと、リンはぼんやり思った。社会人というものは、そういうものなんだろうか。フルーツを口に運びながら、考える。ところで、ほかの人たちはまだ起きてこないのかな。


「リンって、疎いよな」


 唐突にビルが言った。最後の一口を咀嚼していたリンは瞬き、とりあえず飲み込んで、心のなかで「ごちそうさま」を呟く。それから、ビルに「なんですか、突然」と尋ねた。


 じっとリンの動作を見ていたビルは、質問を受けてちょいと首を傾げた。合わせて、笑みがその口元に浮かぶ。


「だって、リン、俺のアプローチに全然気づかないからさ」


「アプローチ?」


 リンは上の空で聞き返す。使用済みの食器を片づけようと、腰を浮かせたところだった。気づいたビルが、するりと杖を取り出して軽く振る。食器が浮かび上がって、流し台へと飛んでいった。スポンジが浮き上がり、ひとりでに洗浄を始める。


 仕事を失ったリンが、中途半端な体勢のまま固まる。迷ったのち結局立ち上がったリンの手に、不意にビルが触れた。いつの間にか、リンのすぐ近くまで来ていたらしい。


 そっと自然な流れで手をつないでくるビルに、リンは吃驚のち困惑した。いつもそうだが、ビルの考えは読めない。というか、リンの予想をはるかに超えたことを平然としてくる。だからリンは、彼と二人きりの時間が実は苦手だったりする。


 そろりと視線を彷徨わせる。すると、頬に温かさを感じた。ビルの片手がリンの頬を包んでいた。大きい手だな、なんて場違いに思う。耳の裏にまで指がきている。


「……やっぱり、直球で言わないと通じないか」


 溜め息混じりにビルが呟く。リンは瞬いた。ぱちり、ビルと目が合う。数秒見つめ合ったあと、ビルが柔らかく目を細め、穏やかに微笑んだ。


「好きだよ、リン」


 リンの思考が停止した。そのさまを見て、ビルはクスクス笑う。そして、さりげなくリンを自分のほうへと引き寄せた。数歩ぶん前へとよろめいて、リンはハッとした。


「あ、の、ビル」


「んー……もうちょっと密着したいな」


 もう一度、強めに引かれる。慌てて距離を取ろうとしたリンだったが、その力に負け、ビルの胸のなかに閉じ込められてしまった。囲うように両腕を回されて、腰のあたりで手を組まれる。逃げ場がない。


「ほんとはきつく抱きしめたいんだけど、そうするとリンは思考をショートさせちゃうからなぁ」


 ビルの声が頭上から降ってきた。いまの段階ですでにリンの思考はうまく回っていないのだが、ビルは気づいていないらしい。それとも、気づいたうえでスルーしているのか。


「好きだよ、リン。エジプトの墓が恋しいけど、君の近くにいられるならイギリスでの事務職も悪くないって思えるくらい、君に惹かれてる」


「……っ、ビル、」


「君と同じ学年って思うだけで、ロンが羨ましいくらいだ」


「は、離れ、」


「俺の知らないところでロンたちに見せる一面とか、ロンたちもまだ見てないような一面とか……リンのぜんぶを知りたいって思ってる」


「……っ、」


 やばい、頭パンクしそう。


 パニックに陥りながら、とりあえずリンは逃げ出したいと思った。問題は、ビルが離してくれないことだ。言っても聞いてくれないだろうし、物理的に引き剥がすのもむずかしい。超能力を使おうにも、こう密着していると下手に使えない。


 ぐるぐる考え込むリンを上から観察して、ビルは楽しそうに目を細めた。組んでいた手をほどいて、片腕でリンの腰を抱き、片手で黒髪を絡め取る。そのまま、リンの耳元に口を寄せた。


「……俺に惚れてよ、リン」


 ぴしり、硬直。その一瞬のち。


「 ――― っ」


 許容量を超えた。リンは声にならない悲鳴を上げて、ビルの腕のなかから飛び出す。するりと、ひどく易々と、ビルの腕はリンを解放した。しかし彼の目は、厨房をも走り去ったリンの後ろ姿を、しっかりと捕らえていたのだった。


「……これだけで真っ赤になるんだから、かわいいなあ、リンは」




**あとがき**

 ちか様リクエスト“世界主で、ビルに熱烈アタックされる甘ーいお話”でした。

 熱烈アタックされる、甘い話……に、なっているのでしょうか……。なんかちがうような気が……。見ようによっては、淡々と口説かれてるだけな気がします。sincere なりに精いっぱい甘く熱烈に口説いてもらったつもりなのですが。やっぱり恋愛ってむずかしいですね。

 とりあえず、ビルのイケメンさがうまく表現できているか、そこが不安です。ちか様のもつビル像とかけ離れていないよう、祈るばかりです。



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