やむにやまれぬ事情でエジプトからイギリスに戻ってきて早くも半年。エジプトが恋しかった時期もあったが、今やイギリスに来てよかったと思っている。特に第四金曜日は心からそう思う。

 廊下を歩きながら、ビルはふと視線を流した。**がフラーと壁際で立ち止まっている。手元の資料を指差しながら喋っているので仕事の指示だろう。目が合ったら嬉しいと思ったが、気づかれない。フラーと一緒だとやたら注目されるので、視線はすべて無視すると決めているのかもしれない。その他大勢の視線と自分の視線が一緒くたにされていると考えると複雑だ。しかし残念ながらビルと**は恋人ではない。せいぜい仲の良い同僚という立場。不満を言う筋合いがないので諦めることにした。

(……今日は第四金曜日だから、あとで会える)

 内心で自分を励まし、一つため息をついて、ビルは歩き出した。

 第四金曜日の仕事終わりは、**と二人で「漏れ鍋」へ飲みに行く。これでも残念ながら恋人ではない。あくまで同僚としてビルが誘って、そのとき来月もまた飲もうと誘って、翌月にまた次月の約束を取り付けて……要するにビルのしつこい、基、健気な努力である。**だって本気で嫌だったら杖を突きつけてでも断るはずなので、彼女に迷惑をかけているわけではない。きっと。

 心の中で誰にともなく言い訳をして、ビルは椅子から立ち上がった。もう終業時刻だ。事務作業は集中さえできればあっという間に時間が過ぎる。**のほうを見やると、他部署の社員らしき男と何やら話していた。仕事の話だろうか。それにしては**が困り顔に近い表情をしている。

「……あのさ」

「うおッ! なんだよ、ビル」

 隣席の同僚に声をかけるとなぜか大層驚かれた。彼曰くビルの声が不穏なまでに低かったせいらしいが、まあ置いておいて本題に入る。

「あいつ……あの二人、仕事の話をしてると思うかい?」

 ビルとしては男が彼女に絡んでいるようにしか見えないが、一応第三者の客観的見解も聞いておきたい。そんなビルの気持ちを察したのか、同僚は何やら乾いた苦笑を浮かべた。

「あー……うーん……まあ……」

 言おうかどうか迷った末、**がかなり困った顔をしているのにふと気がついて、心優しい同僚は迷いを断ち切った。

「昼過ぎに食事の誘いを断られてたから、食い下がってるんじゃないか?」

 相槌すらなく無言で歩き出したビルの背中を見送って、同僚はため息をついて帰り支度を整える。ビルのことだから修羅場にはならないだろうが、空気が悪くなる前に帰ろう。

 一方、**の背後から近づいていたビルは、男と目が合ったので微笑みかけた。男がヒュッと息を呑んで一歩下がる。双子の悪戯にガチギレしたときに浮かべる笑顔なので、その反応は至極当然である。あの双子ですら脊髄反射で謝るのだから、そこらのやわな男が平然としていられるわけがない。

 ビルを凝視したまま硬直する男を疑問に思ったのか、**の頭が動く。ビルは優しい笑顔に切り替えた。直後に**と目が合う。

「やあ、**。話してるところに割り込んでごめん。でも、そろそろ行かないと店が混むから」

 **が慌てて腕時計を見て、ビルを見上げて眉を下げる。彼女の口から謝罪の言葉が出る前にと、ビルは苦笑をこぼした。

「だけど、急ぎの仕事の話だったらそっちを優先しよう。俺に手伝えることがあれば協力するし」

「いえ、仕事の話ではないから大丈夫。では、予定があるので失礼します」

 後半は男に向けての言葉だった。男は口を開きかけたが、ビルと目が合った瞬間に口を閉じた。そっと視線をそらして曖昧に頷き、のろのろと去っていった。

(……勝った)

 何にとは言わないが。



「さっきの彼、本当によかった?」

 並んで歩きながら、迷った末にさりげなく探りを入れる。**は一拍分の沈黙ののち、ため息まじりの苦笑をこぼした。

「……うん。同じ問答を繰り返してたところだったから、助かった」

「クレームとかじゃないよな?」

「食事のお誘い」

「**はモテるな」

「……ビルにもそう見えた?」

 やけに凪いだ目と目が合って、ビルはドギッとした。ドキッではなく。そんな可愛らしいものじゃない。もっと……何というか、心臓に悪いやつ。頭と心の中がぐっちゃぐちゃになりつつ、曖昧な肯定を返す。**がそっと視線を外した。

「……ビルこそ、私とばかりで飽きないの?」

「全然。むしろ足りない」

「え。あ、そう……」

 丸くなった目がビルを見て、サッとそらされる。ビルは「うん」と返した。笑顔が引き攣っている自覚はある。脊髄反射の勢いで相槌を打ってしまった。がっついているような印象を与えたら嫌だなあ、なんてドキドキする。

 ふと後ろが気になって振り返る。人波の中、見覚えのある男を見つけて、ビルは目を細めた。隣の**を窺うと、何やら思案している様子ではあったが、あいつに気づいているわけではないようだった。適当にコースを変えて撒くべきか。考えていると、片手の小指に何かが触れた。反射的に視線を向ける。心臓が飛び跳ねた。

 **が自分の小指を握っている。かわいい。手を握るでもなく腕を絡めるでもなく、小指。シャイなんだろうか。かわいい。初めて恋人ができたガキみたいな感想しか出てこない。お前は何歳だと自分に問いたくなった。自分のほうから目で追って始まった恋はこれが初なので、実質初恋みたいなものか。ダメだ思考が馬鹿すぎる。しっかりしろ自分。

 内心グルグルしながら、そっと**の手を包み込むように握る。そっと横目で彼女を見下ろすと、目が合った。ゆらゆら揺れている目が、ビルをじっと見つめている。これは脈ありのはずだ。さりげなく道の端のほうに向かいながら、そっと恋人繋ぎに変えてみる。拒まれることもなく、むしろ握り返された。思わず反対側の手を固く握りしめる。ちょっと痛かったのできっと夢じゃない。

 人波の邪魔にならないように立ち止まって、手は繋いだまま向かい合う。空いている手でそっと**の頬に触れれば、静かに擦り寄ってきた。そっと背を屈めて顔を寄せる。鼻先同士が触れそうになったとき、**がそっと口を開いた。

「釣った魚に餌をやらない人だったら泣いちゃうから」

「大丈夫、俺すごく一途で愛情深いから」

 ふふ、と笑った**はやっぱり綺麗だ。なんて考えながら最後の距離を詰めた。

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 たまにはこんなビルを書きたいシリーズ。余裕たっぷりなビルももちろん大好きですが、こういう(語彙力が欠如したので表現できない)ビルも好き。
 ビル視点&ビルが色々考えすぎなせいで、夢主が全然しゃべらなかった…。普段と違う系統の女性にしたのも要因かもしれない。あとライバルすぐ退場しちゃった。だってビルがライバルとか、私が男だったらすぐ白旗上げて逃げる。勝てない。



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