荷物を抱えたまま出るのは難しそうだ。**は早々に見切りをつけ、まず暖炉から出ることにした。比較的段差の少ない部分を探して、トランクを引っ張り出しにかかる。ポンと肩を叩かれた。

「俺に任せて、下がってて」

 反射的に数歩後ずさりながら、視線を滑らせる。知らない人だった。赤毛のポニーテール、青い目。耳元で揺れる牙のようなもの。杖を一振りして、トランクを宙に浮かべて、床に置く。目が合った。にっこり微笑みかけられた。

「ロンの友達だろう? 俺はビル。一番上の兄さ」

 穏やかな青を見つめていると、不意に片手が温かくなった。見ると、彼と握手している。いつの間に、というかどういう流れだろう。わけが分からないまま、視線を上げる。小首を傾げている彼と目が合う。**は我に返った。

「すみません、あの、**です。お邪魔します。荷物、ありがとう」

 たどたどしい。自分でも分かった。今までで一番ひどい挨拶だ。気まずくて視線を外そうかと思ったとき、ぎゅっと手を握られた。心臓が跳ねる。

「隠れ穴へようこそ、**」

 楽しそうな顔を見て、時間が止まったような感覚になった。

**

 眠い。でも朝だし起きないと。眠いけど。閉じそうになる瞼と戦いながらキッチンに入って、キラキラ輝く人物を認識した瞬間回れ右をして廊下に出た。一気に目が覚めた。心臓がバクバクしている。そっと髪に触れて、手櫛で軽く整える。部屋で梳いてきたけど、一応。ついでに、隠れ穴に来てから肌身離さず持っているコンパクトミラーを出して、目視で確認する。寝癖、なし。頬に跡、なし。気を取り直して、いざ。

「……おはようございます」

 努めて何食わぬ顔を装う**に、モリーとビルが笑いをこらえる。羞恥に耐えかねて、**は足早にモリーに歩み寄った。毎度の如く手伝いを申し出るが、毎度の如く断られた。のんびりビルと話しながら待っていてほしいとのことだった。紅茶を受け取って、**はのろのろとテーブルに向かった。

 モリーとしては**に気を遣ってきっかけを与えているのだが、**としては困惑であった。遠目から見ているだけでも緊張するのに、一対一で会話なんて論外だ。自分がここまで臆病とは知らなかった。ハリーたちも大層驚いていた。ロンに至っては「君がシャイとか気持ち悪い」と言った。学校に戻ったら呪いをかけてやると心に決めている。

「俺の前、空いてるよ」

 テーブルにマグカップを置いた瞬間、声がした。周囲の音が消えるような感覚。恐る恐る視線を滑らせると、目が合った。身体が熱くなる。

「大丈夫、端っこが好きだから」

「ここも端っこだけどね」

「自分から見て右手前の端っこが好きだから」

 何を言ってるのか自分でも分からない。盛大に混乱しながら、ひとまず椅子に座る。これで席は確定だ。ホッとした瞬間、ビルが席を立った。こっちに歩いてきて、**の前にマグカップと新聞を置く。思わず立ち上がると、ビルが苦笑した。

「そんなに俺が嫌いかい?」

「嫌いじゃない。でも、前は無理。まだ隣のほうがマシ」

「じゃあ隣に行くよ」

「ごめんなさいやっぱり隣も無理。対角線上でいい。対角線上がいい」

「いいから、そこ座って」

「はい」

  有無を言わせない声音だった。並んで着席したところで、モリーが他の子どもたちを起こしてくるとキッチンを出ていった。なぜこのタイミングで。縋るように見つめたが振り返ってももらえず、二人きりで残された。ちなみにアーサーとパーシーはすでに家を出発しているので助け舟にはならない。

 ひとまず紅茶を一口飲む。まったく味が分からない。そして喉の渇きが一向に収まらない。あと心臓がうるさい。

「もうすぐ夏休みも終わりだな」

 身体が跳ねた。引き攣った声が出るのはなんとか堪えられたが、危うく紅茶がこぼれるところだった。**は「ハイ」と硬い声で返事をしながら、そーっとマグカップをテーブルに置く。ビルが小さく笑った気がした。気のせいだろう。きっと。

「何かやり残したこととかある?」

「ないよ。宿題は終わらせたし、学用品も揃えたし……」

「はは、違う違う、遊びの話。何か俺たちとしたいことある?」

「たくさん遊んでもらったから、大丈夫」

 ビルが参加したときは言わずもがな、ビルが傍観しているだけでも緊張してしまい、散々だった。チェスは連敗記録を更新したし、箒でのキャッチボールは凡ミスを連発したし、目隠し百味ビーンズは鼻クソ味ですら味が分からず飲み込んだ。もうこれ以上醜態を晒したくない。硬い表情をする**がおもしろいのか、ビルがクスクス笑いをしながら「そうか」と言った。そうです。もうそっとしておいて。苦い気持ちをどうにかできないかと、**はマグカップを口元へ運んだ。

「じゃあ、俺と踊る?」

 マグカップが前歯に激突した。嫌な振動を感じたが、それどころじゃない。

「お、オドル?」

「うん。俺と、**が。紅茶こぼれるぞ」

 マグカップを握る手が何かに包み込まれ、テーブルへと誘導された。マグカップが音を立てる。手は離れない。

「ドレスローブがいるってことは、ホグワーツでダンスパーティがあるってことだろう? 社交ダンス踊ったことあるかい?」

「ない」

「じゃあ教えてやるよ」

「ダメ」

「なんで?」

「……下手だから」

 ビルが瞬きをした。それからニッと笑って、**の顔を覗き込む。のけぞろうとしたが阻まれた。いつの間にか片腕が肩に回っていた。青い目が細められる。

「器用で要領のいい子が好きな人の前でだけ調子が狂うのは、下手じゃなくて可愛いって言うんだよ」

 マグカップを持つ手の甲が、優しく擦られる。

「あと少し何かがあったら落ちるかもしれない、って言ったら、勇気を出してみる気になるかい?」

 甘い声音と緩やかな笑み。**は気が遠くなった。夢なら醒めてほしい。

****
 たまにはこんなビルを書きたいシリーズ。なんて表現したらいいか分からないけど、あくまで恋になる一歩手前で、弟の友達止まりでも構わないし、落とされるのもやぶさかでないから、あくまで相手に委ねる形でけしかけてみる。みたいな。弄んでるわけでは断じてない。上手く説明できない。




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