(今日はたまたま、仕事がはやく終わったものだから、いつもよりはやく帰るよ。)

そんなのってすごくすてきで、一年に一回くらいそういうことがあってもいいと思うわたしであって、そういうのを期待して毎日毎日仕事をしてる。
特に出張とかは、なかなか予定してた期日内に仕事が終わることがなくって、正直ちょっとうんざりだったりする。
今もその面倒な出張中なんだけれど、わたしが先程から何かしらをほのめかしつつ語らせていただいていることにお気づきであろうか。


「本当に、もう任務、完了、ですかね」

「ん…。もう、大丈夫。…帰ろっか」

「は、はやく帰りましょう、凪さん」

「紅茶とかでも、お土産になるかな」

「そうですねえ…でもうち、紅茶よりコーヒーって人が圧倒的なんですよね…」

「じゃあわたしと葵用に…お土産…」

「いいですね、ついでにスコーンもいいなぁー」

「クリームそえたい…」


わたしと凪さんは、ふたりでイギリスに仕事にきていた。
それらしい観光なんてできないし、できたのはチンピラやらヤンキーやらに詳しくなることくらいだった。
だから、本当なら焼き菓子がおいしいお店にでもいってほっこりと語り合いたいところだったのに、それすらかなわなくって。
それでも、予定より早く仕事が片付いたために、こうして早めに帰ることができる。
ばんざい。
帰ったら存分に残りの仕事日数ぶんだらだらしたい。
たしかに調査資料とかをまとめなくちゃならないけれど、いつもは一日、二日ほどでやらなければならないところを、今回は五日もかけてできるから、もう。
…ばんざい。
早く帰りたい。
一旦フランスへ到着するのを辛抱強く待ち、それからすぐにイタリアへ。
我慢、もうすぐ帰れるから。
それが、わたしと凪さんの合言葉だった。

なぜこんなにも早く帰りたがっているかって、それはもう、早く会いたいからだ。
そう、それぞれに、会いたい人がいるものだから。
女二人旅の帰り道は、我慢我慢と言う割に早いものだ。
終始ひたすらに乙女の会話を繰り広げ、うわ、わたしたちもう二十代も半ばなのに、少女のようである。
いつの間にか越えた国境を窓越しに見送って、列車はかたこと揺れた。
なんだか、二人して微笑み合い、あたたかい気持ちやら恥ずかしい気持ちやらを抱える。

しばらくしてから到着して、荷物を引きずりながらあるともなしに存在する改札を抜けると、事前に連絡をいれておいてよこした迎えがするりと目の前にあらわれる。
運転手が草壁さんで、笑った。
今回の仕事は恭弥さんの下請けだったものだから、ボスたちはたぶん、わたしたちが今日帰ってくることを知らないのだろう。
もし知っていたら、もっとこう女友達関係で、ビアンキさんとかが来てもよさそうなものだから。


「お疲れ様です。おかえりなさい。」

「無事に、完了しました…」

「ずいぶんと早く終わりましたね」

「けっこう相手方がたいしたことなかったんです。」

「葵…、し、仕事は、真剣にやった」

「あ、わかっていますよ、凪さん。ありがとうございます。」


あははと笑いながらいると、再びするりと車が動く。
帰れるんだなぁ、なんて。
いつも仕事から、とくに出張から帰ってくるときは帰還がすごく嬉しいもので、わくわくしてしまう。
でも、今日はいつもよりもっとわくわくしている。

気持ちを察したのか、草壁さんががたがたの道をとばす。
舌を噛みそうになりながら、なんとか助手席のシートにしがみついていると、草壁さんがにこりとしたのがわかった。


「葵さんも凪さんも、今日は何の日か覚えていますか?」

「え?」

「…今日、ちょっと晴れてる」

「…何の話しですか?」

「恭さんが、お二人に浴衣を用意していましたよ。」

「ゆ、浴衣?」

「すてき。七夕に浴衣…憧れてた…かも」

「あ、た、七夕かあ…!…って、それまた了平さんが用意させたんじゃ…」

「お、お見通しでしたか」


情けなく笑いながら、草壁さんが頬をかく。
いい人だなぁって思う。
主人を大切にしているきがいがみてとれる。
それにしたって、あらまあ、浴衣。
今日はたまたま、仕事がはやく終わったものだから、いつもよりはやく帰ってみたら、なんていうプレゼント。
七夕に浴衣で、今日は晴れていて、いや、イタリアから今日という日にミルキーウェイが見られるかは知らないけれど。
七夕だなんて、いつも仕事仕事で見落としていた行事のひとつだったものだから、なんだかすべてがラッキーだと思える。
今日は、いい日だ!

草壁さんに見送られて恭弥さんのところへむかうと、不機嫌な彼が着物で座っていて、しかもその横壁には紺ときなりの浴衣がきちんとかけてあった。
とりあえずの報告書を渡すと、恭弥さんがため息をついてちょっとこちらを睨んだ。


「…ご苦労だったね」

「あ、い、いいえ」

「そんなに大変じゃなかった…」

「風呂でも入ってくれば。…着替えるといいよ」


不機嫌そうに顔をそらして、恭弥さんは言い終えると部屋を出て行ってしまった。


「…不機嫌、でしたね」

「ううん、照れ隠し…たぶん。ちょっとだけ、赤かった」

「う、ううううそ」

「お風呂行こう」

「あ、ハイ」


かぽーん、だなんて効果音は古めかしいだろうか、それでもたしかにひのきの浴槽からなる恭弥さんのところの風呂には、そのような効果音がぴたりと当てはまるだろう。
風呂っていうのはなんてすてきなんだろう。
イギリスでそれなりのシャワーはあびていたが、こう、風呂は違うのだ。
疲れて帰ってきて、血生臭い事実とかいろいろと、仕事の残像をじわりと溶かす、この湯舟がいいのだ。
爽やかな香りの入浴剤をいれたらしい湯舟につかると、なんとも泣きたくなるような気分になる。
そういえはむかし、七夕あたりの季節になると、お風呂に入れる入浴剤に夏限定のものがでたものだなぁと思い出す。
これで、風呂からあがって浴衣に着替えて、うちわでももって、花火なんかあがったらもう、日本の夏だ。
懐かしい気持ちに浸りながらいると、凪さんがにこりとする。


「葵はきなりのほうが似合うと思う…」

「わたしは凪さんには紺だなぁって思いましたよ」

「…もう、敬語なんて、いらないのに」

「え、あ、ああ、いえいえ!これでもくだけて話させてもらっていますよ!」

「年もそんなに変わらないのに」

「だ、だって凪さんは上司だもん」

「…じゃあ、前よりもっと、くだけて話して、」

「はい?」

「ほかの部下…たちより、もっと違うの、葵は」

「…えへへ。ありがとうございます。」

「…みんな、それは思っているよ。…みんな。」

「な、なんか照れますね。」

てへへ、なんて笑いながら、洗い髪に指を通す。
やわらかな髪からライチの香りがかすかにふわりと立ち上がった。
その様子をじぃっと見つめてから、凪さんはちょっと頬を染めて笑う。


「ボスが、そうだったから、みんな葵のこと、どんどんすきになってく」

「…、っな、なっにを、凪さ、」

「先にあがります、ね」

「あ、ちょ、」
逃げるように湯舟からあがっていってしまった凪さんの白い背中を、なんとも言えない気持ちで見送った。
…なんだか、凪さんは、全部見透かしてるみたいな人。
わたしの気持ちとか、心の大部分を占める存在を、彼女には全部知られちゃってるみたいなかんじがする。
だから急に、あんなこと言ったり、するんだ、もう。


「…ふぅー…」


気恥ずかしい気持ちと、急激に舞い戻ってきた、会いたい気持ちに、ぐるぐるする。
ふと、髪から甘い香りがして、くくっていた髪ゴムをするりととると、いっそう香りが立ち込める。
この香りのシャンプーはいったん部屋に戻ってわざわざとってきたもので、仕事の時とかは絶対使わないもの。
特別な日にしか使わない。
前に、仕事の話ししか交わしたことがなかったボスと唯一仕事以外の話しをしたとき、たしかアロマオイルを選んでいたときだったか、わたしに似合うって言ってくれた、香りのものだ。

(ボス。)

一瞬にして、ぼうと頭が茹で上がるみたいになって、ああわたし、もう重症なのかなあ、なんて。
ああ、でも凪さんだって、骸さんがすきな香りのシャンプーを使っているから、こういうところにおいてはおあいこだったりするので、にやける。
以前そういう話をしていた時、二人ともなんだかおかしなテンションになってしまって、わざわざ街まで買いにいったのだ。
思い出すとほほえましくなる。
いやちがう、にやにやしている場合じゃあない。
わたしもはやく出て、凪さんに浴衣を着せてあげなくっちゃ。


と、急いではみたものの、凪さんはすでに浴衣の着付けをしてもらっているようで、半乾きの髪をタオルにくるみながらあたふたしていたわたしは、拍子抜けしてしまうのであって。


「ビアンキさん…きていたのですか…!」

「あら葵。あなたも着せてあげるからその髪もうちょっとちゃんと乾かしてらっしゃい。」

「は、はい…!」

「ビアンキ…苦しい…」


ビアンキさんが恭弥さんの私有地に来るようなことがあるのか、などと思いながら、とにかく頷く。
今日はなんだか、恭弥さんのガードがゆるいような気がしなくもない。
いつもならボスと守護者の方々と、わたし含め幾人かの人以外はあまり出入りできないというか、出入りさせてもらえないというか。
ビアンキさんがここに来るのを初めて見たため、なんだか不思議な気分になってしまう。
もしかしたら、ハルさんや京子さんも来ているのだろうか。
毎年七夕の日にどういうことが行われているか知らないため確信は持てないけれど、たぶん今日ってみんな浴衣でも着てたりするんじゃあなかろうか。
ビアンキさんだって、髪をアップにしていたし。
あらあら、すてきな習慣だこと。
もしかしたら男性陣も浴衣とか。
恭弥さんも着物だったし、とはいうものの、彼はいつも敷地内では着物だが。

さっさと髪を乾かして、そろりとビアンキさんのところに戻ると、凪さんが既になんとも艶やかかつ清純な日本の乙女らしい姿になってちょこんと座っておられた。
なんと。


「か、かわいい!凪さん、やっぱり紺で大正解ですよ!」

「…ありがと…」

「ほら、葵もこっちに来なさい。」


あれよあれよと引き寄せられて、なんだかわからないうちにきゅうっと締め上げられたりしゅるりと巻き付けられたりなんだり。
長い髪を鮮やかな手つきで結い上げるその腕前はなかなかに、さすがです、ビアンキ姉様。
しかしビアンキさんはなぜこうも器用なのか、見習いたいものである。
凪さんのように小柄でも華奢でもないわたしのからだに浴衣を着付けさせると、なかなかに迫力ある絵になった。
鏡に映る自分を見つめると、思わず笑ってしまいたくなるくらいに、まあ、うん、すてきだ。すてきでした。
これはやはり浴衣がすてきだからそう見えるのであろう、あまりにきれいに見えてしまってすごく恥ずかしくなる。
凪さんの白い肌に紺地と白の浴衣が似合うように、わたしのすこし焼けた肌にはきなり地と淡い薄紅の柄がなかなかにはえる。


「あなたこれから綱吉に会いに行くんでしょう」

「えっ!?」

「いく、よね、葵」

「な、なにを、ふたりして」

「とびきり美しくしてあげるわ。あの安全牌が陥落するのが楽しみね。」

「び、ビアンキさ、」

「わたし、…先に行くね」

「骸なら自室じゃなくてテラスよ」

「あ、…ありがとう…」


もともと紅い頬をさらにぽっと紅くさせて、凪さんは下駄をひっつかんでから小走りで出て行った。
ちょっと、いつもと違うお化粧をしていただろうか、なんだかどきっとするかわいらしさがあった。


「あなたもメイクするわよ」

「えっ?い、いや、いいですよ、いつもしてないし」

「してない!?日焼け止めは!」

「あ、…め、めんどくさくて。」「あなた、美容なめるんじゃないわよ」


てへっと笑いながら言うと、ビアンキさんはひきつった笑顔を浮かべてわたしの両頬をぶにっとはさんだ。
いたいです、と言おうとしたものの、瞬間、ビアンキさんが悪い顔で笑うものだからなにも言えなくなる。


「いいわ、そうしたら、ますます手のかけがいがある」

「び、ビアンキさん…?」

「口を開いてると中も塗るわよ」

「!!」


ぞっとして口を閉じると、ぺたぺたといろいろ施されて、なんだか奇妙な気持ちになる。
仕事仕事の仕事人間なために、なかなかこういったことに気をつけようだとか思えなかったから、今まで肌の手入れはしていたけれど、どうせ落とす化粧などする必要がないと信じていた。
まあ実際には二十代も半ばになって化粧のひとつもできないのは、ちょっとした恥なのだけれど。
とにかく、今までパーティーのときすら唇にグロスを塗るくらいで済ませてしまっていたわたしであるから、こうしてばっちりと化粧をされると、まあ気恥ずかしいものである。
女の子として、きれいになりたいだとか、そういうことを考えたことがないわけではない。
とくにまあ、ボスの、こととかを考えると、そりゃあきれいになりたいとは思うわけだ。でもまさしく、いまさらである。
いまさらなにを頑張っても、仕事が終わるわけではないし、食べれもしないし。
あ、この考えがだめなのか。

目を閉じてーだとか、はい目線上ーだとか言われてもなにかピンとこなくて、言われるままにしているとあっという間に終わって、それが、いろいろ施されたはずなのに顔が重くないのだ。あ、当たり前か。
ごきげんのビアンキさんに促されて、恐る恐る、先程浴衣姿をみて感激したばかりの鏡の前に立つ。
薄目で鏡をのぞこうとしたら、ちょっと怒られたから思いきって目を開けると、はあ。
はあ、誰だろうかこれは。


「どう、美しいでしょう」

「はあ…」

「あなた、そのままでもずいぶんかわいいけど、メイクすると一段とすてきよ。とりあえず今度、一緒に化粧品でも買いに行きましょう」

「はあ…」

「気のない返事するんじゃないの。ホラ、行ってきなさい。」

「は…あ、い、行ってきます…!」


背中をばしんと叩かれて、よろりと踏み出す。
鏡のなかの人間は、しっとりと、人形のようであった。その人形が、鏡の中でよろりと動き出す。
ああ、なんということだろう、女とはこんなにも変貌する生き物なのか。


「さっきまで隼人とロビーにいたけど、もう移動しているかもしれないから、頑張って探しなさいな」

「あ、はい…!あああの、ビアンキさん、ありがとう!」

「はいはい。行ってらっしゃい」


にっこりと微笑んで手を振るビアンキさんは、大人の女性だ。


と、下駄をひっつかんでみかけない恭弥さんのかわりに草壁さんにお礼を言ってから、小走りで敷地をでる。
まずロビーに行ってみるのがいいだろうか。
ってわたし、なんだか口車にのせられているのか、素直にボスに会いに行くだなんて、いやいやそんな。
なにを考えているんだわたしは。
ボスに会いに行くのはまあ、仕事ならいつもすぐに会いに行くけれど、今は浴衣で、仕事はもう、はやく終わってしまったから帰ってきたわけだから、いまはオフ?
いつも仕事に追われていると、誰かと買い物にでも行かない限りオンとオフの区別が難しくなる。
いまがオフだとして、オフのいま、ボスに会いに行ってどうするのだろうか。
報告?は、恭弥さんからの仕事だったから、恭弥さんにもう報告してしまった。
帰ってきました、とか?
ああ、それはいいかもしれない。
早く帰ってきたことを恭弥さんがわざわざボスに報告しているとは考えにくい。
あ、でもだめだ、なんで帰還報告だけなのに浴衣。
浴衣姿をお披露目しにいくようなものではないか。
あれ?いいのか?それは許されるのか?問題はないのか?


頭の中がぐるぐるする。
とにかくなにがなんだかわからず、小走りに進み続けた。
庭先から屋敷に続く石畳に下駄のかかとを打ち付ける。
と、行く先の角に人影がかすめたものだから、少し減速してききぃっとストップすると、その人影の髪が明らかに、淡いはちみつの色にすけてみえて。


「!!」

「おっ、と」

「あ、」

「えっ、」

「あ…あの、た、ただいま、帰りまし、た…」

「お、…かえり」


こういうときばっかりは、運命だと思う。
ああはちみつ、ススキ色!
紛れもなくわたしの大好きな色。

はちあってしまうだなんて、なんていうことなんだろう。
もう、信じられないくらいに、瞬間的に心臓がどきりと跳ね上がった。
テンパって、本当に帰還報告をしてしまって後悔する。
わたし、なに言ってるのいきなり、しかも今たぶんすごく挙動不審。
でもなぜだか、目の前にいる、そう、わたしのボスはすごくほうけている。


「…びっ、くりしたあ…!おかえり、葵」

「あ、す、すみません。驚かせてしまって…!た、ただいま帰還致しました。」

「あはは、オフでも葵は口調がかたいなあ」

「オフ…?」

「あれ、仕事終わったんでしょ?」

「あ、は、はい。ボスは…?」

「あ、俺も今日はオフ。せっかく七夕だし、ほら、七がふたつでツナの日だし、なんて。」

「…ああ!」

「あはは。こんな日は仕事なんかしてらんないよなあ」


あらあら、ボスってばなんておちゃめな人なのかしら、なんて思いながら、やっと見ることができたボスの笑顔に、どきりとする。
そして更に、そんなすてきなボスは濃い山吹色の着流し姿でいることに気がついて、心臓の早さが加速した。
叫びだしたい気持ちをぐっと抑えて、なんとか横をむく。
なんて、すてきなんだろうか!!


「あれ、葵、化粧してる?」

「!!こ、これはビアンキさんが、その、」

「あはは、なんであわてるの!すごくきれいだよ。なんていうか、」


なんていうか、なんだろう。
軽い口調でもほめていただけたものだから、あ、嬉しい。という気持ちがふつふつと声を大にしてわたしの心を占拠していくのだけれど、そんなわたしの心とは逆に、ボスはしんと声をなくしてかたまってしまっていた。
なんていうか、…に、日本人形のようである、とか、だろうか。
髪が伸びる人形に見えていたらそれは、うん、ちょっとショックかもしれなかった。
およそ30秒程、あたたかな風の音が鼓膜を震わせる。


「あ、…あの…?」

「あっ、…いや、なんていうか、」

「な、なんていうか?」

「…ずるいなぁ。」

「え?」

「…きれいだよ、…すごく。」


リフレイン。
その照れたような紅い頬だとか、小さく、風に吹き飛ばされそうな声だとか、その風に乗ってこちらへ香った、ボスの、香りだとか、

(…っ!!)

どうにもならない気持ちが、からだいっぱいにせりあがってくる。
じりじりと、身もだえしたくなるくらいのこの切ない気持ちが、だんだんと頬を紅くしていくのが、手にとるようにわかった。


「今日、会えてラッキーだなあ」

「は、」

「こんなかわいい姿が見れるなんて」


横をむいて髪をかしかしとする、そのしぐさに、なんとも言えない気持ちになった。
今まで仕事をしていくなかで、たしかにわたしはボスの様々な表情をみてきたけれど、こんなにかわいらしい顔は、みたことがなかった。

あああ、どうしよう、好きだ。

今日、仕事がはやくおわって、はやく帰ってこれて、本当に良かったと思う。
今までにもこういうふうに、みんな仕事が残っていてもオフにしてきちゃって、浴衣でも着てたりしたのだろうか。
完全に仕事人間なわたしは、今までにこの日にこの屋敷にいたことがなくって、なにかと仕事仕事と飛び回っていたから、知らなかった。
毎年この時期には必ず凪さんと出張していたし、たぶん彼女も知らなかっただろう。
しかし、なんてことだ。
今日はたまたま仕事がはやく終わったから、はやく帰ってくることができて、そうしたらたまたま七夕で浴衣まで着せてもらえて、それに、こんな運命的にボスに会えてしまうだなんて、驚きだ。

織姫が彦星に会えたときは、こんな風に思うのだろうか。
彼女たちだって、一年に一度だけ、今日という日だけは、仕事をわすれて逢うことができるわけだし。
まあ、わたしは仕事上ならいつでもボスに会っているけれども。
それでも、オフで会ったら、それはもうプライベートだ。
うわあ。もう、わたしはなにを考えているのだか。でも、そのおかげでわたしはボスの紅い顔を見れたわけだから。
ああ、もう、今夜は、夢の中でもあなたに会いたい。
できたら夢の中だけでもあなたともっと、仕事以外の会話をしたい。


「ねぇ、なんかさ、こんなふうに話すの珍しいね」

「は、はい?」

「いや、俺も葵もさ、いっつも仕事のときしか話せないっていうか。今まででプライベートな会話したことってほんとに少ない気がするんだけど」

「あ、それは、思いました…」

「だよなあ。せっかくだからいろいろ話そうよ。聞きたいこといっぱいあったんだ」

「え、」

「幹部で敬語なの、葵くらいなんだよ?」

「…あ…」


にこりと笑うボス。
幹部だなんて、そんなのいつの間にかなっていた、みたいな役職であって、わたしは守護者の皆さんとかとは違う、ただの平凡な人間だ。
だからこそ凪さんにもボスにもそんなに馴れ馴れしくできないし、しようとも思わない。けれど、まわりの幹部たちがボスたちに敬語を使わなくて、たまにプライベートな用事でボスたちと行動していたのも、知っていた。


「…幹部でも、部下ですし、」

「関係ないよ。正一を見てみなって」

「い、入江さんはまたこう、違うじゃないですか…!お、同い年だし。わたしは年下、ですもの」

「葵はちゃんとした子なんだなあ、やっぱり。ファミリーの中で年を気にするなんて」

「だ、だって…」

「どうしたら敬語がなくなるかな。俺に近いとこにいたらそのうち必要なくなるかな?」

「そういう問題では…!」

「近い存在…幹部は仕事上のだし、だめだよね。あ、恋人とか?」

「…こ…!」

「え?」


庭に、ぬるい風がごうとふきぬける。
花びらが舞い上がって、乾燥した唇をさらりとかすめた。
ふたりして、ぽかんとした顔で、石畳に立ち尽くす。
遠くで水やりをしているらしい、しゃらしゃらという音がした。
午後も7時をすぎているとはいえ、まだ日は低い位置で照る。
すこし、汗をかいた。
そして先程、ボスは、何と言ったのであろうか。


「…こ、」

「こい、びと…」

「…〜〜〜っ」

「あ、ああああの、ごめん葵!な、なんていうか、口をついてでたっていうか、ごめん、」

「い、いいい、いえ」

「…でも、」

「…え?」

「…俺はソレ、いいなって思う、けど」

「え、…え…っ!」

「あーもう、なんでもない!なにか飲み物でもとりにいこ!みんな星みるのにテラスにいるから!」

「え、あ、え、」

「…ホラ」


手が差し出されて、その先に照れたようにちょっとだけ膨れ面をしたボスの横顔。
夕日のせいか、あかくみえてしまう。
そんなわたしも、もうどうしようもないくらいに、顔が真っ赤に染まってしまっているだろう。
色んな言葉が頭の真ん中で何度も何度も跳ね返って輝く。
なにもわからなくなって、小さく小さくはい、なんて言って手を、握った。
どうしようもなく嬉しいっていうことだけは、今のわたしにもわかった。

(どうしよう、)
(どうしよう、嬉しい)

なにが本当でなにが夢なんだろうか。
あれ、もしかして、全部本当だったりするのだろうか。
仕事がはやく終わったことも、はやく帰ってこれたことも、今日が七夕で、凪さんとひのきのお風呂に入って、髪はライチの香りで。
きなりの浴衣を着て、今は夕方で、ボスの手を、握っている、ということも。
全部、夢なんかじゃなくて本当なのだろうか。
夢だけでもボスとたくさん話したい、だなんて思っていた事実を思い出せるからこそ、ますますこれが夢なんじゃないかと思えてしまう。

でも、この手のあたたかさと、胸に踊るアツい気持ちは、確かに本当だった。



「あ、…その香り、やっぱり似合うよ。」

「!!」










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