オイミャコンの花


 僕は、僕自身が遠くへ行けないことを知っていた。だが、それでもいいと思っていた。遠くへ行くことだけが人生のすべてではない。しわくちゃになるまで踏まれても、日照りにしおれてもいいから、置かれた場所で花を咲かせることにだって十分に意義がある、はずだ。
 けれど彼女は――レイちゃんは、ものすごく遠くへ行ける人だった。気のおもむくまま、ふわふわと計画性のかけらもなく空気中を飛んでいるかのように見えるが、そのままとても遠くへ行くのだった。地面に花を咲かせることはしない。でも、小さな花びらが、飛んでいる彼女のつま先から地面へ、ひらひらと落ちていく。
 六月、ちょうど雨があがってすぐの朝、散歩の途中、ふたりで公園の東屋のベンチに座った。すぐそこの車道で、車が水溜りを蹴散らしたそのとき、レイちゃんは前触れなく「オイミャコン」と言った。
「ねえ、オイミャコンって、世界中で一番寒いとこなのに、夏はすっごく緑が映えるんだって」
「へえ」
「行ってみたいなあ」
 と、彼女は空を見上げた。僕はその横顔を見ていた。「行けるよ、きっと」
 その日から彼女は、緑が青々と茂る場所のことを、オイミャコンと呼ぶようになった。たとえば、あまり目につかない離れの裏にある雑草のたまり場のことはナチュラル=オイミャコンと呼んだし、華やかな花が咲く庭のことはロイヤル=オイミャコン、温室のことはハワイのオイミャコンと呼んだ。どうして彼女がオイミャコンのことを知ったのかはわからないが、レイちゃんは、すっかりオイミャコンの虜だった。自身の宝は必ずそこにあると言わんばかりに、輝いた目で、彼女は「オイミャコン」と発音するのだった。
 もう梅雨の明けたある日、館の二階の片隅にある静かな部屋で、僕らはお茶をしていた。開けた窓の向こうで、ロイヤル=オイミャコンの青いポプラが風に揺れている。
「あのさ、ハワイのオイミャコンって結局、ハワイなのオイミャコンなの」
「えー、と、イギリスってこと」
 何だよもう、と僕がわざと顔をしかめると、レイちゃんはいたずらぽく、んふと笑った。
「それでさ」僕は紅茶のカップを持ち上げた。紅茶にはパンジーの花が浮かんでいて、持ち上げるとわずかに水面を動いた。「どうしてそんなにオイミャコンにはまったの」
 レイちゃんは、髪を耳にかけた。「想像もつかないところだから、かな」
 そう言って、彼女はきりっとした目を細めた。窓からすうっと、湿った生ぬるい風が入ってきた。この湿った風に触れていながら、彼女は、オイミャコンに想いを馳せている。僕はその顔を見ていた。華やかで綺麗な顔だ。目に芯がある。ふわふわ、目の前のもの全てをとめどなく捉えているようで、ちがう。自分のことをよく知っていて、自分がどうやってみたいか、何が好きか、知ってる。僕はその目にどきっとした。いや、もっと、ずっと前から、どきどきしている。僕はその眼差しに惹かれている、ということは勿論だが、ぺらぺらの僕のことを彼女に見透かされているような気がして、ひどく、どきどきするのだ。
 そっとカップを置いて、僕は左手首をさすった。
「レイちゃん」
「何?」
「本当のオイミャコンに行くときは、」
 連れてってね、とか、置いてかないでね、とか、言うつもりだった。でも、「何?」とこっちに向けてくれた彼女の瞳が、まっすぐで、好きで、それでいて辛かった。
「行くときは、気をつけてね」
「もちろん」
 レイちゃんはにっこり笑った。ぬるんだ紅茶の上で、白いパンジーがぴたりと動きを止めた。オイミャコンの花は何色か、僕はきっと永遠に知りえないだろう。でもそれでもいいと思って、僕は紅茶を飲み干した。

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