PDoC11




「どうか許してください、どうかお救いください」

 深い深い海の底へ落ちていく。いや、海ともわからない水溜まりの中を。目の前がゆらめくのは、自分の息が形になって離れていくからというだけではない。波立っている。水面からどれほど離れたかも掴めない、だが、確かに蠢いていた。手を伸ばしても、自分が水面を向いているのか、海底を向いているのかはわからないのだから、杞憂である。ただ、時に自分の体すら流されていくような強い干渉だ。

「どうか許してください、どうかお救いください」

 三半規管が狂う。脳味噌が拒絶反応を起こす。両手を広げて、目を閉じた。まるでどこかの聖人のように。彼にとってはあまりに遠く、正反対で、無縁の存在。なるべく負担を減らしたかったのだが、大きな揺れだ。黒い波が彼を攫う。どこへ連れていくのかは、神のみぞ知る、のだろうか。

「どうか許してください、どうかお救いください」

 息が続かない。ここまで降りたのだから、肺が破裂寸前を訴えているのかもしれない。しかし、それ以外にも、何らかの力が彼の口を開かせんと圧を加えているような感じがした。今、唇を開けられたとしたら。圧力が増していく。血の気が引いた。どこからか肺の中身を掻き回す、何かがいる。

「どうか許してください、どうかお救いください」

 瞼の中で目を剥いて耐えていた彼もついに堪えきれず、目の前には、水を汚す白い大小の飛沫が通り過ぎて行った。がぼがぼ、彼の少量の体液と、吐息が、水と混じり合う音がする。それが妙に大きく耳に届いて、どれだけ自分が一生懸命だったのかと柄にもない感情に辟易とした。口に広がるのは、予想とは違う味だった。塩気もあるが、なんといっても、苦い…えもいわれぬ気味の悪さに、つい息を一際大きく漏らしてしまった。

「どうか許してください。どうかお救いください」

 祈りはどこから響くのだろう。遠くに聞こえていた、凛とした声。いつの間にか、息が触れるのではないかというほど、近づいてきている。正直に言えば、恐れをなしていた。怯えていた。自分以外の人間が近づいていることに。意を決して、目を開ける。

「どうか許してください、どうかお救いください」

 水は濁っていた。だが、終わりに到着したらしい。足元を見やれば、屈折した光が幾重にもなる境界が見えるのだ。落ちていたのではなく、引き上げられていたのか…喉を浸食する苦味を無理やりに気管へと下し、波に、体を委ねた。心地よい声が耳を触れる。

「どうか許してください、どうかお救いください」

 だから、考えもしなかった。水面下だというのに、なぜ人の声が聴きとれたのだろう。






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