fuzzy
旋風を受けて柄にもなく華奢でもないラビの身体はふらりと傾いた。
どう予測していたのか、黒い掌がラビの右二の腕をがっちり掴んで引きあげた。恐る恐る視線を上げれば憎ったらしいにやにや顔がラビを見下げている。
長い平坦な砂利道。
夜目が利く、とまではいかないが目性は長けたほうだった。おまけに歩き慣れた道のりだったお陰で、転倒間近だったなんて失態が気恥ずかしくてその手を無遠慮に振りほどいた。
乱暴にはらったのは左手だけだったのに、火花を避けるようにわざとらしく両手を挙げたティキは、余裕綽々みたいに肩を竦める。普段は温厚(自己分析)なラビでもそんなふうにされるとむかっぱらにくる。思いっきり顔を背けて急いで先を進んでやった。
それでも後ろ手からついてくる硬い足音と、綴るような笑い声。
風邪の音も遠く、家庭の匂いさえもない。ここは唯の長い道。終わりは決まっていない。
世界はまるで二人きりのようだ。
【fuzzy】
坂道、左道
夜中に蝶はやってきた。
高い塔の、沢山あるうちの一つ。ラビの部屋に。
任務明け、人の気配のなかった部屋は少しほこりくさい。密室を開放しようと深夜だろうと窓を開く。
きらきら、とそこにリンプンが舞い込んできた。見計らっているとしか思えないほどのタイミング。思わず笑いが零れる。それは、この蝶だけが知っている事実。
暫く緩やかな飛行に意識を奪われて、誘われるように小槌を伸ばす。
(いつも思うんさ、催眠術みたいだって)
誰にも言った事はない。そう、誰にも。ユウにも、リナリーにも、コムイにもリーバー班長にだって。ジェリーはよく色恋沙汰をふってくるけれど勿論言ったためしはない。
正体のわからない、まして明日AKUMAになるかもしれない人間を毎晩ホームまで迎えに来させて…いや、あいつが勝手に来るっちゃーくるんだ。そして迎えはこじゃれた蝶々…逢瀬を繰り返しているなんて、易々と公言出来る訳がない。
(ロミオとジュリエットごっこじゃあるまいし)
逢瀬は綺麗過ぎて癪なので、ただの散歩って事になっている。色っぽいものとは確かに無縁だったから。
教団を下るとすぐ静かな土地が広がっていた。小さな家々がぽつんぽつんと所在する、こじんまりとした田舎町。
心なしか閑散すぎて不安になるほどの町並みは、ホームではほぼ話題にならない。人間と好き好んで関わろうとする関係者は殆ど居ないということだ。
道端を遮る大樹や田園を囲う緑草。真っ赤なぼんぼんのあかつめ草。綿毛を追う紋白蝶。昼間の町をホームから覗けばそれは穏やかな空気だ。AKUMAの悪鬼の臭わない取り残された空間のように。
冷たい風がラビの頬に触れた。マフラーの先端が風で靡くとゆっくりそれを肩に掛けなおす。
何を見ても飴色がかかった視界。仰げばぽっかり白い月が空に上がっていた。
舗装されている事のほうが貴重な小道をずんずん先に進む。
後ろからはちゃんと気配を感じる。
砂利道の合間の土色をたまに遊びで跳ねるように蹴ったり、道を囲む農家の柵に絡む植木に手を伸ばしたりして誰もいない道を只管歩く。それだけ。
自分から振り向くのはどうも納得いかなくて声を掛けられるまでラビは空を仰いだりふっくらと咲いた自然の花を覗いたりを繰り返した。
コースはまちまちだ。でも、よく通る坂道があった。
緩やかな坂道はやはり舗装されておらず砂利がぶつぶつと浮き出ていて、でもラビはその環境が嫌いじゃなかった。
緩く、でも長い坂道だ。
双子の分かれた道を右にいくとその坂道にたどり着く。左に行ったこともあるがそっちには細い川が流れていて流れが緩やかな水面に星星のきらきらが反射して万華鏡のように美しかった。
ラビは、一度の記憶でその隅々まで忘れられなくなった。
そしてオレはもう此処にはこれないんだろうなあ、とぼんやりと再会を諦めた。
気後れしてしまった。綺麗過ぎて、言葉にならなかった。
散歩の同行者にそれを言った事実は無い。でも、彼がラビの前を歩く日でも、その双子道から左に曲がった事は、それ以来なかった。
ラビは右に曲がった。当然坂道が待っていた。知った道のりは足取りを軽くさせた。気づかれないほどの小さなステップを刻めるほどに。
突然、蝶がラビを追い越した。ふと、視線を奪われる。
(ティーズ)
きらきらぱらぱら、白い尾を引いて揚羽蝶がラビをからかう様に揺らめいた。火をつけられたラビの探究心が、無意識に蝶を捕まえようと追った。月にティースが隠れると改めて感じた月光の金剛とした眩しさに瞳孔が縮まり、とっさに目蓋を押さえた。
閃光に顔を背けて再び視界を広げれば、慣性は消えていて、慮外なことに足元を土に取られた。
あ、転ぶ、と受身を取ろうとした思った瞬間、
「バッカ」
肩に掛かると思われた重圧は見事空ぶって、後ろから腕を引かれたのだ。
「何、からかわれているんだよ」
黒い指がラビの白い腕に食い込む。ぼんやりと見上げれば二の腕を引くのは涼しい顔だった。
「餓鬼じゃあるまいし」
ティキは咽の奥で意地悪そうに笑う。大人びた仕種の似合う奴だ。というか、確かにこいつは大人だけど-餓鬼みたいだから直ぐに忘れてしまう。
ラビはティキのことを名前以外然程知らない。人間で、何時も何処かの社交界に行くような正装をしていて、肩には蝶を連れている。その蝶には名前があって、ちょっと学力のないポルトガル人らしい。それもそれは目の見える事実と推測が大半を占めていた。
職業は何なのか。どうしてラビにかまうのか。どうしてラビが帰ってくると、直ぐに現れるのか-それは、オレが部屋の窓を開けているからもあるのかもしれないけど-臆測の世界にトリップしては、きりがない。
呆然としているとティキは、ラビの心中知ってか知らず、再びクッと笑いを零した。
馬鹿にした笑い-此れを人は自意識過剰と言うのかも-に反応して覚醒したラビは勢いでその手を振り払った。
熱が幾らか高上する。
目を見るのに、決心が必要なほどに。
「うっさいさ」
ラビはホールドアップした相手に一瞥くれると大またで一歩踏み出た。距離をとらないと、見透かれてしまいそうだ。
滅多に触れない相手の肌は少し冷たくて、そして全てを掻っ攫ってしまいそうだった。中身を抉られるような、深い感覚。
知らない事が多すぎる。
でもそれが、不安にはならなかった。
それより、認めるのは癪だけれど、
(好奇心、)
動作の一つ一つが綺麗だとか、言葉の端から端がテンポ良いとかそんな程度の満足度だというのに、厭だ厭だと思いながらついてきている自分が居る。
友達なんて欲しがったことはない。ラビには大切な仲間がキチンと居て守りたい人たちが居て、それで十分だった。
なら、
(あんちゅうもさく)
答えがないものは、苦手だ。見知った坂道のはずなのに、突然迷子の境地に陥落する。
ズンズン進む足取りは心とは正反対で、不安だからこそラビは進んだ。
何処か行かないと、立ち止まっていたら飲み込まれてしまいそう。
既に何かの取り込まれている、それを何処かで理解しながら。
後ろから続く足音に、ごくりと生唾がおりた。
ラビはきっとカウントダウンを刻まれている。
「ラビ」
突然名前を呼ばれれば、泣きそうな顔でラビは振り向いた。
それを見てもティキは平然としている。もともとそういう奴なのだ。白状で無関心。本当にラビを気にいっているのかなんて定かじゃない。
淀んだまま。曖昧なものも苦手なのに。
「ラビ、こっちにおいで」
ティキは手を差し伸べた。夜に同化しそうな指先がラビを誘う。坂道の中腹で、それでも彼は大きく見えた。蝶々がふわりと天に舞い上がる。
星は存在している。なもにこの道は少しも明るくない。
答えがない等式をそのままにするのはラビの性分じゃないのに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
ラビから近づいていけなかった。腹が立って仕方なかった。でも、殴りにゆくことも出来ない。
動いて何かが変わってしまったら。
「ラビからおいで」
ティキはきっと、透視が出来るのだ。ラビの心を簡単に見透かすことが出来る。ラビの足は動かないのに無茶を言って外させようとする。
鍵を外そうとする。
ずっと閉めたままだった、閉じ込めていた名前を呼んで。
ティキは呆れたように肩をすくめた。
「気づけよ、いい加減」
声は不釣合いにも穏やかだった。
こいつはずるい。ラビに選択させようとして、答えを一つしか用意していない。
何に気づけって、とっくにしってるっつの。馬鹿にすんな。
気づいたのは所詮二秒前だけど、
今更言えって言うのかこのどぐされ野郎。
「好きなんだろ?」
綴るような笑いが滲んだ低い声に、ラビの身体は風もないのによろめいた、気がした。実際ラビは少しも傾いていなかったし、ティキは笑っていなかった。
淀むように曖昧な関係であった自分たちに終止符が打たれた瞬間、ラビの頭にはきらきら光る左道に進む自分たちだけが思い描かれていた。
〆