落花



 降出した雨が緩く歪んだシルクハットの傘に溜まる。不意にやってきて肩から裾からそれはどんどん染み込んでいった。不容易な侵略が、我が手に委ねられない唯一の瞬間だ。落とされるそれは神の粗相。




 この地方は雨が多い。季節柄、決まって夕暮れの数時間前、一・二時間のスコールが通り過ぎる。ティキは一週間ほどの滞在でその文句有りの迷惑さが身にしみていた。
だからといって、そんなことで簡単に予定を変えるわけでもなく。自分にとっては雨など気にも留める事情でもない。
 花屋の店先で、黒い装いに残る不快感にその場で拒絶を起そうかと身を翻そうとするが、店先を拝借していたせいで運悪く目敏い若い店員が現れた。
「傘を持ってらっしゃらないんですか」
 唇を淡い桃色で飾る女がブラウンの髪を揺らす。
「雨に、降られてしまったんですね」と、笑んだ。
「あぁ、初めて訪れたものでね」
 気安く話しかけられると其れなりの振る舞いで、口元を優雅な嘘で彩った。
 あしらう言葉を突きつけるほど無作法でもない。
 多分雨は十数分も掛らぬうちに止むだろうし。
「観光にいらっしゃったんですか?」
「あぁ」
「どこかにお付の方でも?」
「一人抜け出してきたもので」
「あら、それはタイミングが悪かったのね」
「しかし運が良い」
「濡れてらっしゃるけど?」
「綺麗な花が」
 ふと目についた水差しにたっていた花を一本手にとって、目を細めると値踏みしきったと謂わんばかりに光る女を目が会う。その眼球は欲望で酷く荒んでいた。可憐なはずのローズピンクもいやらしい色をしていた。
 指差した花の名前を女は言った。濃い橙色をしている。茎の部分には庇護的な棘が無残にも殺がれた痕があった。花の種類など、一つも知らない。もちろんこの花の名前も覚えられなかった。
「珍しい花なんですよ」
「あぁ、いい色をしている」
「新種なんです」
「通りで。見たことがなかった」 
 にこり、わざと目を合わせる。
「一つ頂くよ」
「ありがとうございます。こんな素敵な方に買われて花も喜んでますわ」
「スコールもたまには役に立つな、運命の出会いだ」
「あら…それは、花も冥利に付きますわね」
 装丁を施した花を一輪、差し出される。
 それを通り過ぎて、やわい手に、ティキは軽く口付けて、
「ありがとう」
 と。
 女の笑みは口元が歪んでいる。
 周囲はいつも、荒いつくりをしていて。
 花屋の外からかすかにぬるい風がふく。重たくて、灰色だ。けれども、どうやらスコールは止んだようだ。
 皮の手袋でポケットを探る振りをしてスカーフを生成すると、新品の布を滑る水滴を払った。
 注視されていた顔以外、不快だったロングトゥがやめらかなシューズ、モノトーンのロングコートまで全てを健全に生成しなおすとその土地の社交辞令を流し目に載せて八百長を吹きこみ、そのまま踝を返した。
(またいつか、安っぽい常套句)
 ブラウンの髪が残念そうに揺れる。最初から最後まで嘘に付き合ってくれて感謝はしている。
 スコールのあとは決まって雲が一旦引いた。合間に光の筋が漏れて、路面の水溜りをパレットにした。
 ふと目蓋を閉じると、花がゆらゆらとゆれ視界に入る。
 いつも、頭の中をよぎる色がある。
 光の中に吸い込まれてゆくので手を伸ばし、追いかけて肩を掴み、そのまま腕に収めようとすると、激しい雨がふったかのように目の前にはカーテンが引かれて、そのまま消えてしまう、イメージ。
 橙は、彼を思い出される。誰かの手から渡った、花からも思い出す。
 雨が、押し寄せるようにして訪れる。
 いつも突然。でも、それは自分のせいなのだ。
 それはスコールによってやってきて、スコールが奪ってゆく思考。
 嘘に埋もれてしまえばよかった。この気持ちを正面から受け止めるには重すぎて。
 手中の橙の花は無意識な力にいつしか折れていた。
 先端の花弁は路端に散っていった。堕ち切ると、腐食したようにそれは朽ちた静脈から落ちたような紅の雪になっていた。
 所詮、まがい物でしかなかったのだと、今更におもう。
 結局ラビは、此処にいない。いちいち空気に左右されているなんて。
「ハハ。とんだロマンチストだな、オレも」
 汚濁の混じった道端の上に落ちた花瓶を踏みつけて、遠のく雨足を追うようにティキは歩き出した。

『こんな風に思い出してはいたたまれなくなるなんて、お前は笑うかな』


終わり







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