irony

 柄を握りこむ掌の温度は爛れてしまいそうなほど。






 顎を持ち上げて、空を見た。煌めくほどの晴天が隻眼を突き刺して、ラビの瞼は刺激から保護をしようとゆっくりと閉じ合わさる。
 昔は蒼く深い空が随分好きだった。風が舞うたびに、ラビを連れ去ってくれる、なんていかにも子供染みた仮想に心弾んだものだ。風は神の使い魔で、いつしか白い雲の向こうにあるネバーランドに運んでくれる。子供ながらの幼稚な夢。ラビが知識を得る前だったからこそ、こんな豊かな妄想ができた。
 槌を手にした瞬間、茶利な夢物語は小さな完結を迎えたのだけれど。
 それでも、あの頃、真実はもっと違うところにあると思った。妄信に近い切実さで仰いでいたのだ。あの時期が一番幸せだったと、今なら昔の自分を抱きしめることができる。
 だってそうだろ。
 誰がこんなに浅ましくなる自分を予想できた。想像できた。理想でもないのに。純粋さのかけらも無い自分が、愛しい透明さを大事に出来ないわけがない。
 ラビは、一つ覚えに繰り返す夜への願望にリアルを垣間見ては、自嘲を零すしかない。
 身近にないからこそ、空想できる自分が空しくて。





 望んでいるものは、何。

 紡ぐ言葉の数は、ラビの知る中で一番上辺だけだ。
 あるものとえいば、現実的な欲求のみ。
 そういえば、出会いはどうだっただろう。
(・・・あれ)
 ふと、ラビは固まる。
 物覚えのいいはずなのに、ひっかかりもしない不鮮明な過去に思わず跳ね起きた。
 ズキンと、記憶の一部が軋んだ気がする。首を預けていた枕が一緒にバウンドして静かに落ちた。
 任務を終えて家-ホーム-に帰宅して一時間。夕日が遠くの地平線に落ちかけていた。昼間の抗戦が今頃になってラビの体にのしかかっていた。ボロボロの団服から未だ着替えることもままならない。
 擦り切れた硬質な布の間からラビの肌が所々見え隠れしている。いい加減居心地が悪いと思うものの、中々腰が上がらない。
 はあ、とため息が落ちれば、摩り替えていた不透明な問題が再び過って、気持ちが散漫になる。じわじわと、背中を上がってくる、望まない冷たさ。
 振り切ろうと思えば幾らでもできた。中途半端は性分ではないけれど、苛立たしい気持ちを引きずることは迷惑で有害だと自己催眠さえすれば難しくない。
 次第に暗がりの広がる自室。夜が顔を覗かせようとしている。だからこんな事ばかり考えているのかもしれない。
それが、現実だった。心と体が遊離している。動かぬものに反して浮き立つ心。
任務先で迎える夜もあれば、家で向かえる夜もある。世界は昼と夜に分けられていて、何処にしても夜の訪れは定説だった。
でも、一つ一つの時間に意味があるように、辛抱できない夜がある。それが問題なのだ。
 悶々とした螺旋がラビの中で蠢いていた。
 条件が揃った夜が来るせいだ。
 待ち望んでいたのは、この夜だった。好きだったはずの蒼い空がじれったくて仕方が無かった時点でわかってはいたはずなのに。
 受け入れるために、ラビは捨てなければならないものが多すぎた。
 明白なまでに、捨てられないものが大半を占めていた。
 だから、自分を捨てればいい。流れに身を委ねても不変なほどに。そう奮い立たせてラビは脱いだ団服を広げてクロスに指を這わせる。
 誓っている。・・・誓って、いたんだ。
 ラインを引くことが出来る自分に自信があった。
 なのに、


(真夜中が来る……)


 次第に世界は暮夜が過ぎ、月が清濁な色をかもし出す。
 無意識に、瞼の裏にはアイツの顔が浮かんでいて、ラビは這い上がってくる不安定さに背筋が凍りそうになる。
 辛抱が出来ずに投げ置いたままだったマフラーを掴んで握りしめ、拳をベットに突きつけた。
 矢も盾も堪らない感覚が自分の中に生きている。
 まぎれもない。

(後悔に満ちているはず、なのに)

 鍵を閉めることが出来ずにいた窓が、高層な家に当て身してくる突風に、バタンッと悲鳴を上げた。ラビの視線は自然其方に向く。
 ゆっくりと、冷たい夜が入り込んでくる。
 ラビが受け入れられないけれど、望んでいた夜。
 我慢出来なくて、締め切ろうと窓に近づけば、ぶわっとまた一つ大きな風がラビの身体目掛けて吹き荒れた。
 思わず目を瞑って、気流がやむのを待ってから窺うようにそろりと瞼をあげる。
 期待を裏切らないほど、痛い。
心臓が跳ねあがった。
 
何処から現れたのだろう。
一瞬でくしゃりと、映像が歪んだ。


 小さな蝶がひらりと、優雅に身を翻して、ラビを惹きつけていた。
 
 
 威喝でもなく、示威でもなければ、それははっきりとした言葉で示された約束でもなかった。
 でも、駆り立てられる。
 悔悟と契りを押しのけて。
 何を望んでいるのだろう。そんなことわからないままだ。
 アイツが誰かさえもわからない。アイツが何をしたいのかさえわからない。
 それでも、名前を呼びたくなってしまう。
 救われないとわかっているのに。 




「伸」 

 一つ弱く呟いて。


 伸伸伸伸伸伸伸---…


 言い訳のように繰り返した小さな言葉はごめんなさいでも明確なさようならでもなくて、欲望でまみれた呪文だった。
 緊張と不安、高揚感と緊張感、それと期待。荒れ狂う感情を抑えて、断続するべきとわかっているのに。
 思念に描かれた光景が誰かのものになるのではないかという悲願に、耐え切れなくて、会いに行く自分しか許せなくなっている。


 何時まで嘘を突き通せばいいのだろう。
 神に、仲間に、自分に。アイツに対しての真実は全て嘘だ。
 あぁ、これはきっと裏切りに近い。ラビの心は叫んでいるのだから。
 此れを裏切りと定義したことが、もう裏切りなのだ。
 
 出会いさえも罪ならば、
 言葉一つでてこない。



 風を受けても揺らがない身体が、思い出されたアイツの慫慂で簡単に挫けそうになる。

『おいで』

 遠くから呼び声がする。何処も彼処もくしゃくしゃに歪んでいて、心臓が動くたびに握りなおす小槌を持った掌はじっとり汗をかいていた。









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