晴れた夜空を指差した | ナノ


 日差しが眩しい。
 うだるような、とはまた違う蒸し暑さの中に少しだけ湿った匂いが混ざっている。雨が降るかもしれない。
 なるべく早めに用事を済ませようと普段は近寄りもしない大きな木造の建物、弓道場の扉に手をかけ、引いた。

「失礼しまーす、金久保いるかー?」

 シン、とした室内には誰もいない。おや、と思いながら頭を掻いた。

「…天野先輩?」

 敬称付きで呼ばれた。
 横を見るとバケツと新品らしき雑巾を持った宮地がいた。
 ナイスタイミング。





 古典のテストで酷い点数を取ってしまった。
 毎度(中間と期末試験)赤点すれすれで担当教師が半泣きしているのは知っているが、まさか中間試験前の前座で瀕死になるとは誰が思っただろう。
 結論的に俺のような残念な奴に対する措置としての救済テストに躓いた俺は、追試を受けざるをえない結果となった。

「んで金久保のノートでも借りてみよーかと」

「ノートですか?」

「俺のノート真っ白だから」

 言った瞬間、宮地の眉間に皺が寄る。
 注意するか、先輩にあまり口煩く言うべきではないから抑えるべきか。
 そんな葛藤をしているに違いない。上下関係なんか気にしないでいいのにと思う。

「おーい宮地ー、持ってきたぞー」

「やるんならさっさとやろうぜー」

「ああ、そうだな」

 宮地の後ろを見ると胴着を着た男子が三人いて、全員がバケツと雑巾を持っていた。

「大掃除でもすんのか?」

「はい、もうすぐ夏の大会向けて練習が本格的になるのでその前に」

「じゃあ今日は忙しいのか」

「そうですね。…部長なら職員室に寄られてから来るそうなので待たれてはどうですか?」

 待たせてもらおうかと思っていたからありがたい申し出だったが、大掃除している横で携帯いじりつつ突っ立っているのもなあ、と思った。

「んじゃお言葉に甘えて待たせてもらうわ」

 思っただけだ。



キュッキュッキュッキュッ

カコカコカコカコ

ダダダダダダダダッ

カチカチカチカチ

 雑巾を持って床を磨いたり、小さいホウキで隙間のゴミを掻き出したり。
 とにかく真面目に掃除している弓道部員達の邪魔にならない位置でひたすら携帯をイジる俺。
 いやホント汗みず垂らしている部員たちには大変悪いなあ、とかは思ってはいる。ホント。
 ぼんやりと携帯のキーを押しつつ弓道場の入口を見る。
 金久保が来る気配はまったくない。
 待っているだけとはいえさすがに面倒になってきた。
 と、いきなり凄まじい足音が響いて俺の目の前の床を白い塊が通っていった。
 視線をその塊、部員であろう男子に向けると、そいつの斜め後ろを同じように高速で駆ける…いや雑巾掛けをする男子がいきなり「負けてなるものかああ」と叫びだした。

「おー」

 なんという体力使い果たす勝負。
 そいつらは端まで行くと見事なターンをして再び雑巾掛けを始めた。
 まさかの往復勝負…だと?

ズダダダダダダダッ

「うおおおっ」

「うおりゃあああっ」

ズダダダダダダダキキーッ

 すごい音がした。
 黙ってそれを見ていると、眼鏡をかけた方が胸を張り「俺の勝ちだな…」と言ってニヒルな笑みを浮かべた。
 対して勝負していたパーマの方は「くそおお…!!」と本気で悔しそうに肩を落とす。
 なんという無駄試合。

「お前たち何をしている!?」

 そこに鬼の形相をした宮地が怒鳴りつつやってきた。わかりやすいくらいに怒っている。

「いやーやっぱ雑巾掛け勝負は王道だろー」

「そうだそうだー」

「お前らは…っ」わなわなと肩が震える宮地の姿に噴火前の火山を想像する。

「神聖な弓道場をなんだと思ってる!!弓を持て!その根性を叩き直してやるっ!!」

 噴火した。
 ヤンチャをした二人は顔を引き攣らせながら「そりゃねぇぜーっ!?」と叫ぶ。
 周囲を取り囲む部員達は慣れた様子だから、日常茶飯事なのだろう。

「お願いしま…天野?」

 声がして入口を見れば、キョトンとした顔をする金久保がいた。

「よう旦那、待ってた」

「意味わからないけど…どうかした?」

 その言葉を待っていた。
 宮地にしたのと同じ説明をして「ノート貸してください」と言うと、金久保は仕方ないというか、困った奴めという目で俺を見た。

「いいけど…ちゃんと勉強しないと意味ないからね」

「耳に痛い」

 真顔で言うと苦笑された。いいけどな、慣れたし。

「部長!部長からも言ってやってください!!」

「ぶちょー助けてー!!」

「宮地がああっ」

「ほらほら三人とも落ち着いて。お客様もいるんだから取り乱したら駄目だよ」

「え?俺?」

 そんなの初耳だ。
 びっくりする俺を無視して金久保は平然と「さあ続きをしようか」と言うと再び出入り口に向かう。

「僕は用事があるからまた出て来るよ。宮地君みんなをお願いね」

「はい」

「天野、行こうか」

 爽やかに笑って促してきた。頷いて宮地に向かって手をあげる。

「世話んなったな」

「いえ、こちらこそ見苦しいものを」

「気にしてないし。あ、そうだ。そこの天パ」

 指を差して呼ぶと驚いたらしく、え、とか、俺?、とかを連呼する。

「な、なんスか?」

「や、下の袴が」

「はかま…がぁ?!」

 次の瞬間、声が裏返る。
 そいつの穿いている袴の腰部分が緩んでいて、かりに走ったりしたら脱げてしまいそうなことになっていたからだ。

「ぎゃああっ!」

「だはははっ白鳥だせー!!」

「んだとぉ!?犬飼!お前も同じ目に合わせてやるうっ!」

「どわああ来んな!」

「やめてください先輩た…わああ何で僕を巻き込むんですかぁっ」

「俺ら一心同体だろぉ!」

「違いますぅ!!」

「お前らいい加減にしろ!!」

 カオスだ。
 騒ぐ四人に何だか見てるこっちが疲れてくる。
 横を見れば金久保がお腹をさすりつつ、眉を寄せて苦笑していた。

「俺、弓道ってもっと静かなもんだと思ってたぁ」

 そう正直に漏らせば金久保が声を出して「あいたた」と腹を押さえる。
 こいついつか胃に穴開くな、と本気で思った。




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