逆さ十字の行く末
十字架を背負った悪魔の断末魔だけが闇夜を切り裂いた。その声の主の姿はもう見えない。暗い暗い深淵の中に吸い込まれてしまった。
今頃は、どうなっているだろうか。
柘榴の如く頭が割れているかもしれない。
有り得ぬ方向に手足を曲げているかもしれない。
地面に叩きつけられ、散り散りにもげてしまっているかもしれない。
色々な想像を膨らますことができる中、セシリアは崖の端まで歩み寄り、深い底を覗き込んだ。
「どうしよう、私……、私……」
力なく膝から崩れ落ち、地べたに座り込むセシリア。
親を殺した仇とはいえ、一人の人間を死に追いやってしまったことに対する罪悪感に彼女は押しつぶされそうだった。
―――人を殺してしまった。私は人殺しだ。
頭を抱え、自分の中に潜んでいた非道さに恐怖する彼女に亡霊は静かに語りかける。
「いいえ、殺したのは貴方ではありません。僕のほうです」
「でも、私が突き落としたせいで」
「貴方は自分の身を守ろうとしただけです。自己防衛の為にとった行動が奇しくも、あのような形になってしまった」
「でも、殺したことには変わりないのでは……」
「少なからずはあるでしょうね。ただ、私情に関係なく、目の前に死の淵に立たされた者を見捨てたことのほうがよっぽど罪深い」
彼は彼女の言葉を否定していく。
殺したのは彼女ではなく、自分だと。確かに、事の発端を辿れば、セシリアが神父を解いたのがきっかけだ。だが、彼は彼女にそう思わせたくなかった。
優しすぎる彼女の性格を誰よりも知っていたから。
この出来事をきっかけにこの先、罪悪感に苛まれながら生きていく彼女を見たくなかったから。それに誰よりも彼女のことを愛していたから。
「―――魔法使いさんも、あの人に殺されていたんですね」
深い谷底を見つめながら、ぽつりぽつりと続けていく。
「実は私の親も彼に殺されているです。私をここまで育てたのも生贄として使うためだと。でも……、私、神父さまのことを心から憎むことができないんです。親の仇のはずなのに、私を殺そうとしたのに、魔法使いさんを殺したのに、心の底から憎たらしく思えないんです」
これでは、彼の愚業を肯定しているようなものだとセシリアは悔しくて唇を噛み締めた。
だが、一方で生贄に使う目的とはいえ、男手一つで自分を育ててくれた彼には感謝の念があった。何か良い行いをした際に見せるあの優しげなあの笑顔が嘘だったとは思えない。いや、信じたくなかった。
だからこそ、憎しみを見出せば、彼の死を快く受け入れることができる。もういっそのこと恨みで埋めつくしてしまえば、楽になる。そんな気がしたのだ。
どうすれば憎めるかと半狂乱になりながら縋り付くセシリアに亡霊は「そんなことを考えてはいけない」と忠告した。
答えを知りたかった彼女は期待はずれの返事に烈火のごとく、「あなたも彼に殺されたんだから、憎むのは当然なことでしょう?!」と荒々しい口調で反抗する。
「ええ、確かに。僕は彼に命を奪われました。培ってきた沢山の幸せを一瞬にして奪われたんですから。見届けるはずだったまだ見ぬ幸せまでも盗まれてしまったんですから。当初は恨みましたよ。何がなんでも、この男を絶対に殺してやると」
「じゃあ、なんで止めようとするの」
「虚しいからです」
「虚しい……?」
「憎しみって、貴方が想像している以上に孤独で苦しいものなんです。初めはどう殺してやろうかとかどんな目に遭わせてやろうかと感情のまま、ひたすらに考えていました。でも、ふとあるとき、気がつくんです。自分の中に“憎悪”しか残っていないことに」
「……」
「命を奪われ、未来を幸せを失われ、今度は感情すらも。気を がついたときには、負の感情しか残っていない。空っぽ。何もかも。これほど虚しく孤独なものはありませんよ」