ばら撒かれた種

―――どうして神父さまが。

セシリアはいるはずのない人物の登場に目を見開かずにはいられなかった。喉の奥で言葉を詰まらせる彼女に神父はそれをわかっているかのように冷たい視線を浴びせた。


「ごめんなさい。言いつけを破ってしまって。だけど、私―――」
「だけどだと。約束を破っておきながら、言い訳をしようと言うのか?」
「いいえ、と言ったら、嘘になるのかもしれません。神父さまのおっしゃる通り、言い訳なってしまうのかもしれません。だけど、だけど、私は……。どうしても教会裏の墓地にいるあの人に会いたくて仕方がなかったんです」


直向きに自分の心のうちを神父に告げる。
あれほど神父の言葉に従順であった彼女をここまで変えてしまったのは、墓地の亡霊に会いたい。一緒にいたいという強い思いだろう。
いや、もっと曖昧なものなのかもしれない。雛鳥が親鳥を追いかけるのと同じように、遺伝子に組み込まれた何かが自然とそうさせているのかもしれない。

そしてセシリアの口から出た、教会裏の墓地という言葉。その言葉を聞いた途端、神父の頭の中に浮かび上がったのは紛れもなく、あの晩に殺した人魚の男。

奴を連想させる言葉を耳にするだけで気がどうかしてしまいそうだと恨みも込め、目の前の彼女をひどく睨み込む神父。
それを見て、思わず後退りをするセシリア。
氷柱のような鋭い瞳を引き金に、脳裏に焼きついた幼い頃の記憶が炙り文字のごとく現れ、鮮明になっていく。

この目。この声。この雰囲気―――。
ああ、間違いない。打たれる。殴られる。


「そうか。お前はそんなにあの男に会いたいのだな」


反射的に瞼を閉じ、身構える彼女に降り注いだのは予想外の言葉であった。
ランタンの灯りに照らされた神父の顔は先ほどとは打って変わり、天使像のごとく慈愛に満ちており、彼女にかけられる言葉はどれもこれも穏やかな音色をしている。


「あの人のことをご存知なのですか?」
「勿論だとも。よく覚えている。忘れたくても忘れられない。それはそれは、もう……嫌というほどにな!」

冷徹な性格をした彼からは想像もつかない声の荒げ具合にセシリアは肩を飛びつかせた。そして、彼は低く静かな声でこう続けた。


「殺すのにあんなに苦労した奴はあの男が初めてだった」


―――神父さまがあの人を殺した……?

セシリアは神父の告白にたちまち頭の中が白ペンキで塗りたくたれていくような感覚を覚えた。
あまりにも刺激的で衝撃的な告白に言葉を失うどころか、思考さえも回らずにいる彼女に神父は吐き捨てるかのようにあの晩のことをこと細やかに説明していく。

自身が隣村の領主の家の者であること。新興宗教の人間であること。そして、人身御供のために多くの娘を殺してきたことも。


「本当にしぶとい奴だったよ。だから、昔、幼いお前が墓場で奴を見たと私に話したときは納得したよ。執念深そうな顔をしていたしな」


あの晩のことを昨晩のことのように愉快そうに語る神父。その姿にセシリアは絶望した。

―――あれほどまでに熱心に人の命の尊さ、大切さを教えてくれたのは全て嘘だったというの……?それに神父さまがあの人を殺しただなんて、そんな……そんなことって……。

どうか、嘘だと言ってほしい。
苦い表情を浮かべる彼女にさらに追い討ちをかけるかのように神父の皮を被った異常な男は口元に弧を描く。


「それに対して、お前の母ときたら、呆気なく死んでくれたよ」
「……!」
「あぁ、なんて最高なんだ。そう。その顔だよ、セシリア!もっと近くで見せてくれ」


まともな人間の所業とは思えない異常性を孕んだ男は彼女の髪を掴み、乱暴に引き寄せた。そして、舐め回すかのように絶望でまみれた顔を堪能するのであった。
セシリアは抵抗することすらできないほど心が疲弊していた。今まで親代わりに育ててくれた神父が神父ではなく、ただの悪魔であったこと。そして、自分の母親を殺害したこと。幼い頃から慕っている亡霊の彼を殺していたこと。

息をする間もなく、怒涛に降り掛かってきた告白に悲しみやら怒りといった感情すらも涙すらも忘れていた。
ただ、胸の中を占めるのは、無味無臭、無色透明の虚無だけ。


「では、なんで……、なんで……、殺した人の子供である私を育ててくれたのですか」
「そんなもの一つに決まっておろう。お前を生贄にするためだ」


もしかしたら、そこに情があったのかもしれない。愛があったのかもしれない。だが、そんなセシリアの淡い期待をも男は容赦なく踏み潰す。


「全てこの日のために決まっておろう。混血とはいえ、今まで捧げてきた娘と比べたら、血も肉も美味に違いない。きっと、主もお気に召してくれるはずだ」
「どうか正気に戻ってください!お気を確かに……!」
「正気?やっとこの日を迎えることができたんだ!正気でいられる方がおかしい」


きっと何かの間違いだとセシリアはこの場に及んでまでそう思い込んでいた。いや、そう信じたかったのかもしれない。だが、そんな悲痛な願いも声もこの男には届くことなかった。

逃げられぬようにとセシリアを真下に崖が広がっている丘の先端に追い詰めたのち、彼女の白くて細い手首を後ろで固定する。そして、手配しておいた馬車がある方へと足を運ぼうとした途端、彼の中でふと下劣な考えが思い浮かんだ。


―――そうだ。どうせなら、奴の前で殺してやるとしよう。墓地からよく見えるこの場所で。絶望感に打ちひしがれ、死を恐れ苦しむ姿を見せてやろうじゃないか。そして、顔を歪めてくれ。あの晩、女を守りきれなかったときと同じように。今度は娘が死にゆく姿をそこで眺めているがいい。助けようにも助けられないだろう。なぜなら、お前はそこから出られないのだから。


男は俯き加減にほくそ笑むと、墓地に向かって目を細めた。そして、抵抗もできずにいる彼女の首に手をかけ、僅かに伸びた爪がその皮膚に食い込んだときだった。


「こんな夜更けにお散歩ですか?神父さま?」


背後から聞こえたその声に聞き覚えがあった。

―――この声、この空気、まさか。

顔を青くしながら、視線を向けた先には、人当たりの良さそうな微笑みを浮かべた男が。目を丸める神父。そう。それは紛れもなく、彼があの晩に殺した人物であった。


「魔法使いさん……?」
「こんばんは。今日は月がとても綺麗ですね、おかげで貴方の姿がよく見える」


穏やかな口調で話しかける一方で、彼女の首に絡みついていたはずの神父の手をがっしりと掴み上げている。
ミシミシと骨が軋む勢いで手首を掴まれた神父は奥歯を噛み締め、小さく唸り声を上げた。
だが、亡霊はそんな彼の苦渋な顔を気にかけることはない。


「お久しぶりですね、こうしてお話しするのは十四年ぶりでしょうか」
「な、何故、外にいる……!亡霊のお前はこの墓地から出られないはずだ」
「おや、いつ僕がここから出られないと言いましたか」


「そんなことを言った覚えはありませんが」と少し考えるような仕草をしてから、挑発的に目を細める。小馬鹿にするかのような嘲笑うかのような目に神父の中でグワっと怒りが爪を立てた。そして、亡霊の手を振り払うとギロリと睨み込んだ。


「目的はなんだ。私に復讐しにでも来たか」
「聞き捨ての悪い。そんなことは考えておりませんよ。僕はただ彼女を見に来ただけなので」
「はっ、安心しろ。そんな心配事もすぐに必要なくなる。なんせ、そいつはもうすぐ死ぬのだから」


地の底から響くような声と狂気にまみれた瞳をセシリアに向ける。
セシリアはその悍ましい表情に怯みながらも、じぃっと見つめていると、神父の顔がころりと人が変わったかのように元の優しい顔になる。


「セシリア、よくお聞きなさい。主に身を捧げることが聖職者としての一番の務めなのだよ。そんな立派なことを成し遂げて、死ねるのだ。それに……」


同一人物とは思えないほどの変貌ぶりにセシリアは何が本物で何が偽物か判らなかった。
ぐるぐると思考を回しているや否や、神父に腕を引き寄せられ、捕らわれてしまう。
手加減無しの力で手首を後ろで掴まれ、表情を歪める彼女にお構いなしと言った様子で、神父は囁く。


「―――それに、霊魂となってしまえば、お前が好きなその男とも永遠にいられる。こんなに名誉で尚且つ、素晴らしい話はないと思うんだがな。だから、その身を、血を、捧げてくれないか?主のために、私のために。そして、お前自身のためにも」


―――神父さまの言う通り。私はこれまで聖職者になるために過ごしてきた。お祈りだって、聖書だって読んできた。教会の人間に相応しい、人々に安らぎを与えられる存在になれるように毎日毎日、頑張ってきた。生贄になることが聖職者としての一番の務めだというのであれば、これが目指すべき目的地なのでは?それに、死んでしまえば……。死んで、亡霊となってしまえば、魔法使いさんと一緒にいられる。なら、今ここでその道を選んだとしても……。


後悔なんて、どこにもない。


耳元で囁かれる甘美な撫で声にセシリアは陶酔状態に陥っていた。うつらうつらとした表情で神父の言葉を呑み込もうもしたそのとき、亡霊の口から、「シエラ」と呼ぶ声が。
聞いたこともない、全く知らない名前のはずなのに妙に懐かしいその言葉が不思議とスッと耳に馴染んで仕方ない。そのはっきりと凛とした声に、セシリアはハッと我に帰る。


―――もう、神父さまは私の知っている神父さまじゃないんだ。この人はただの人殺し。いや、最初から人殺しだったんだ。


受け入れようにも受け入れなかった現実をようやく受け入れ、僅かに残っていた力を振り絞り、首元にかけられた手を掴み、振りほどこうと試みる。
初めて見せた彼女の反抗的な態度に神父は、ハッと目を見開いた。


―――まさかこんな馬鹿なことがあるものか。自分の言葉以外には従わぬように従順な供物として育て上げたはずなのに。やはり、この娘にも野蛮な血が流れておったか。


とはいえ、所詮はただの小娘だ。どうせすぐに力尽きるだろうとみくびった次の瞬間、想定外の出来事が起こってしまった。
彼の手を振り解いてしまったのだ。加えて、その反動で神父は体勢を崩し、よろけ、崖へと足を滑らせてしまった。

だが、かろうじて、寸前のところで崖の先端に手をかけたことで、落下の危機は免れた。ただし、足元は地につくことなく、宙に浮き、命綱であるその両腕がいつまでもつのかも時間の問題。


彼はセシリアに引き上げるよう言ったが、彼女はびくとも動こうとしない。それどころか、ただ黙って、氷のような冷淡な眼差しで見下ろしている。


「悪魔なのは、あなたの方」


親を殺し、自分を散々痛めつけ、騙し続けた彼に向かって、それだけを放っと、ゆっくりと去っていく。
神父はセシリア目を見た途端、記憶の奥底に沈んでいたあの晩の光景を思い出した。あの晩、殺した男。今では亡霊となった彼女の父親が向けた目と同じだと。
そして、この娘は供物でもセシリアでもなく、シエラなのだと。

入れ替わるよう現れた亡霊が神父の元へと歩み寄ると、血の通っていない、冷ややかな瞳で見下ろす。
そして、今まで犯してきた罪を認め、告白するというのであれば命は助けると彼なりに慈悲をかけた。だが、自尊心の高い男が彼の提案など聞き入れることなどなく、この場に及んでも牙を剥いた。


「……それが貴方の答えなのですね」


と言って、亡霊は男の指を踏み躙る。
自ら、救いの手を跳ね除けておきながら、情けなく喘ぎ、歪んだ表情を見せる男の顎を指でくいと上げ、鼻でせせら笑う。


「どれほど月日が経てども、本当に救いようのないクズだ」


靴を退けられたとはいえ、感覚を失った指先はもう使い物にはならない。呆れ果て、冷笑する彼の姿を瞳に写したまま、男は事切れた。



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