「あー、こんなところにいたぁ」

伸ばされた語尾に砕けた口調。ゾクゾクと背中を這い上がる感覚に研ぎ込まれた体は反射的に全身の毛が逆撫でしていくのを感じた。

ガクガクと首を後ろに……いや、上に上げた先には、こちらをはなまる満点の笑顔でこちらを見下ろす、フロイド先輩の姿があった。


「せ、先輩……」
「なあに、そんな嬉しそうな顔しちゃって。超ウケる。まだ、遊んであげてないのにさあ」
「遊ぶ、ですか……。あの、先輩のおっしゃられるそれは、どちらかというと遊ぶというよりかは、いじめると言った方が妥当かと思うので―――」
「なんか言った?」
「いえ、なんでもないで……っ!」


咄嗟に否定しようと、取り繕おうとした途端、両頬をぐいと掴まれ、言葉が遮られる。


なんてことをするんだといくら先輩といえども許せないと地味に痛いぞと目で訴えてみるが、先輩は、めっちゃ伸びるーと笑いながら、引き伸ばしたり、縮ませたりとするものだから、意味がない。全く聞く耳持たずと言った様子だ。


うぬぬ、人をオモチャだと思って、この人は……!
あと少しは力加減ってものを覚えろって……!


なんていうことは、言えるはずもなく、惨めにも引き伸ばされていく両頬。心の中で先輩に対する不満を叫んでやれば、なんとも清々しい気分。

これを現実でやれれば、どれほど気分の良いことやら。
まあ、そんなことをしてしまったら、後が怖いのは百も承知なんだけれども。


「なあに?何か言いたそうな顔してるねえ。言いたいことがあるなら、さっさと言えば?」
「い、いえ!何も」


殺される。言ったら間違いなく殺される。
今目の前の先輩に命を握られていることに、毛穴という毛穴から脂汗がブワッと溢れ出てくるような感覚に見舞われ、焦燥感に駆り立たれる。


「うわ、めっちゃ汗出てんじゃん。キモ」
「あ、はは……。汗っかきなもんですから」
「へー、なんだか食べ甲斐がありそうで美味しそう」
「いやあ、美味しいだなんて……」


いや、なら、何でさっき、キモいって言ったんすか。


「絞めたらもっと出てきそうじゃん。ねえ、ちょっとだけギュッとしてみてもいい?」
「はい?!」


一口試食いいすか?みたいなノリで言わないでくださいよ!
とんでもなく恐ろしいことを言い出したぞ、この先輩は。

「どうなのかって聞いてんの。いいの?タラタラと汗流す暇あるんだったら、さっさと答えろよ」

ドスの効いた低い声が耳に注がれる。途端に腹の底から何かが這い上がるような、ぞわりとした感覚が喉元まで襲って来て、身震いする。

神様、これは罰なのでしょうか。
私は前世で、一体全体、どんな大罪を犯したのでしょうか。

と、神様に問いかけてみるが、当然ながら返事はなく、タラタラと汗が流れ出るのと同じように時間が過ぎていく。

目の前にはたいそう機嫌の悪そうな顔をした先輩。眼光は刃物の如く鋭く、瞳孔はギラギラと開いている。

何だっけ。ええっと、そう。海のギャング。この前、フロイド先輩のことを誰かが、そう呼んでいたのを思い出したが、まさにそれだ。なんて、呑気なことを考えている場合じゃない。今、自分はこの海のギャングに命の蝋燭を折られかけているのだ。


「そんなに伸ばしたら、マンタのようになってしまいますよ」
「あ、ジェイド」


もう、無理だ。そう思った途端、救世主の声がした。


「ジェイド先輩!」


待ちに待った救いが来たと、私を拘束してくる腕からするりと抜け、ジェイド先輩の後ろへと隠れれば、穏やかな笑顔を向けられる。彼はフロイド先輩の双子の兄弟で副寮長でもある。
物腰が柔らかく、紳士的でまるで王子様のような人で、困ったことがあると、よく親切にしてもらっている頼れる先輩だ。
対するフロイド先輩は「あ、逃げられた」と舌打ちまじりの不機嫌そうな声を上げ、眉をひそめた。


締めていいかと聞かれて、「はい、喜んで!」と答える人がどこにいるというのだろう。まあ、世の中色んな人がいるから、中にはいるのかもしれないけれど、一般的に考えて、自ら恐ろしい目に逢いに行こうだなんてする人はまずいない。少なくとも私は。


「またフランさんを追いかけ回していたのですか?あまり、困らせてはいけまけんよ」
「別に困らせてないよ。抱き締めていいか聞いていただけだって。ねえ、そうだよねぇ?」
「ああ……まあ、そう……」


肯定もしたくない。だが、否定すればどんな結末が待っているだろうか。怖くなった私は間を取り、あやふやな返事をせざるを得なかった。が、先輩は言葉を濁す私の返答が引っ掛かったようで、「さっさと答えろよ」と両頬を掴み伸ばされる。
両頬が痛いのはもちろんだが、何より首が痛い。
高身長でいらっしゃるものだから、こうやって見上げながら、話をしているのだが、首が痛くて痛くて仕方ない。


「なんかぁ、ヒラメちゃんと話すようになってから、スゲェ首が疲れるんだよね。なんでだろ」


大げさに首を回したり、揉むフロイド先輩に私のメンタルはグサッと音を立て切り裂かれた。
物事をどストレートに言う先輩にしては珍しく周りくどい言い方をしてきたが、つまりは、「お前はチビだ」というニュアンスが含まれているのだろう。

そりゃあ、人並外れた身長の持ち主からしてら、たとえ平均身長はあったとしても、小さく見えるでしょうね。あまりそういうことは言わないでくださいよ……と思っているや矢先、今度はジェイド先輩が口を開いた。


「奇遇ですね。僕も最近首の痛みが酷くて」
「へぇー、ジェイドも?」


グサグサっと今度は胸を切り裂く音。
ジェイド先輩……!優しい先輩はそんなことを言わないと思っていたのに!うううっ……と見えない涙を飲む。
やはり、兄弟。血を分けただけあるのだろうか。


「金魚ちゃんのときも疲れるんだけどねー。ヒラメちゃんはもーっと疲れる」


先輩には海の生き物に因んだあだ名をつけるという変わった癖がある。例えば、錬金術の担当であるクルーウェル先生。いつも白と黒のストライプのコートを着ていることから、イシダイ先生。幼馴染みのリドルくんは怒ると顔が赤くなることから、金魚ちゃん。

そして、私の場合はヒラメ。
消しゴムを落としてしまい、床を這って探しているところを偶然先輩に見られ、「ヒラメみたい」と一言。以来、ヒラメちゃんと呼ばれている始末。

といった具合に、適当にあだ名をつけている訳ではないはしい。だが、何と言えば良いのだろう……つけられるとしたら、もう少し良い名前が良かった(普通に呼んでもらうのが一番だけど)。


「ねえ〜、まだぁ?ギュッとしていいかダメなのかさっさと答えてよ」
「その話題、まだ続いてたんですか?!」


世界中で一番苦手な人



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