幸福を感じる瞬間とはおやすみと共に床に就くとき。
布団に挟まれながら微睡みの渓谷へ落下するとき。
これらは疲れた。眠りたい。といった遺伝子に埋め込まれた欲望から生じるものなのかもしれない。
だが、眠る。いや、“夢”というのは不思議なもので、ソレを見ている間はどんなことも忘れられる。
その日、あった嫌なことや辛かったこと。もちろん、楽しいことだって。
まるで現実世界とは切り離され、別世界の自分として生きていられるような。それこそ、夢から醒めなければそのまま生きていけるような気がしてならない。そうすれば辛いこと悲しいことだらけの現実から逃げられるような気がして、何度朝が来ないでと願ったことか。
だけど、そんな私の願望を嘲笑うが如く夜は明けるのだが、それまでの僅かな時間が私にとっては心が安らぐひとときなのだ。
では、面倒だと感じる瞬間とは何だろう。
私なら、水曜日の午後。一息入れようとインスタントコーヒーを淹れている最中に来客を知らせるベルが鳴ったとき。
その客が胡散臭い笑みを浮かべる青年だったとき。
そして、その青年が背の高く、坂の上にある天下の名門校の制服を着て……なんだって?随分と具体的で鮮明だって?そりゃあ、そうだ。だって、現に起こってしまっているのだもの。
◆◇◆
「……うげ、出た」
「人聞きの悪い。まるで幽霊を見たような。または、苦手な人物と出会したかのような言いようですね」
「後者の喩え、間違っていないよって言ったら?」
「なんと。貴方の目に僕がそんな風に映っているとは。悲しい限りです」
しょんぼりと擬音語を口にしながら、眉を下げる彼。
今時小学生でも使わないようなリアクションに深い溜息が自ずと口から漏れた。そんなこと微塵も思っていないだろうに。冗談も大概にして欲しいもんだ。
彼の名前はジェイド・リーチ。
丘の上にある魔法士育成学校・ナイトレイブンカレッジに通う生徒で去年の秋くらいからこの花屋に出入りしている常連客であり苦手な人物でもある。
ちょうど、去年の今頃だっただろうか。
夏の暑さも和らぎ、過ごしやすくなってきた頃のこと。来月に実施される祭りに向けて、カボチャの苗を手入れを入念に施しているとき、突然背後から声をかけられた。
でも、初めてのような気がしなかった。どこか懐かしい。記憶の片隅に置いてあった埃をかぶった何かが鮮明に蘇ってくるような。そんなモヤモヤをよそに振り返った途端、私は思わず自分の目を疑った。
空に聳える背丈。ターコイズブルーの柔らかな髪。色は違えども先を見据えたような凛とした目つき。ゆったりと結ばれた穏やかな口元。落ち着いた立ち振る舞いに、こう思わずにはいられなかった。
死んだ恋人が戻って来た、と。
彼は本当に素敵な人だった。名家の出というのにも拘らず、決して威張り散らすことなく、誰にでも礼儀正しく、優しく、芯の通った考えの持ち主で。私には勿体ないくらいに素敵な人だった。
だけど、神様のいうのは欲張りなもので、多才な人ほど摘み取ってしまう。彼が渡航中に乗っていた船が沈み、命を落としたのだ。忘れもしない十七年前のこと。
会いたくて会いたくて。一日たりとも忘れたことのなかったその姿を前に私は懐かしいあの名前を呼びそうになってしまった。が、その時、幸いなことにも私の中にある理性が感情的な衝動を抑え込んでくれた。“そんなはずがないだろう。彼はもうこの世にはいないんだ”。“死んだんだよ”と。
話が脱線してしまったが、目の前の男子高校生との出会いは実に危険なものであった。出会ったばかりの未成年。
しかも、名門校の男子高校生に抱きつくなんて、とんでもない行為だ。今頃、新聞に吊し上げられていたかもしれないと考えるとゾッとする。全く、他人の空似にもほどがある。しかも、名前までも一緒だと知ったときは神様っていうのはどうしてこうも意地が悪いのだろうと思った。