かつて君は流氷だった



夜から朝になって、ようやく名前は歩みを緩めた。
一心不乱に走っていて、足元が明るくなったことに気付いて慌てて木陰に背負った人をそっと寝かせた。
よれて伸びた背負い紐を捨てて燃やすと新しいものを懐から出して準備し、ガブガブと荷物から自分の水を飲み切ると上半身を寛げて汗を拭き取る。
道のりを半分過ぎた。
通常の倍のペースで進めている。
そのことに安堵しつつ、重症の筈の炎柱の汗を新しい拭いで拭き取る。
眠っているのに続く独特の呼吸は以前彼を背負ったときには無かったものだ。
全集中の呼吸というやつなのだろう。
血も以前とは違って減りが少なく、勝手に回復しているようにすら感じられるが、尋常では無い汗にこれもまた命を削っているように思えて焦る。
起こさない方がいいのかもしれない。

ただ失ってしまっている水分だけが気がかりで、吸飲みを取り出してねじ込もうにも頑なに閉じている口が吸飲みの侵入を許さない。

(なんつー頑固な…)

下顎を挙上すると少しだけ唇が緩んだが、歯列だけは未だ頑固に閉じている。
試しに吸飲みの口を押し込んでみるも唇の隙間からドロドロ滴り落ちてしまう。

しばしの沈黙の後、何度か炎柱の頬を叩いて覚醒のないことを確かめた。

「……どうか、柱がスケコマシであります様に…!」

音柱ならなんの罪悪感もないが、なんだかいたたまれない。
やり慣れた行為だが相手が彼だとどうにもやりづらい。

名前は水を口に含み炎柱の左隣に座ると、自身の唇をぴたりと唇に隙間なく押し付ける。
そのまま左手で少し顎先を持ち上げて少しずつ流し込む。
視線の先の喉仏が上下するのを確認してホッした名前は安堵の息をつくと、二口目を流し込むべくまたぴたりと唇を器用に塞ぐ。
喉仏と、この先の工程のことばかり考えていた名前は、薄らと目の開いた杏寿郎には、まるで気がつかないまま。
彼の口から嚥下が止まるまでそれを繰り返していた。













慣れた肌触りと、落ち着く感触は自分の布団。
目を閉じていても容赦のない昼の太陽は冬でも燦々と照ってまぶたの裏をあかく照らしている

「ん………」

みじろぎするだけで体が痛い。
今は温かい部屋と布団のおかげで幾分か筋肉が和らいだ気がするが、今度は頭がジンとしてどうやら。発熱し始めているらしい。
それにしても、自分はいつのまに布団に……。

「気が付いたか、もう少しで胡蝶を呼ぼうと思っていたところだ」
「え……どうして」

自分の家の天井と、全く関係のない筈の金髪の男に飛び上がりたい気分になるも体が重くて動かない。
煉獄杏寿郎は、名前の額に手を当てると冷えた手拭いで滲んだ汗を拭った。

「どうして、ここに」
「改めて誤解のないように。とおもって探したら来ていない。誰も知らないというからな」

彼なりに搾った声は優しさだろうか。それとも昨日の大声が大仰なだけだったのか。
意外なほど優しさを含んだ声音に戸惑いながら、どうやらこれをしたのは煉獄だということだけははっきり理解した。

「よく見つけて……というか、大丈夫です!」

休んでください。と続けた名前に呆れたように口角を上げると、杏寿郎は起き上がろうとする名前の肩を制する。

「俺はこうしながら充分休息できている……これも名前が急いで運んでくれたおかげだ」
「そんな……過ぎる言葉です」

そこまで話して慌てて布団で鼻まで隠す。
今更だが落ち着かないのだ。

「胡蝶から薬をもらってきた。筋肉痛も過ぎれば心臓が弱る。俺が話した容態の内容ではまず薬を飲んで休息、水を飲んで少し体を動かしたらまだ休息。の繰り返しが大事だそうだ」

いつのまに見つけ出したのか、盆の上にきちんと乗った湯呑みに入った白湯と薬に慌てて上体を起こそうとするも腹筋が痛んで思ったように動かない。
察した力強い腕がするりと布団と背の間に入り込んで名前の体を優しく起こす。

「慌てなくていい。飲めないなら飲ませてやるぞ!」
「またまた…御冗談を」

ごめんなさい。もう私がやりました。貴方に先に。
と心の中で一人謝る。
ずず。と湯飲みを傾けながら
このまま自分の鼻先はかり見ているわけにもいかない。
何より飽きる気配もな注がれる視線が痛い。

「あの、炎柱。昨日の発言ですが…」
「訂正はない。そのままの意味だ!それに杏寿郎と呼んでくれ!」
「そういうわけには…!」
「岩柱は名前でよんでいるではないか!」

言葉に詰まった名前からなおも目を逸らさない彼は誤魔化しをゆるさないつもりだろう。

「岩柱とは、旧知の仲ですし…」
「君は誰とも関わり合いになりたくない人間かと思っていた」

俺とも頑なに関わろうとしなかっただろう。
と言われて言葉に詰まった。
ようやく慣れたこの仕事で、唯一の慣れないことは失うことだ。
自分の背中で冷たくなっていく者を背負って足を止めるとき、名前も知らない人でもこんなに苦しいのに。
それに、姿を見られるのは好きじゃない。
華やかな人達の群れで自分の些末な手柄を振りかざして恩義を売るなんて柄じゃない。
地味で、華のない姿形の自分には隠の名の通り小さく潜むのが似合っている。


「申し訳ありません、不敬でした」
「そうではない。命を救ってもらったという事実に任務は関係ない。恩人と関わり合いたい。と思うのは当然の心の機微だろう」

白湯に浮かぶ情けない自分の顔を見つめながら、杏寿郎の凛とした声に耳を傾ける。
下から見る自分の顔って本当に間抜け。
こんな、歳下の青年に改めて自分の卑屈な不器用さを指摘される。

気遣うように背に添えられた掌は温かい。

「それに、随分探したせいで拗らせてしまった」

君のせいだ。とかすれた低い声が右目にかかるほど近い。
睫毛に吐息がかかって揺れる。
影に視線をあげようと腫れぼったい瞼を一生懸命持ち上げると、顔にさらりと金糸がかかる。
左頬に添えられた手が急に力強く下顎を持ち上げて、唇の端にふにゅりと柔らかい感触。
やがてぴたりと唇を塞いだそれが延命のためでも何でもない口吸いだと気がついた時には、杏寿郎から微かにかおる藤の香り。
伏せられた、とける前の鉄のような赤い瞳に釘付けになっていた。






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