短編 | ナノ
きっかけは私の不注意だった。
学校からの帰り道、肌寒い風がスカートを揺らす。制服のある学校なら、大抵は女子がスカートで男子はズボンだと思うけど、こんな時にはやはり、男子はズボンで暖かくていいなと思ってしまう。
とにかく、この日は寒かった。
悩み事がある訳じゃない。かといって考え事をしていた訳じゃない。ただ頭の中を真っ白にしてぼーっと歩いていたら、マンホールに躓いて転んだ。間抜けすぎる。幸い怪我はなかったけど、咄嗟に地面に付いた掌が汚れてしまった。ついてない。立ち上がろうとする理性よりも、脱力感から休もうとする本能が勝り、汚れた両手を見つめた。洗ったら簡単に落ちるのだろうが、家につくまでこのままというのも何となく嫌だ。確か、ポケットにハンカチが入っていた筈。そう考えて、比較的汚れの少ない小指を駆使してハンカチを取り出そうとしている私に、奴が近づいてきた。

「大丈夫?」

奴は私の目の前に紙を差し出すと、ふわりという効果音と共に笑った。これで手を拭け……という事なのだろうかと一瞬戸惑う。私は奴と紙を見比べた後、黙って紙を受け取り、ありったけ力を込めて破った。奴の短い悲鳴が聞こえた。

「何するんだよナマエ! 俺の気持ちを踏みにじらないでよ!」

「ハンカチ貸してあげるみたいなテンションで婚姻届渡されたらそりゃ破るよ!」

「どさくさに紛れてサインしてくれるかなって」

「紛れない! それだけは絶対にない! 婚姻届なんてどうやって手にいれたの?」

「俺の技術を用いれば―――楽勝、だったよ」

「何そのドヤ顔と間。そして何の技術だ、盗みのか」

「盗みだなんてそんな事! あれは空から降ってきたんだよ」

「嘘だねそれ」

「ど、どうしてわかるの……?」

奴、沢田綱吉は本気で驚いているようだ。
私としては、当たり前だろ! と叫びたい。空から婚姻届が降ってきたんだ! なんて信じる人滅多にいない。


「もう好きって言葉じゃ足りない。愛してる? それは当たり前すぎて言葉にする意味もないと思うんだ。だからナマエに俺の愛を伝える言葉はただ一つ。そう、この言葉しかない―――結婚しよう」

「…お断りしよう」





「なんで!?」

「逆に何故了解すると思った!?」

「愛があるから。そして俺とナマエが彼氏と彼女だから!」


自信満々に言い切った奴を前に、私は何も言えなくなった。
確かに私と奴は付き合っているが、付き合う前は、奴はこんなテンションではなかった。普通の、少し気が弱い男の子。両想いだと解った時に、恥ずかしがりながらもこれからよろしくと手を差し伸べた奴の姿も、その時のまわりの景色も、今でもちゃんと覚えている。忘れられる筈がない。私にとっては初めての彼氏なんだら。そして付き合ってから数週間経った今現在。
この変わり様はなんだ。
付き合っているけどね、だけどね、たとえ彼氏と彼女だとしても、これは異常だと思うの。

「さあナマエ、この魔法の紙に名前を書いて」

「思いっきり婚姻届って書いてあるねその魔法の紙。まさかの二枚目か」

「幻」

「なわけないね。誤魔化せると思……ねえ、そのポケットからはみ出しているものは何?」

「あっ! か、返してナマエ!」

奴のポケットに入っていたのは、ぼろぼろとまではいかないものの、かなり使いこまれた手帳だった。
あれ、この手帳どこかで見たことあ……
そこまで考えて、私はすべてを思い出した。

そして、気が付けば走り出していた。

「止まって! ストップだよナマエ!」

「止まらねーよ! なんで綱吉がこれを持ってるの!?」

「空から降ってき」

「それはもういいから! 伏線だったのかよさっきの嘘!」

「嘘じゃないよ! 俺の妄想に基づいたフィクションだよ!」

「結局嘘じゃん!」


とりあえず家に帰って玄関と家中の窓に鍵をしよう。奴が入ってこれないよう、念入りに。
どうして忘れていたんだろう。この手帳は、私が日記帳代わりに使っていたものじゃないか。




暫く走ると、私の家についた。幸い両親は留守のようだ。誰か勝手に奴を家に招き入れてしまう心配はない。その代わり、両親が帰ってくる前にこの手帳をどうにかしなければ。家の前で奴と両親が鉢合わせてしまったらたまったもんじゃない。

家中を走り回り、全ての窓に鍵をかけ、自室に飛び込んだ。窓から家の前を覗いてみたけど、奴の姿は見えなかった。
果たして奴は、どうやってこの手帳を手にいれたんだろう。
なんとなく手帳を開いてみると、そこには確かに自分の字で、日々の出来事が綴られていた。

・○月×日 はれ
奴としたくもない鬼ごっこをした。きっかけは、奴の鞄から転がり落ちた写真。いつの間に撮ったのか、私が自分の部屋で寝ている写真だった。盗撮か、こいつ本当におかしい。落ちた写真を私が拾って、写真を取り返す為に私を追いかける、奴、沢田綱吉。なんで自分の写真なんかを持って逃げてるんだ私。でもこれを奴に渡すのは癪だ。久しぶりに全速力で校庭を走った。
今日はいい天気だ。


・○月◇日 雨
雨が降った。傘を忘れて昇降口で途方に暮れていたら、奴がナチュラルに相合い傘をして来た。「手、繋ぐ?」「いやだ」「照れないでナマエ」「照れてない」そういうと奴が勝手に手を繋いできた。振り払うのも面倒くさかったので放っておいたら抱きついてきた。殴った。その時に少し雨で体が濡れてしまった。相合い傘の意味がない。


・○月●日 くもり
奴が学校を休んだ。
理由は解らない。奴は今日に至るまでの私のメールをすべて無視している。
どういう事だ。今まで必ず五秒以内に返信が来て若干ひいていたのに。
奴の家を訪ねると、今は居ないと言われた。というか、まだ学校から帰っていないと言われた。おかしいな。今日あいつは学校を休んでいたのに。
いつも一緒にいる獄寺くんもいないから、まさかあいつは学校をサボったのか。もしそうだとしたらなんて奴だ。
風邪ではないなら明日は学校に来るだろうし、その時に聞いてみよう。


・○月▼日 くもり
あいつはまた学校を休んだ。
獄寺くんは来ていた。
……またサボり? 獄寺くんにあいつの行方を聞いてみた。

「し、知らねぇ。俺は何も知らねぇ! 野球バカに聞けば……いや聞くな! いいか、絶対聞くんじゃねぇぞ。あいつはバカだからぽろっと言っちまいそう……いや何でもねぇ! あ、な、何を言うかだと? いや言っちまうってのは、そ、そういう意味じゃねぇよ。あれだ、遠足に行くの行くだよ行く! あ? 動揺なんかしてねぇ! 手が震えてるだと? 目の錯覚だ錯覚! 汗? ひ、冷や汗じゃねぇよ! 暑いからに決まってんだろうが! ……た、確かに今は冬だけどよ。とにかく暑いんだよ俺は! ……暑いならセーターを脱げだと? ふざけるな! そんな事したら寒…くはねぇけどな! ああ寒くねぇよバカ! 脱いでやるよ、これで満足かよ!」

獄寺くんは着ていたセーターを床に叩きつけ去っていった。
次に山本くんを探したが、見つける事ができなかった。あいつは何をしているんだろう。


・○月☆日 くもり
最近ついていない。
相変わらずあいつは行方不明だし、へんな噂を聞いた。
あいつが長髪で美人のお姉さんと一緒に歩いているのを、見た人がいるらしい。しかも、その見たという人は一人二人ではなく、ここ数日で何人も。
噂は噂なので確証はないが、どうしたものだろう。でも、浮気なわけない……のか? 今までの私のあいつに対する態度を思い返してみると、正当防衛の一言で片付けられる物がほとんどだった。私の今までの態度が原因だと言うなら、これからはあいつの行為を甘んじて受け止めればいいのか……それは無理。正直、好きだと言ってもらえるのは嬉しい。だけどいくら愛情表現だからって限度があるだろう綱吉。昔、しずかちゃんのお風呂に忍び込むのび太くんの如く、いきなりお風呂場に潜入されたときは通報を本気で考えたものだ。何事もほどほどにしてほしい。


・○月■日 くもりのちあめ
やっぱり噂なんか信じるもんじゃない。綱吉は今日も学校に来なかったがそれどころではない。
噂の長髪美人さんは獄寺くんのお姉さんである事が判明した。しかもお姉さん、リボなんとかさんという恋人がいるとかなんとか。獄寺くんが自ら私に言ったから間違いない。くそ。昨日の日記を読み返してみたら恥ずかしくてたまらなくなった。後で破って捨てよう。何ならシュレッダーでもいい。
とにかく綱吉はやく学校に来い。自棄になって雨の中を傘もささないで帰った。おかげでくしゃみが止まらない。


・○月▽日 あめ
やっと学校に来たと思えば綱吉はいつものように私に接してきた。ちょっと待って。今までの事について何かいって。
そう思って私からメールを無視した理由を聞けば、土下座をされた。

「ごめん! 本当にごめんねナマエ」

「私は、理由を、聞いているんだけど」

短く区切りながら、理由を、の部分を強調すると、綱吉はますます挙動不審になった。こんなにも綱吉を見ているのに一度たりとも目が合わないのは、綱吉が四方八方に目を泳がせまくっているからだ。

「理由は……えっと」

「人には言えないような事?」

「………修行してた」

「…………」

修行ってなんだよ。筋トレでもするのか。その前に何を鍛えるんだよ中学生が。これは嘘なのか本当なのか、それとも冗談なのか。考えていたら気分が悪くなって、保健室に行った。後ろから私を呼び止める綱吉の声が聞こえたが、無視をした。保健室で暫く休んでも気分は治らず、おかしいなと思っていたら熱があった。きっと昨日の雨のせいだ。


・○月▲日 はれ
学校を休んだ。休む程の熱ではなかったけど、なんとなく学校に行きたくなかった。そうしたら、綱吉が私の家にお見舞いにきた。


――――ここまで読んで、私は手帳を閉じた。
もう全部思い出した。この後に起こった出来事も、すべて。

「ナマエ!」
「うわっ!」

聞こえるはずがないあいつの声に、思わず声をあげた。急いで扉を押さえ、自分の体をバリケードにする。いったい奴はどこから入ったんだ…?

「階段の近くの窓が開いてたから、来ちゃった。だめだよ、戸締まりはちゃんとしないと」

「その前にまさか二階の直径三センチもない窓から人が入ってくるなんて想像もしてなかったね私は」

何故か照れたような声色を扉越しに聞きながら、私は最も気になっていた事を尋ねた。

「…ねえ、中、見た?」

その私の問い掛けに、奴は何も答えない。代わりに、小さな笑い声が聞こえた。くそ……こいつ勝手に人の日記見たな。

「なまえはツンデレだよね。そんなところもかわ」

「お願いだからもう何も喋らないで」

あの日、風邪をひいた私の家を訪ねてきた綱吉は、何度も何度も私に謝った。連絡をしたくても出来なかった事から始まり、学校に行かなかった理由を詳しく話せない事まで。あまりにも必死だったので、私はとりあえず修行をしていたという綱吉の言葉を信じる事にした。そもそも、最初からその事はどうでもよく、私は、何で連絡してくれなかったのかを、一番聞きたかったからだ。
そして、見事仲直りした…と言っていいのかわからないけど、その後、風邪がうつるといけないからと、帰宅を促した私に、綱吉が、細かく言えばその顔が近づいてきた。
後はもう思い出したくない。初めてのキスとやらが、まさかあのタイミングでくるなんて、思いもしなかった。
ああもうどうしよう。恥ずかしくて仕方がない。こんな顔で奴に会えるわけがない。扉を開ければ、おそらくにやにやと腹のたつ顔をした綱吉がいるのだろう。ならば私のやることは一つ。ここから絶対に出ていかない事だ。
と思っていたのだが。
結局私の籠城は、両親が帰ってきてしまい、綱吉を招き入れてしまったことにより幕を閉じた。久しぶりに見たような錯覚を招いた綱吉の顔は、想像通りにやにやにまにまとだらしのない顔をしていたのだった。


人の物を勝手に見るな



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