短編


雫石

 水の中できらきらと、それは光っていた。
 何かと思い拾ってみると、それは涙滴型の天然石だった。灰色か銀色か、光の加減で色が変わる美しい石。時として暁色にも、ススキの穂の色にも見える不思議な石だった。それはまるで、月の雫を思わせるような。
 山際侑が最初その石を家の近くの小川で見つけたとき、綺麗だなと思った。次の瞬間には、何処から落ちたのだろうとか、誰が落としたのだろうとか、ごくありふれた疑問が浮かんだ。けれど、それを持って返った次の日には、その疑念は霧散していた。理由が判別したわけではない。疑問に思った事柄が、どうでも良くなったのだ。最初に浮かんだ疑問は、ほんの些細なことだった。だからこそ、直ぐと疑心が消えたのだ。
 侑は直ぐとアクセサリーにすることを思いついた。四六時中、常に持ち歩いていたい衝動に駆られたからだ。その石は、何の装飾も無く、純粋に美しかった。天然の美が集約されていた。
 侑は宝石を加工するために、宝飾店に持っていった。宝飾店に持っていくと、店主は目を丸くした。これほどの石がこの地球上にあるとは思えない、ということは口にせず、
「ほう。これは――とても珍しい石だね。何処で手に入れたのかね?」
 と言った。侑はあいまいに微笑で返して本当のところは言わなかった。
「これを、ペンダントに加工して欲しいんです。加工は出来るだけ少なくして、その石自体を生かす感じで……やっていただけますか?」
「…………金は、あるんだろうね?」
「はい! あります! やって、いただけますね?」
 宝飾屋は笑顔で返した。交渉が成立した瞬間だった。
 宝飾屋は最初、加工して返品するときごまかしてやろうと考えた。けれど、ずっと月の雫を見ているうちにその考えが変わった。その白銀の光には、人の心の純粋な部分を呼び覚ます力があるようだった。嘘はつけない。嘘をつき通すことが出来ない。そう、思わせてしまうのだった。
 数日後、彼は電話した。石の装飾が出来上がったことを侑に告げるために。


「ありがとうございました」
 報せを受けてから直ぐと、店まで取りに行った。侑が頭を下げると、まるで写し鏡のように相手も頭を下げた。
 出来上がったペンダントは、無駄な装飾の無い、シンプルなペンダントトップだった。この形が一番、雫石を生かすことが出来るのだと、宝飾屋は言っていた。侑は満足したので、笑顔を煌かせた。
 侑はそれを首に下げ、肌身離さず持ち歩くことにした。


「本日未明、東京都芝公園で男が突然唸り声を上げ、付近の通行人に暴力を振るうという事件がありました。警察によって、取り押さえられ、ただいま身柄を拘束されているもようです」
 テレビのニュースキャスターが、事件を報道した。侑はその事実を、夕食を食べながら聞いた。
「あら、やだ。最近多いわねぇ。侑、あまり夜遅くに出歩かないのよ」
 母親の、不安の色を覗かせた言葉と眉根を寄せた表情を受け、侑は母を心配させてはいけないと思った。
「大丈夫よ、お母さん。心配しないで。そんなに遅くまで出歩かないから」
 侑は母親に心配かけまいと思い、笑顔を作る。母は得心がいかない様だが、娘を信じることにしたようだ。


 学校に行くと、昨夜のニュースが話題に上っていた。
 侑の通う学校は、公立の高校だ。地域でも屈指の進学校で、いつか来る大学受験を視野に入れながら、侑はそこに通っていた。侑は小学生の頃から勉強が好きだった。知識を詰め込むことに快感を覚え、より高度な知識を求めて図書館に通った。学校の勉強とは関係なく知識を追い求めたはずなのに、何故か成績が上がった。母は喜んだが、侑にとってどうでも良かった。知識を詰め込んだ侑は、知らず知らずのうちにクラスの中で孤立していった。クラス中から、無視する風潮にさらされていた。自分でも、周囲の馬鹿な人たちと同じように見られてなるものかと、意地を張っていたから、余計人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していたのかもしれない。それは、いじめに近かった。侑はその問題を抱えることを良しとしていた。
 今朝も、いつものように空気として扱われていた。侑は、いつもと同じように席につくと、何の気もなしに耳をそばだてていた。聞こえてくるのは昨夜のニュースの話題ばかり。不特定多数の意見として、「ちょーコワイ」だの、「襲われたらどうしよう」だの、それでも楽しんでいるのだろう、浮きだった感想が飛び交っていた。二番煎じだと思えるそれらの単語は、クラスメイト達の少ないボキャブラリーを象徴していた。侑はそれを冷ややかに眺めている。
 最初は自分には関係ない、と思っていた。
 それを現実に、目の当たりにしたとき、実は全ての人に関係があったのだと、少なくともその可能性があったのだと、知ることになる。


 粛々と授業は終わり、放課後になった。まどろみを帯びて病んだ黄色い目玉が、校舎を熟んだトマトのような色に染めている。
 侑は常に行動を共にしている唯一の友達、砧悠と下校していた。本当に心から打ち解けられる、心友がいるから、侑は一人でいられるのだ。侑は常に、この友に感謝していた。感謝したとしても足りないくらいに。それ程、寂しさを感じていたのだ。思春期の子供が社会を学習するのに必要なのは、友人達だ。侑にはそれが不足していた。それを補っているのが、心友しんゆうの存在だった。
 二人は、公園の前を横切った。公園の、中央広場の噴水の前で、クレープ屋が屋台を広げていたので、悠が「クレープでも食べていかない?」と侑を誘った。その瞬間、侑は昨夜のニュースを忘れていた。何気ない素振りで頷くと、財布の中身を確認した。昨日、大枚をはたいていたことを思い出したのだ。それでもクレープを食べるくらいの出費は捻出できることを確認すると、友達の後を追って公園内に入った。
 クレープの屋台は三人ほど並んでいた。が、程無くして侑達の番になった。「いらっしゃい」店主が出迎えると、「キウイ生クリームください」悠が開口一番注文し、「イチゴカスタードください」侑がそれに続いた。それぞれ四百五十円ずつ支払うと、暫し待った。二人は温かいクレープを店主から受け取ると、噴水の周囲に点在しているベンチに向かった。と、その時、侑の耳に男の呻き声が聞こえてきた。野太い声で、どこか獣の唸り声に似ていた。侑は辺りを見回した。一番に飛び込んできたのは、噴水の横で頭を両手で抱えて呻いている男性だった。注視すると、袖から長い剛毛が出ている。頬にも少しずつ剛毛が生えてきているようだ。鼻と口が長く伸び、牙が露になる。目は獣のそれに似ていた。脳裏に昨日のニュースが蘇る。悠にこの事を伝えようと、声を掛けようとした時、男が空高く一声鳴いた。そして、血走らせた眼を侑達に向けると、吠えながら殴りかかってきた。
「きゃあぁぁぁ!」
 二人は悲鳴を上げた。
 男の目に映っていたのは、悠の方だった。男は悠に向かって踊りかかる。悠は咄嗟に持っていた鞄を盾にする。男は爪でそれを引っ掻いた。驚いたことに、鞄が中身ごと裂けた。男はいったん悠から離れた。狼が狩りでもするように、その身は軽い。ぱっと見、身体能力が上がっているように思える。
「に、逃げるよ、悠!」侑が悠に掛け声をかけると、
「あ、で、でも、足が……」悠が自分の足を指し示して動けないことを示唆する。
 見ると、悠の足は震えて、走り出すどころか歩き出すことさえままならないでいた。
「あなただけでも逃げて」
 悠が弱気な発言をぶつけてきたが、侑はそれを一蹴した。
「何言ってんのよ! …………! 悠! 後ろ!」
 侑の方に体を向けていた悠が再び男の方へ向き直ったとき、男が上段から右腕を振り下ろしていた。盾にすべき鞄は無く、悠はその一撃を右腕で受けた。
「痛っ!」
 制服の上から血が滲んでいる。肉まで裂けているようだ。悠が自身に受けた傷に気を取られている隙に、第二撃が来た。左腕の攻撃だ。
「危ない! 悠!」
 咄嗟に侑が男と悠の間に入り、悠に覆い被さる。背が裂けた。血飛沫が飛び散る。激痛が、熱と共に全身に伝わった。顔が酷く歪む。声にならない声が出た。が、精神を立て直し、手に持った鞄を振り向きざまに振りぬく。男の頭めがけて。激しく鈍い音がして、男が呻いた。頭に直撃を食らってよろめく。力一杯振り抜いたので、眩暈を起こしているようだ。数歩たたらを踏む。その時、サイレンをけたたましく鳴らしてパトカーが到着した。制服の警官が出てきて、二人がかりで男を取り押さえた。誰かが通報したのだろう。侑は、ほっと安堵に胸を撫で下ろした。
 空には望月が皓々と浮かんでいた。


 侑達は救急車で搬送された。
「侑、大丈夫?」
 寝台にうつ伏せになっている侑を心配そうな瞳で見詰める悠。うっすらと、涙すら浮かべている。侑のことが限りなく心配なのだろう。瞳の奥に翳りが見える。
「うん。大丈夫だから。泣かないで」
 そう言うと、侑は手を伸ばし、指で涙をすくい取る。そして静かに微笑んだ。
 救急車の中で処置を施してもらったが、侑の出血は止まっていない。早く輸血しなければ出血多量で死んでしまうだろう。
 救急車はサイレンを鳴らしながら、白亜の建物に吸い込まれていった。
 早速侑は手術室に運ばれた。軽傷ですんだ悠のほうは、手術室の前で待たされた。祈るような気持ちで椅子に腰掛ける。すると、彼女の前に、一人の女医らしき女性が立ちはだかる。白衣のポケットに両手を入れながら、口を開いた。
「あなたが、砧悠さん?」
 悠は、声を掛けられてから気付いたとでもいう風に、顔を上げた。
「はい。そうですが……?」
 視線で先を促す。相手はそれを受けて眼鏡をずり直しながら話を続けた。
「ちょっと、いいかしら? 貴女もいろいろと検査をしないといけないことがあって」
「私は軽傷だから大丈夫だといわれたのですが」
「軽傷でも、感染症とかがあると困るでしょ」
 それもそうかと得心して、悠は椅子を立った。二度三度、振り返りながら女医の後ろについていった。


 術後、真っ白き病室で横たわっている侑。未だに意識は戻っていない。麻酔が効いているのだ。背を縫合しただけなので、大した手術ではなかったが大事をとって一ヶ月ほど入院することになった。その間、いろいろと検査があるようだ。侑の母親が急な報せを受けて、病室に見舞っていた。
「あら? この子、いつの間にこんなものを……?」
 花瓶に花を生けて机に置こうとして、あれ? と思ったのだ。何かが置いてある。手に取ると綺麗なネックレスだった。何の装飾も施されていないのに、美しいと思わせてしまう、一種の迫力があった。
 母親が手にとって溜息をついていると、侑が目を覚ました。
「あれ、お母さん」
「あら、目が覚めたのね。あなた、こんなものつけてたの」
「拾ったのよ。それ」
 そう、言うが早いか返して、とでも言うように手を差し伸べる侑。母親はその掌の上に、ペンダントを乗せた。返されたペンダントは、早速侑の胸元に揺れた。
「お母さん、悠は?」
 ペンダントが自身の胸に戻ったことで落ち着いたのか、思い出したように訊いた。
「悠ちゃん? 私が来たときにはいなかったわよ」
 母親は、思い当たる節は無いとでも言うように、頭を振る。
「一緒に来たはずなんだけど……」
 侑が扉に不安げな視線を投げかけると、扉がすっと開いた。
 女性の、医者らしき人が入ってきた。眼鏡の奥の瞳は理知的で印象的だ。胸に名札がついている。それによると、如月という苗字らしい。
「あら、目が覚めたのね」
 如月医師は、開口一番そう言った。まるで心配していなかったとでも言うように、軽い物言いだった。
「先生、悠……一緒にいた友達は?」
 侑が如月医師に発問した。
「砧悠さんは、感染症に罹っているの。治療のため、別の部屋にいるわ」
「え? どこに…………会えるんでしょ?」
「感染する恐れがあるから……会わない方がいいわね」
 如月医師は、言い含めるように軽く流した。侑は不服ながらも頷くしかなかった。
「さ、あなたも検査するから、検査室に行くわよ」


 検査の結果、二人は人狼病に感染していることが解った。このことは本人達には伏せられた。
 人狼病は満月前後一日に感染すると、次の満月まで潜伏期間がある。だから満月になって人狼化するまで、周囲の者には彼の者が罹病しているかどうか判別できないのだ。だが、血液検査などによって、陰性か陽性かなどは判別できるという。そのための施設がこの建物にはあった。二人は検査され、陽性と出た。そして隔離された。


 侑達が罹病して約一ヵ月後。次の満月がやってきた。
「出して! ここから出してよ!」
 悠は両手を振り上げて抗議している。
 真っ白い、殺風景な病室らしくない病室。窓はあるが、鉄格子がはめられている。外に出られないように、との配慮だろう。部屋の隅にカメラが設置してあって、そこから声も流れてくるようになっている。まるで何か観察対象を観察する、研究施設のようであった。普通の病院にはこのような物など設置されていない。悠は最初、違和感を覚えた。自分がこの部屋から外に出ることを避けられていたため、最初の一週間で違和感は確信に変わった。
 ――この病院、普通の病院じゃない。
 綻びは大きくなっていく。
 そして、異変は突然訪れた。悠が窓から見える満月を見上げると、体の奥底からこみ上げてくるものがあった。それは、荒い感情であり、生命の迸りであった。体の節々から軋音が響いてくる。筋肉が膨らみ、骨が変形する音が聞こえてきた。両腕や両足に剛毛が生えた。眼が血走り、耳が伸びる。口と鼻が前に突き出る。歯並びが鋭く尖る。やがて、野生の咆哮が放たれた。
 体は二足歩行のままだが、容姿は明らかに狼のそれに似ていた。
 それをモニターで観察していた白衣を着た男――研究員は、直ぐと変化に気付いた。
 同じ頃、侑もまた、満月を見ていた。
 だが、変化は現れなかった。
 研究員の男は、悠の部屋のモニターと侑の部屋のモニターを交互に見比べ、侑に起こるべき変化が無いことに気付いた。
「? おかしい。病態が進んでもおかしくないのだが」
 男は独りごちた。当然、想起されるべき疑念だった。今日は、満月だ。
「教授に知らせなければ」
 男はモニター室から出て行った。


「悠? 悠の声だ」
 侑は耳をそばだてた。辺りを見渡しても、心友が見えるわけではない。だが、その遠吠えは確かに悠の声に似ていた。
「悠だ。悠がこの建物のどこかにいるんだ」
 侑の表情はとたんに明るくなる。
 窓から離れると、空のコップを手に取り、ベッドの上に併設してあるランプのシェードを外すと、電球にコップを近付けた。そしてランプを点灯する。焦点のあった光の点が熱源感知器に当たるように調節する。暫くそうやって光を当てていると、やがて併設してあったスプリンクラーが作動し、侑の体はびしょ濡れになる。と、同時に、警報器が鳴り響いた。
 ――これで扉が開けば、そこから抜け出せる。
 侑は扉の陰に隠れるように移動した。
 暫しの間、そうしていただろうか。突然扉が開かれた。
「…………? おかしいな。確かに火災報知機が鳴ったんだが」
 侑はあらかじめ手にしていた椅子で、入ってきた男の後頭部を思いっきり叩いた。男はその場に倒れる。
「ごめんなさい!」
 軽く手を合わせると、開いた扉から廊下へ出た。声の聞こえてきた方へ走っていく。
 どれくらい走っただろう。やがて周囲が騒がしくなり、狼の放つ唸り声や、人の叫び声などが聞こえてきた。と、ティー字路に差し掛かったところで、人狼とばったり出くわした。
 侑は人狼の眼を見詰めた。確信が閃いた。
「悠? 悠なのね?」
 人狼は答えの変わりに唸り声を上げた。理性が飛んでしまっているかのようだった。しかし、一瞬動きが止まった。人狼――悠と侑は数瞬見詰め合った。
 悠は一声吠えると、侑に踊りかかった。侑は激しく後ろに突き飛ばされた。そのときの衝撃で、胸元の服が裂け、ペンダントが露わになった。とたん、蛍光灯の光が石に当たって反射した。
 石が光る。その光はそのまま悠の瞳に吸い込まれた。悠の脳裏に一瞬理性の灯がともった。
「侑……」
 涙が一滴、つと悠の頬に流れた。
 それを見咎めた人物がいた。如月である。如月は口の端に笑みを浮かべると、周りの研究員に指示を出した。悠の動きが膠着した時を見計らって、研究員が三、四人で取り押さえ、注射を打った。すぐさま悠は眠りに落ちる。
「何をするの!」
 侑は興奮して声を荒げた。自分の友達に対する仕打ちが許せないのだ。
「あれは、あなたを襲おうとしたのよ?」
 当然のように諭す如月。しかし、侑はなおも反発する。
「あれって! 悠をそんな風に呼ばないで!」
 異議を唱える。しかし、そんな侑を横目に、研究員達が侑を何処かへと運んでいった。その行為にさらに何かを言い募ろうとする侑を、如月が遮った。
「それよりも、山際さん。あなたのそのペンダント、興味深いものを見せてもらったわ。少し、貸していただけないかしら?」
 侑ははっとしてペンダントを握りこむと、いやいやをして後退った。その時、研究員の一人が如月に向かって報告した。
「教授! 被験者の確保、完了しました!」
「ご苦労様。ケージに入れて、監視体制に入りなさい」
 教授と呼ばれた如月は的確に指示を出していく。眼鏡の奥の瞳は幾分か険しく見える。
「ケージって……」
 如月教授は侑の方に向き直ると、真っ直ぐと見据えた。
「これも全国民の為なのよ。私たちは政府の直轄で、未知のウィルスを研究しているの。その研究のために、そのペンダントが必要なのよ」
「そんなの、信じられない」
 さらに警戒心を強める侑。今起こっていることに理解力がついていかず、混乱している。
 突然、侑の脊椎に電撃が走った。侑はその場に屈折れ、気絶する。背後にはやや強力にしたスタンガンを手にした研究員が立っていた。
「ご苦労様」
 労いの言葉を投げかける如月教授。彼女は、少女の首からペンダントを外した。


 侑が目覚めたとき、病室のベッドに寝かしつけられていた。しかし今までと様子が違う。ケージだ。彼女の周囲に巨大なケージが張り巡らされていた。それは部屋のほぼ半分を占めていて、出入り口には南京錠がかかっている。
 侑はふと何かに気付き、胸の辺りをまさぐった。だが、目当ての物は見当たらない。
「無い! 私のペンダント!」
 途端、不安で慄いた。何か、言い知れぬ影が忍び寄っているような感覚に支配されたのだ。両手で肩を抱き締める。無意識のうちに夜空を見上げる。空には満月が皓々と浮かんでいる。体が疼く。骨格が軋む。爪が伸び、口が裂ける。体毛が伸び、剛毛が露になる。
 侑は遠吠えをした。


「教授! 病態が変化しました!」
 別室で報告を受けた如月教授は、ペンダントの解析を行なっていた。
「やはりね。このペンダントの効果が確かなものだということの、証左だわ」
 光学機器であらゆる角度から月の雫に照射している。光学機器の横には非破壊検査用の機器まで並んでいる。徹底的に調べつくすつもりのようだ。


 侑は自我を失っている。
 ケージに突撃をかました。瞬時に電撃が走る。意識を手放しそうになるのを辛うじて堪え、数歩後退る。ケージ全体に電磁バリアが張り巡らされていたのだ。一進一退、如何ともしがたい情況になった。侑はケージの中を周回する。鼻をひくつかせ、天井を仰ぎ見る。そこにもやはり檻が張り巡らされていた。
 そうこうしている内に、夜が白けはじめてきた。


 白衣で風を切って廊下を歩く如月教授。手には侑から奪い取ったペンダントが握られていた。
「教授!」
 息せき切って合流してきたのは、先ほど教授に報告をした研究員の男だ。監視の役は別の者に頼んである。
「この石の正体が解明されたわ。これは月の光の欠片――いわば魔力が結晶化したものだったのよ。さしずめ月の雫と言ったところね。次の段階に入るわよ」
「はい!」
 教授の檄に答える研究員。二人は廊下を更なる奥へ、侑のいる部屋へと向かっていった。
 ケージの中には人狼がうろついている。
 如月教授はただ静かに人狼を眺めている。人狼が何か唸った。人であったならば言葉を発したかもしれない。だがそれが言葉になることは無かった。教授は月の雫のペンダントを目の前にかざすと、ケージの鍵を開け中に入っていった。
「教授! 危険です!」
「大丈夫よ。これが有る限り、ね」
 教授が確信した通りの現象が起こった。人狼の動きが止まったのだ。狙い通りの事態に、教授の口の端が釣りあがる。笑んでいた。微笑みとまではいかない、不敵な笑み。だが、目は笑っていなかった。真っ直ぐと人狼を見据えている。
「山際さん。あなたにこれを返すわ」
 そう言って静かに近付くと、人狼の首にペンダントをかける。人狼はやや身を引いたが、事の成り行きに身を任せている。人狼の首に下げられたペンダントトップに照明が反射して、幻想的な光の世界を作り出す。
 見る間に人狼が侑の姿へと変じていく。人狼は完全に侑に戻った。赤裸々な侑がその場に倒れる。意識を失っている少女に、教授は自分の白衣を被せる。
「今回のこと、記録しておいて頂戴」研究員に指示を出す教授と、
「はい」それに答える研究員の男。
 侑は同室内のベッドに寝かされた。まだ研究対象からは外されていないという事なのだろう、ケージが外されることはなかった。


 侑が意識を取り戻すと、ペンダントが戻っていた。横には如月教授が座っている。話があるからと前置いて、一拍置いて続けた。
「あなたのそのペンダント――月の雫と名付けたのだけれど――それがあなたのお友達、ううん、日本全国民を救うかもしれないの。協力して、くれるわね?」
 侑は一通り話を聞き終えてから、窓の外を見やる。夜は白々と明けていた。茜色の雲が棚引いて、群青の空の境目に瓶覗色が層となってパステルに彩られている。暫し、時の移るのを感じていた。おもむろに口を開く。
「本当に、悠を助けられるのですか?」
 侑の瞳には悲壮と懇願がない交ぜになって色濃く出ていた。願いを受けるように頷き返す教授。二人の間に意思が通じ合った瞬間だった。
 侑には決意があった。友を救うという決意が。そして、全ての人狼病に苦しむ人々をも救うという使命が。自身の身よりもそれが優先された。
 あくる日から侑と如月教授の共同研究が始まった。とはいえ、侑は横で見ているだけなのだが。物質を原子レベルで分析する機器に月の雫を入れる。すると、この世界の物質ではないことが判明した。月の石に非常に似通った分子構造であるが、明らかにこの地球上、月の上にもない未知の原子が発見されたのだ。金属固体のようであり、有機固体特有の塩基も見つかった。さらに特筆すべきは、光の粒子に満ちていた、ということだ。通常の物質ではまずありえない。さらに未知なる物質も発見された。
「この、未知の物質や光の粒子を解析すれば、きっと人狼病治療に使えるわ」
「未知の物質って、何ですか?」
「解らない。暗黒物質のようでもあるけれど……」
「暗黒物質?」
「宇宙空間にある星間物質のことよ。光を反射しないから光学的に観測できないの。光を出さずに質量のみがある物質なのよ」
 侑はそんなものがあるんだと、感心した。まだこの世の中には、自分の知らないものがいっぱいある。少しずつ知識が増えていくにしたがって、知的好奇心が満たされ満足する。
「けどこれで、人狼病の原因が特定できたわね。人狼病は満月の光を浴びることによって、この未知の物質が体内に入ってDNAを書き換えていたんだわ。さしずめ月の魔力によって体変化を起こした、とでも言ったところね」
「月の魔力……あの、私達、治るんでしょうか?」
「治るわ。いいえ、治してみせる」
 教授は確かな自信に満ちた瞳でそう言った。


「出来たわ! これであなたたちを治療することが出来るはずよ」
 そういって如月教授が持ってきたのは、掌に乗るほど小さな球体だった。
 侑はそれを手に取ると教授に訊ねた。
「これは?」
「これは、獣化の封石じゅうかのほうせきといって、あなたたちの中にある月の魔力を封じることが出来る珠よ」
 それは魔術師達と科学者達が共同開発したもので、月の魔力を封じ込める特殊な魔法がかけられているのだという。合言葉が決められていて、封印するときと開封するときの二種類がある。侑はとりあえず封印するときの合言葉を教えてもらった。
 今、ケージの中で侑は悠と対峙している。悠は人狼のままだ。月の雫の影響力で大人しくなっているが、油断はならない。
「悠…………今治してあげるからね」
「グルル……」
 侑はポケットから獣化の封石を取り出し目の前に掲げた。侑と悠が丁度獣化の封石を挟む形になった。侑が厳かに口を開く。
「我は願わん、月の魔力を汝が内へ」
 呪文を唱えると、見る間に悠の人狼化が解けていった。そして獣の特徴は全て、光の束となって封石の中に吸い込まれていった。
「悠!」
 意識を喪失する寸前の悠を、その裸体を抱き締める。教授がケージの中に入ってきて用意していた服を悠に被せる。その瞳には優しさが満ちていた。
「悠……良かった。……先生、これで私達、助かりますよね。他の人狼病の人達も助かりますよね?」
 振り向かずに言葉をかける侑。その言葉が如月教授に向いているのは明白だったので、教授も頷き返す。侑には見ていなくても解った。彼女が肯定的に頷いたのが。そしてその肯定こそ、これからの未来を暗示していた。



  了

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