短編


蝸牛の憂鬱

 蝸牛はふと思った。
 俺は何故、雨が好きなのだろう、と。
 何故か、蝸牛は雨に打たれるのが好きだった。止むことの無い小雨の、踊るような歌うような雫達が身体を打つ様は、まるで優雅な調べのようだった。蝸牛にとってのそれは、人間にとってのシャワーと然程変わらない。身体を伝って流れ落ちる水滴は、日々の中で身に染みた汚れを洗い流してくれる。
 だが、と、蝸牛はそれまでの心地よさを否定するように対立詞を続ける。
 だが、一度持ってしまった疑問は容易には消せない。
 何故雨が好きなのか。自分は蝸牛というちっぽけな虫けらだ。紫陽花の葉の上でじっとしていると、自分がちっぽけな存在なのではないかと錯覚してしまう。いや事実そうなのだが、実際そうだとしてもそんな事を考えるのは自分くらいなものであろう。仲間の蝸牛からこの様な話など、とんと聞かない。
 そんなちっぽけな自分が、雨が好き、という感情を持っているのだ。これは何か意味深長なものを感じずには居られない。何か、自然の摂理とか、大地の意思とか、そういったものを感じずには居られないのだ。

「自分探しの旅に出掛けるかな」

 自分が何者なのか、何処から来て、何処へ行こうとしているのか。何故、雨が好きなのか。そして、自分と同じ思いを持った仲間を探すために。旅立つ決意をしたのだった。



 とはいえ、家は背中に付いているから家を空ける心配は無い。あの、螺旋の家だ。身支度も自分の持ち家と共に移動するから、必要ないといえば必要ない。
 のろのろと体液の跡をつけながら前へ進む。目的地なんて無かった。ただ闇雲に進むだけだ。友達の蝸牛が一言二言話しては別の道へ進んでいった。他愛も無い話だ。天気がどうのとか、向こうの紫陽花の葉は甘くて美味しいぞとか。蝸牛は一言二言相槌を打って、別れた。天気は上々だ。まさに、出掛け日和という奴だ。
 いつだったか、聞いたことがある。人間の耳の奥まったところにも、蝸牛と良く似た器官があるのだという。確か、「かぎゅう」と言ったか。その話を聞いた蝸牛は、何だかむず痒いような気持ち悪いような不思議な気分になったのを覚えている。
 紫陽花の葉を越えて幹をするりと降りる蝸牛。紫陽花の群生を超えると、垣根が見えてくる。垣根の下を猫がするりと抜けてきた。猫の巨大な顔が蝸牛に迫ってくる。慌てて蝸牛は進路を空ける。急に対象が動いたので、猫は興味を失ったのか、そのまま縁の下に潜り込んだ。ほっと胸を撫で下ろす蝸牛。

 垣根を越えると空間が開けた。
 そこは、人間達が道路と呼んでいる道だった。道の端のほうに水溜りがあった。蝸牛はその端に居て、じっと水の底を見透かすように見詰める。漣を蹴立てて、風が通り過ぎた。じっと見詰めていると、まるで鏡のように水面に写っている自分自身を見ていると、自分の内面を覗き込んでいるようで、何だかドキドキしてくる。もう少しで自分が解りそうだ。
 蝸牛は水溜りの端の方を、なぞる様に進んでいった。目的地などありはしない。ただ闇雲に進むだけだ。自転車が水溜りの水を撥ねて、通り過ぎた。泥交じりの水が、蝸牛に覆い被さる。蝸牛はびしょ濡れの泥んこ状態になってしまった。それでも、蝸牛は幸せだった。水が好き。水を浴びることが好き。その事を再確認したみたいで、幸せな気分になった。

「けど、これが答えって訳じゃないんだよな」

 そう言うと、蝸牛は再び歩き出す。
 暫く歩いていると、怖い顔の犬が睨みを効かせてきた。今にも鼻を擦り付けてこんとばかりに近付いてきて、去って行った。何か紐のようなものに引っ張られていたようだった。彼を見て、嗚呼、自由が利かないんだなと、哀れに思った。先程までかいていた冷汗など何処吹く風で。
 雲行きが怪しくなってきた。大好きなものがもう直ぐそこまで来ている。
 蝸牛は歩を急がせる。雨が降る前に、雨に触れる前の世界をもっと見ておかなくては。雨に煙る前の、純然たる世界を。その世界と、自分の大好きな雨に触れた後の世界とを見比べるのだ。触れる前と後とでどちらが好きか。それを確かめるんだ!
 蝸牛は蠕動ぜんどうを早めた。まるでピストンのようだ。
 道の両端には、塀が断崖のように聳えていて、世界を狭めていた。空も。大地も。何もかもを切り取ったかのように、その壁が遮っている。時々その壁が口を開けて、人間達の住む家が姿を現す。蝸牛はそんな家など見向きもしないで、一直線に道の端を進んでいく。この道を行けば、そこに辿り着けるような気がする。
 軋むタイヤで怒りの声を上げながら、自動車がこちらに向かって走ってきた。当然蝸牛は端の方を進んでいたので、自動車の餌食にはならずに済んだ。排気ガスをこれでもか、というほど吐き出して、一軒の家の中に吸い込まれていった。あの排気ガスがこの空気を汚している事を、蝸牛は知っている。人間達がしきりに「排気ガスを削減しよう」と呼びかけているからだ。空気は思った以上に弱い。それは、虫である自分自身ですら痛いほど良く解る。だから、空気を汚すことは簡単だ。だが、雨が降った後の空気は、光り輝いているのだ。
 蝸牛は、目を細める。
 蝸牛は、何よりもその美しさを知っている。



 にわか雨が降って、やんだ。
 何処までも抜けるような高い青空に、七色の虹がかかった。
 この、光りに満ちた、瞬間。蝸牛は心の底から思った。「ああ、自分はこの瞬間のために生きているんだ。この瞬間を約束してくれるから、雨が好きなんだ」と。
 蝸牛は、静かに微笑んだ。

Copyright(c) shun haduki All rights reserved.



[6/33]
[*prev] [next#]
[戻る]

しおりを挟む

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -