望郷




   
+*◆◇*+



 太陽が天頂に差し掛かった頃、チグリが家に帰り着くとユーフラが戸口に立って待っていた。
気のせいか、顔面が蒼白になっている。何か言いかけて、しきりにチグリの背後に控えている二人の客人のことを気にしている様子だ。
 長年連れ添った夫婦の勘と言う奴だろうか、チグリはユーフラが気にしていることが何なのか解った。そして、顎をしゃくりユーフラに室内に入るよう促すと、二人の観光客の方へ向き直り真剣な面差しで言い放った。

「お客人、今日はここまで。お引取り願おう」

 素っ気無くそう言い放つと、扉を閉め拒絶の意を示した。これ以上は立ち入って欲しくない、と言う意思を受け取ったクロゼンとオプナは顔を見合わせ溜息を一つ吐くと仕方ないと言う面持ちで踵を返した。
 室内から伺うように観光客の二人を見送ったチグリは、ユーフラの方へ向き直ると事のあらましを促した。

「で? 何があった?」
「クロースが、突然熱を出して倒れてしまったの」
「なんだって!? 今までそんな事、一度も無かったじゃないか。……で、大丈夫なのか?」
「ええ。今は安静に。でも……」
「でも……?」

 ユーフラは心配声もそのままに、言葉を続けた。
 ユーフラの話では不明な点も多少あったが、あらかた概要は飲み込めた。
 彼女の話によると、こうだ。クロースは熱に浮かされ、うわ言の様にある言葉を繰り返すのだという。

――……が来る……。怖い……。私を……、連れて行かないで……。

 そして、体温は上昇する一方なのだという。一応医者は呼んだが、手の施し様がまるで無いのだと言う。原因が解らないのだから、当然といえば当然だが。
 医者が首を傾げ成す術も無く帰っていってから、暫くはチグリもユーフラも熱を下げる努力しか出来なかった。二人とも交互に水を汲んで来ては濡れた布をクロースの額にあてがってやっていた。


   
+*◆◇*+



 翌日も、その翌日も、クロースの容体は急変もしなければ回復する兆しも見せなかった。
 クロースが原因不明の発熱により、熱に浮かされてから二日が経とうとしていた。薬になるような物を求めてチグリが方々を歩き回り、集めて来た薬草やら何やらを片っ端から飲ませてみた所で、一向に回復しない。罹り付けの医者も暇を見ては診療に来るが、首を傾げて帰っていくしか手はない様である。彼は言っていた。「こんな症例は見た事が無い。原因が不明なだけでなく、何の反応も示さない。まるで……、まるで、夢の中に迷い込んでしまったかのように……」と。
 その言葉を聞いて、チグリとユーフラは互いに顔を見合わせた。「夢の中に迷い込んでしまった」其の一言は、二人の保護者にとって信じ難い事だった。例えそれが事実であったとしても。
 普段、クロースが夢を見ることなど無い。それは日常の会話等からも窺い知れたし、十一年間も寝食を共にし育てていれば、実の親でなくとも親同然である。其の二人が無意識の内にでも感じ取っていた通り、クロースは未だ嘗て一度も夢など見たことが無かった。
 それが、夢を見ている。この事実と、今までの経験とを考え合わせた上で二人はある一つの結論に到達した。
 これは、一種の警告なのではないかと。
 彼女の身に危機が迫っているのではないか、と。
 彼女が夢に囚われたのは、二人の魔術師が村を訪れてからだ。だとしたら……彼らが何か、絡んでいるのかもしれない、と。
 そして、ほぼ同時にある一つの決意を固めた。


   
+*◆◇*+



 そこは、はっきりと夢の中だと解る場所だった。
 夢だけど、只の夢ではない、現実味を帯びた夢の中――。
 クロースは其処に佇んでいた。
 周囲の景色は、一度たりとて止まった事の無い、常に変化し続けている夢幻の風景。それが、クロースの記憶の断片だということは、彼女自身とうに気づいていた。
 クロースは、少し首を傾げた。彼女の中に、奇妙な感覚があった。
 夢だけど、夢じゃない。それは、今までと同じ。だけど、其の中に自分とは別の、もう一つの存在があった。それが何なのか、彼女自身確かめる術は無い。

「お父さん……?」

 ここに答えてくれる者は、誰も居ない。

「お母さん……?」

 ここに居るのは己だけ。
 自分で答えを見出すことが出来ない事に、自問自答は出来ない。
 其の存在は、父親でも、母親でもない。彼女の両親など、存在しないからである。

 クロースは一歩一歩足を踏み出した。
 夢の中を、拙い歩みで進んでいく。
 彼女の歩みが7歩目を踏み出した所で、周囲の風景が幕を降ろしたようにがらりと変わった。
 其処は、家具といえる家具は何も無い部屋だった。いや、部屋というのもおこがましい。只の白くて四角い箱、白く仄かに発光する石で固められた檻の中だった。
 其処は、彼女にとっての“心の檻”だった。
 クロースは俄かに顔色を曇らせた。
 其処は自分に苦痛を与える場所、喜びや幸せなど欠片ほども見当たらなかった場所だ。昔の苦痛を想起し、彼女は顔を歪ませたのだ。
 しかし、苦痛と同時に安心感も得られる場所であった。彼女の姉である、イリーズと一緒に過ごせる唯一の場所だった。その、姉の事を思い起こすと、彼女の顔が明るくなった。しかし、再び曇らせる。姉に会いたいという想いと、もう二度と会えないという現実と。其の二つの板に挟まれて、彼女の心は暗く沈んでいく。
 と、其処に差し伸べられた手があった。
 クロースにとってそれは、暗闇に差し込んだ一条の光にも等しかった。
 凡そ生物と呼べるものの無い部屋の中で、自分以外で唯一動ける其の動物は白い衣服を着ていた。白衣、と呼ばれるものだ。顔は良く見えない。いや、陰になっていて輪郭すらおぼろげにしか見る事は出来ない。ただ、眼鏡が部屋全体の光源を反射して、其の存在を主張しているだけだった。
 クロースには其の動物――白衣を着た人間が何故か男の人だと判った。そして、顔がはっきりと見て取れないのに、何故か其の男が笑っているのが判った。
 男は手を差し伸べ、言った。

「……さあ、おいで。お姉ちゃんは、もう行ってしまったよ。お姉ちゃんのところに行こうね。私も、一緒に行って上げるから」

 クロースは其の男の手を取って、未だあどけなさの残る声で言った。

「……お姉ちゃん? 何処へ行ったの? ……何処へ……行くの?」

 実際クロースが男の手を取ったのも、質問を浴びせかけたのも無意識の行動だった。
 彼女に自我などは存在しない。その様なものは、許されていなかったからだ。彼女にあるとすれば、周囲から受ける影響力により突き動かされる衝動、機械的な“心”だけである。彼女の周囲を囲んでいる白衣の人間達は、皆一様に「命令系統に対するニューロンの構築回路」とか何とか難しい言葉で表現していたが……。
 彼女の手を取った男は、そのまま部屋を出るべく壁と一体化した見えない扉に手を翳し開けた。魔法の力で見えなくしてある扉だ。鍵も魔法で掛けられたもので、魔法で開閉しなければならない。“子供達”には使えない、「ロック」と「アンロック」の魔法でなければ開けられないのだ。
 これほど厳重に監視しているのも、彼等白衣の者達の研究対象である“子供達”が国家規模の機密事項であるからだ。“子供達”の特殊能力を顕現すること、其れこそが彼等の専らの関心事だった。そしてその結果が、クロースであり、其の姉イリーズであり、其の他の“子供達”なのだ。
 扉を開けると、男はそのまま廊下を進んでいく。ここの壁の素材も、先程の部屋と同質で出来ているようだ。
 何処へ連れて行かれるのか。心に黒いわだかまりの様な物がとぐろを巻いていたが、男に導かれるままに着いて行くしかクロースには成す術が無かった。
 やがて廊下が途切れると、先程まで居た部屋よりも広い部屋に出た。広くて丸い空間、天井は先程の部屋よりも高い――いや、天井と見受けられる物は何も無かった。其の部屋は、クロース達が立っている地点を底辺とした、円筒状になっているのだ。そしてここもまた、白い石壁で出来ていた。上層からの明かりの為か、幾分かここの方が明るいが。

『高く上がれ。我等を運び去り給へ』

 韻が通常の会話時の言語とは異なる言語を、男は唱えた。クロースには唯の“音”にしか聞こえない。
 俗に言う、「魔法言語」というやつだ。よく魔法使いが呪文として用いている言語で、パワーソースからエネルギーを引き出す為の簡易的な儀式として唱えられる。稀に、今のように“鍵”として用いられることもあるようだ。
 “子供達”は、基本的な会話言語は教育されるが、このような「魔法言語」は教えられることは無い。故に、クロースには何を言っているのか理解する事すら出来ないのだ。
 男が呪文を唱えると、床が光に包まれ奇妙な浮遊感に見舞われた。そして円筒形の壁が下へ流れていく。床が、競り上がっているのだ。
 それは、この時代で「エレベーター」と呼ばれている代物だった。

 エレベーターによって上階に運ばれたクロースは、そこで大勢の白衣を着た大人達に出会う。
 皆一様に方々へ走っていて、何かの作業に追われている様だった。
 誰もクロースに目を向けるものなど居ない。
 否、白衣を着た女性がクロースに目を留めると、接近して来て何か話し掛けて来た。しかし、その言葉の半分も、クロースは理解する事が出来なかったが。
 クロースは男と女、二人に連れられるままに奥へと進んで行った。
 奥の部屋には、カプセル型のベッドが一つあつらえられていた。

「さあ、これが君の新しいベッドだ。今日から君は、ここで眠るんだ」
「……お姉ちゃんは?」
「お姉ちゃんは、先にこのベッドで眠りに就いたんだ。だから、君も安心してお眠り」

 男の諭しは子供騙しだった。
 誰でも、例え子供でも少し考えれば直ぐにでも判っただろう。考える力さえあれば。
 だが、クロースには自ら考える力など無いのだ。ただ、言われた事を鵜呑みにするしか選択の余地は無い。“命令”や“情報”こそが、彼女の全てであった。

「…………はい」

 そして、クロースは永久の眠りに陥るのだ。
 己が、封印された事さえ知らずに――。

 夢はそこが最終地点だった。
 そして再び、繰り返されるのだ。
 永遠とも思える時の中で。
 だが――。
 今度の夢は、何処か違っていた。
 夢の所々、端々で終始誰か――何者かに見られている、そんな感覚にクロースは付き纏われていた。
 そして、その“見つめる者”はクロースに手を差し伸べて来たのだ。

「ここは、夢の中だ。君にはもう解っているのだろう? さあ、帰ろう。君のあるべき場所へ――」


   
+*◆◇*+



 チグリが外出してから半日が過ぎようとしていた。
 外は日が落ちきって、もうすっかり暗くなっている。そろそろ梟や、夜行性の動物達が活動し出す刻限だ。人間の活動時間は当に過ぎている。その頃になって、ようやっとチグリが帰宅した。彼の後ろに控えているのは、クロゼンとオプナだ。
 室内に入ったチグリを迎えたのは、ユーフラの「お帰りなさい」と少しやつれた笑顔だった。
 チグリは、そのやつれた笑顔を見まいとするかのように目を少し逸らすと、「ただいま」を返した。
 そして、次に続ける。

「クロースの容態は?」
「……余り良くないわ。熱に浮かされているの。……あの子、まだ夢の中から出られないみたい」
「……夢?」

 唐突に質問を投げ掛けたのは、他でもないクロゼンだった。
 彼はなぜ自分がこの家に呼ばれたのか、其の謎を突き止めようと耳をそばだてている。大方の理由は予測してはいるが、彼らの口から本心を確認しておきたかった。そして、自分達の処遇の程も。
 以外というか当然というか、クロゼンの疑問に対し返って来たのは突き刺すような視線と、敵意に満ちた口調だった。

「今までクロースは夢など見なかった。それが、数日前突然夢の中に囚われてしまった。それも……お前たち魔法使いが来てからだ! 何かあると思わないわけが無いだろう」
「……ほほぅ。すると、儂等が彼女に対して、何かした、と?」

 チグリは、其のクロゼンの言葉を受けて無言の内に肯定の意を表した。
 室内は一瞬の内に緊迫が走り、空気が凍りついた。
 オプナは一瞬、時間と空間の狭間に落ち窪んだような錯覚に囚われる。冷たい汗が頬を伝った。
 皮肉にも彼女は、師クロゼンの事よりも、早朝の凍て付いた空気の中で歌っていたあの少女の事を思い煩っていた。これから少女の身に、何か不幸な事が起こるのではないか、と。それは予感めいたものだった。だが、的確に未来を捉えたものだった。オプナ自身自覚の無い、それは予言だった。

「ふんっ、儂等が何をしたと? 儂等はただ、あの子と話をしただけだ」

 現実に引き戻されたオプナは、ふと聞き慣れない言葉を耳にしたというような表情で師を見詰める。
 確かに私はクロースと話をした。
 だが、あの場に師は居なかったし、あの後も師とクロースが接触したなど覚えが無い。自分の知覚する範囲では。
 次にオプナは、怪訝な表情で師を凝視する。
 それは、一瞬の内に芽生えた僅かな疑惑の念だった。

「話を……しただけ、だと……?」
「待って、あなた」

 クロゼンの言動にいきり立ったチグリだったが、妻ユーフラの制止にすんでの所で落ち着きを取り戻す事に成功した。流石は鴛鴦(おしどり)夫婦、というわけだ。
 しかし、チグリには今一つ理解が及ばない事があった。
 なぜ、ユーフラが制止したのか。
 チグリの考えの及ばない所に、ユーフラの思惑はあったのだ。

「クロゼンさん、と言ったかしら?」
「ああ」

 ユーフラが気安く声を掛けると、クロゼンはふて腐れた様に憮然として答えた。
 其の様子を見て、オプナは込み上げて来る可笑しさを必死で堪えた。いつもの師の態度に、愛おしささえ感じる。こんな時に。

「私たち、今とっても困っています。娘が……目を覚ませないで居るの。それで、魔法の力で何とか出来ないかって。私達には、到底出来ないことですもの」
「ええ。私たちに出来る事なら何でも。……そうですよね、師匠」

 人の役に立てる出来事に、目を輝かせて応対するオプナ。
 基本的にオプナは、好人物なのだ。いつだったか師、クロゼンに「お前は人が良過ぎる」などと言われたものだ。
 其のオプナの嬉々とした様子を目の当たりにし、クロゼンは密かに嘆息した。「お目出度い奴だ」と。そして、「正月野郎」とも。いや、女性だから「野郎」ではなく「女郎」かなどと馬鹿な事を考えていると、クロゼンの鼻先を掠めてオプナがユーフラに近付いて行く。
「おのれ、オプナ儂を無視する気か!」とクロゼンが悔しがっていると、何時の間に移動したものやら三人は奥の部屋へと消えていた。
 クロゼンは、慌てて三人の後を追うことを忘れては居なかった。

 奥の部屋には少女が一人、ベッドに横臥していた。
 オプナは元より、クロゼンも、其の少女がクロースであるということは一目瞭然に理解出来た。
 しかし、今の病臥に伏せった様子はオプナがいつだかの早朝に出会った少女とは似て否なるが如きやつれ様だったので、オプナ自身俄かにはピンと来る物がなかった。

「……あ、ねぇ、君、クロースちゃん……よね?」

 戸惑い、呆然とオプナが呟いたその声を撥ね退けるように、クロゼンがクロースに近づいて行った。そして徐に彼女の額に手を翳すと、振り向かずそのままの姿態で呆然と立ち尽くす一同に向かって静かに言った。

「この子は、病に侵されています。……しかし、その病を特定することは、今の私達には出来ません。研究室に連れ帰れば、何とかなるとは思いますが……」

 姿態はそのままに、心痛な声音だけで相手を説得しようと試みるクロゼン。その声音だけでは、彼が演技しているに過ぎないのか真実を物語っているのか到底計り知れない。
 真意を測りかねて躊躇しているチグリに対し、クロゼンは追い討ちを掛ける。

「出来るだけ早い方が良い。でないと、手遅れになってしまいますよ……。そうだな……今夜の内にでも……」

 最後の語は、躊躇いがちに消え入る様に流れた。
 これは警告だ。
 オプナはふとそんなことが閃いた。
 その一句一句の内に、警告と忠告と提案が入り混じっている。オプナには、そんな気がした。長年師と付き合って来て未だに真意の見えない師匠ではあるが、声音一つでその時の気分を薄々察するほどには観察して来ているつもりだ。オプナには、そういう自負もあった。だからこそ、この様な得体の知れない師匠について来れたのだ。他の同僚や友達が離れて行ったとしても、自分だけは師匠と行動を共に出来ると。それは確かな自信でもあった。しかし――。

「今夜は、少し急過ぎやしませんか?」

 不本意にも口を挟んでしまう、オプナ。
 何故だかは本人にも解らない。だが――。
 オプナの内に芽生えた極々僅かな反抗心も、クロゼンの一睨みで萎えてしまう。そんな自分に遣り切れなさを募らせるオプナは、同時に不思議な感情に囚われていた。
 何故、自分は――。


    
◆◇◆



 “声”が聞えた。
 夢の中において、それは夢ではあり得ない確かな存在感を得て響いて来た。まるで物質、そこに存在しているかのような、そんな“声”だった。
 その“声”は確かに言ったのだ。

――さあ、帰ろう。君のあるべき場所へ……。

 と。

「私の……あるべき場所……?
 私のあるべき場所は……ここ……」

 クロースの答えを聞いて、“声”はくすりと嗤った。

「あるべき場所はここ? 違うな。君のあるべき場所はもっと別の場所にある。此処とは違う場所。そう、私ならば、君をそこへ連れて行ってあげることが出来る」
「違う……場所……? ……連れて……行く……?」

 クロースは其の“声”の主が、先程から自分を“見詰めていた者”と同じ者だという事に薄々気付いていた。そして此処が夢の世界で、そう長居は出来ないという事も。しかし、同時にこの“永久なる夢の世界”が、かつて自分が本当に体験した事実であること、また自分が本来はこの世界に属するものだということも体感していた。
 今の己に違う世界などあり得ない。だからこそ、自分のあるべき場所は此処なのだと、クロースはそう思っていた。
 だが、この世界にも違和感を感じずには居られなかった。
 この世界もまた違うのかと、クロースは正直な所少々混乱を来たしていた。毎回同じ事の繰り返される世界。現実ではない日常。出口のない迷宮……。
 そんなクロースの“惑う心”を鷲掴みにしたのだ。“声”の主、“見詰める者”は。

 遥か遠くに光点が見える。
 クロースにとってそれは、希望の光に見えた。其処に行けば何かがあると、そう予感せざるを得ない何かがそれにはあった。
 クロースは躊躇いがちに一歩を踏み出した。
 遥か遠くに光り輝いている、それに向かって――。


    
◆◇◆



「呪い……?」

 別室で控えるように言い付けられたチグリが、懐疑的に口を開く。
 其の決して広いとは言えない部屋には、チグリとユーフラ、それから何故かオプナの姿があった。オプナには、師クロゼンの行動に対する一抹の不安があったが、ともかくこの場は師匠に従ったのだった。

「ええ。憶測でこんな事を言うのはいけない事だと思うのだけど、……恐らくクロースちゃんは……何者かに……師匠に……」

 オプナが自分の憶測を並べ終わらない内に、扉が軽く叩かれる。
 扉の向こうに立っていたのは、治療と称する何かを終えたばかりのクロゼンだった。
 無言のままに息を呑むオプナ。

「……あ、師匠、お早いですね。治療は……」
「帰るぞ、オプナ」

 クロゼンはオプナの言葉を遮ると、単刀直入にしてぶっきら棒にそう言い放った。オプナは一瞬理解出来ずに、呆けている。其の顔は恐らく、間抜けの極致だっただろう。オプナはそう感付いて、瞬間的に驚きを言葉に切り替える。

「……え!? また、そんな、急に!? クロースちゃんはどうするんです!??」

 オプナの驚愕の声も、クロゼンの一睨みで掻き消される。しかし、その場に居合わせたチグリ、ユーフラ両名の疑惑は消え入ることは無かった。

「おい、あんた。ここでは治療は出来ない、とでも言うつもりじゃないだろうな……」
 
 凄みを効かせるチグリ。だが、その一睨みも、齢を重ねたクロゼンには効き目が無かった。そればかりか逆に睨み返されてしまった。

「ああ、そうさ。此処では治せん。病が特定出来ぬでな。じゃから、矢張り儂等の研究室に連れ帰ることにした。……文句は言わせんぞ」
「……勝手な……」

 クロゼンの身勝手な言葉に不本意にも口走ったのはチグリでもユーフラでもなく、オプナだった。オプナ自身信じられない面持ちであったが、師であるクロゼンはもっと驚いた。驚愕の視線をオプナに注ぎ込む。

「親元から子を離すなんて……そんな事、許される筈無い……」

 オプナには薄々解っていた。自分の師が何を目論んでいるのかを。だからこそ、反対の意思を表明して見せた。自身の持論を、信条とする事柄を表面に押し出したのだ。家族が離れ離れになる事は、これ以上無いと言うほど不幸な事だ。共に血の繋がりがある家族が別れ離れになるのがどれ程辛い事か、寂しい事か、オプナは自身の体験から、それを痛いほど理解していた。だからこその、反論だった。精一杯の。

「オプナさん、どういう事だね?」

 不審に思いながらもクロゼンの意図するところに思い至らないチグリは、オプナに問い質す。
 不安が最高潮に達していたオプナは、風を切る速さでチグリの質問を受け流しながら部屋を後にした。目指すはクロースの眠っている寝室だ。「何をする気だ、オプナ!」というクロゼンの怒号が、後ろに尾を引いていた。

「クロースちゃん!」

 扉を開けた瞬間、オプナは自身の目を疑った。
 クロースが、ベッドの上に起き上がっていたのだ。起き上がり、座っている。だが、目は開ききっておらず、半分夢の中にいるような感じだった。

「クロース……ちゃん?」

 微妙に声が上擦ってしまうのは、疑念が生じていたからである。オプナの中に芽生えた疑念――本来ならばしてはいけない、師であるクロゼンへの嫌疑。それはクロースが、自身の意識を保っていないのではないかという疑いであった。
 しかしその疑惑は、次のクロースが幽かに発した言葉で融解するのであった。

「お姉……さん?」
「クロースちゃん」

 オプナはクロースの言葉を聞いた一瞬間に、相好を崩した。胸を撫で下ろすと、クロースに近付き優しく抱擁する。しかし、その瞬間彼女の表情は硬くなった。

(…………っ!? 魔法!?)

 オプナは、クロースに魔法が掛けられているのを触れ合った瞬間に感知した。
 魔法感知。魔術師ならば必ず身に付ける、初歩的な技術の一つである。それを、オプナは無意識の内に発動させてしまうのだ。一種の癖ともいえる、それのお陰でクロースに掛けられた魔法を感知したのだ。
 今現在クロースに掛けられている魔法、それは“マリオネット”の魔法だった。
 “マリオネット”の魔法とは、相手の精神に干渉して束縛し、術者の意のままに操る魔法である。夢見の魔法との混合でよく使われるこの魔法は、儀式魔法の一つである。元来簡易的な儀式を要する魔法であるが、クロゼンはクロースの身体に直接触れることにより、儀式を省略してで魔法を掛けたようである。長年のクロゼンの研究成果とも言えよう。
 卑劣ともいえる師のその行為に、オプナの怒りは沸点を超えた。振り向きざまに師を睨みつける。最早目上の者を敬う精神など、何処吹く風だ。自分の信念に反する事をした男を、敬う事など出来ない。そう判断したオプナは、一瞬にして反旗を翻した。

「師匠! いくらなんでもこれは、あんまりです!!」

 声を荒げるオプナ。不本意にも、師匠に対して食って掛かる。
 と、その時思わぬ所から声が上がった。

「私の帰る場所は、ここじゃない……。私の家はここじゃない……」

 虚ろな瞳を宙に泳がせながらクロースが言葉を紡ぐ。完全に心を牛耳られている風体だ。本当に覚醒しているのかどうかさえ、怪しいものがある。

「クロースちゃん! ここは貴女の家なのよっ! 貴女はここに居ても良いの!」

 心が詰まる思いで、必死に呼び掛けるオプナ。それでも、半分でも声が届いているかどうか怪しいものである。

「くっ!」

 後からやって来たチグリやユーフラにクロースの現状を見せない為にも、オプナは最終手段に出る事にした。

「魔法解除[ディスペル]!」

 魔法そのものを打ち消す魔法を使った。これにより、クロースに掛けられていた精神魔法“マリオネット”の効力は喪失した。
 クロースは我に返って、青灰色の硝子玉のような瞳を一際大きく見開いて呆然とオプナを見遣る。まるで今始めてそこに居ることに気が付いたかのごとく、暫く直立不動で真っ直ぐ見詰めている。

「クロース!」

 続けて部屋に入って来たユーフラが、クロースの傍に駆け寄る。何が起こっていたのか解らぬまま、ただ今のこの状況が何か良からぬ事が解除されたのだと直感で理解してクロースを抱き寄せる。

「……私の家は、ここ。……私は、ここに居て良い。……痛いよ、おかあさん」

 ユーフラはもう二度と離さない決意を表すかのように、クロースを強く抱きしめる。

「フフッ。ごめん、クロース……」

 そう言うと、今度は柔らかく抱きしめ直すユーフラ。
 その様子を静かに見ていたクロゼンは、小さく舌打ちすると踵を返した。徐に扉の向こうに歩み去る。

「?」

 師の突然の行動に、オプナは不審に思った。
 今までの事がある。これから何をしでかすか、解らないのだ。今の師は多少暴走気味だ。だからこそ、放っておく訳にはいかなかった。
 慌てて後を追うオプナ。

「待ってください! 何処へ……?」
「そうか。こんな家があるからいけないのだ。この家が邪魔をしている。彼女の帰るべき、場所を作っている。ならば、フフフ。ならば、消してしまうまでだっ!」

 クロゼンの呟きを耳にした途端、オプナは嫌な予感を覚え戦慄した。そして、その予感は的中した。
 クロゼンは、徐に呪文を口ずさむと、玄関の前で杖を天井に向け振った。一瞬の後に炎が燃え広がる。丸太を組み合わせて構成されている天井から、壁にかけて炎が燃え広がった。家の中を火が嘗め回して回るのにさして時間は掛からなかった。洗物が乱雑に重ねられた流しを焦がし、木製のテーブルを一瞬で炭にする。炎の足は着実に、クロースの寝ている寝室へと伸びていた。
 クロゼンとオプナは透かさず扉の外へと転がり出て、炎が燃え盛る家を振り返る。

「ワハハッ! 燃えろ! 燃えろ! こんな家! 燃え尽きてしまえっ」

(狂ってる……)

 オプナはそんな師匠の言動を目の当たりにして、彼の正気を疑った。そして同時にクロース達の安否も気遣うことを忘れなかった。

(クロースちゃん……)

 逆巻く炎を目の当たりにして、オプナは居ても立っても居られない衝動に駆られていた。

「師匠! この炎では、クロースちゃんも……無事では済まないでしょう!?」
「ああん? 何だ、その事か。彼女の事ならば心配ない。彼女には、魔法が効かないからな」
「え!?」

 オプナは自分の耳を疑った。
 魔法が効かないとはどういうことか。通常の人間ならば、魔法が効かないなどということは有り得ない。超自然の具現である魔法を無効化する方法など、今のところ開発されたという報告は聞いていないからだ。どんなにシールドを硬く張ろうとも、いつかは脆く崩れ去ってしまう。ましてや、クロースは魔法を知らない少女なのだ。
 師に、問い質すことを試みるオプナ。

「……魔法が効かないとは、どういうことですか?」
「彼女は魔法が効かない、正確には魔法を遮断してしまうようなのだ。精神に直接働きかける魔法ならば効くが、それ以外の、物理的作用を及ぼす魔法はことごとく遮断する。言わば、絶対的な魔法防御壁とでも言うかな。物理的なものはどうか知らないが……それを探求するためにも彼女はぜひとも必要なのだ。絶対に手に入れなければ……。絶対に……」

 クロゼンの最後の語句は、陶酔の内に溶け込んだ。
 オプナは師の、陶酔し婉然と笑むそのさまを目の当たりにし、慄然となった。自分が何とかしなければ。自分が、師のこのイカレた行為を止めなければと、居ても立っても居られなくなったのだった。

「師匠! 貴方は……貴方は、間違っています!!」

 決死の覚悟で、師の行いを否定するオプナ。叫んだその直後には、火の中に飛び込んでいた。半分は、無意識の内に。もう半分は、自分に何が出来るかを自覚して。
 口の中で小さく呪文を呟く。
 途端に、オプナの周囲を水の結界が覆った。大気中の水分を一点に集め、凝縮して水の幕を作ったのだ。水の盾[ウォーター・シールド]の応用版だ。本来水の盾は術者の前方180度の角度にしか張れない。だが、今回オプナが使った水の盾は術者の周囲360度を包囲している、完璧な球体だった。オプナの研究の成果の一つである。
 その水の球体に守られる格好で、オプナは炎の海に飛び込んで行った。

「ぬ……オプナ、勝手な真似は許さんぞ……」

 後に残されたクロゼンは、歯軋りしつつ見送るしかなかった――。


    
◆◇◆



「クロースちゃん! チグリさん! ユーフラさん!」

 水の盾に守られながら、オプナは必死になってクロース達を探した。
 入り口を抜けると程無くして台所に行き当たる。中央に食卓があり、少し奥まったところに暖炉があったが、既に其処は火の海と化していた。家具や調度品を嘗め回すように燃え滾る炎を尻目に、奥の間へと、先程まで居たクロースの寝室へと向かうオプナ。火の巡りは早く、既にクロースの手前に位置するチグリとユーフラの寝室にまで及んでいた。当然、向かいの空き部屋は既に火の海だろう。
 オプナは躊躇無く一番奥の部屋――クロースの寝室の扉を開け放った。その扉はまだ、火の手が及んでいないようで熱を感じない。しかし、それも時間の問題だった。

「クロースちゃん! 無事!?」
「どうしたんです? オプナさん……。……っ!?」

 クロースの代わりに答えたのは、チグリだった。そして、チグリは見た。開け放たれた扉の向こう、オプナの背後から迫り来る炎の海を。
 ユーフラもつられて振り返り、息を呑む。
 クロースはまだ意識がはっきりしていないのか、虚ろな瞳を宙に彷徨わせているだけであった。

「クロースちゃん、チグリさん、ユーフラさん! 逃げるわよ!」
「一体、何があったんです? この火の海は?」

 チグリは今一つ事情が飲み込めず、オプナに問い質す。凡その見当は付いていたが、確信を得たかったのだ。

「師匠が……! 師匠が、炎を放ったのです!」

 未だに信じられないという思いで溢れ返った表情で、オプナは顔を伏せて言い放った。イカレてしまった師匠を止める事が出来なかった自分自身を責めている、その悲痛な表情からそう読み取れた。
 ユーフラはそんな彼女に歩み寄り、労わる様に抱きしめる。

「大丈夫よ。誰も貴女を責めたりなんかしない。貴女は、少なくとも、私達を助け様としている。だって、自分の命も顧みないでこんな炎の海に飛び込んで来たんですもの。貴女は、優しい人。それは解っているから、自分を責めたりしないで」

 最後に「ね?」と微笑を向けられて、オプナは少し心が解れるのを覚えた。そして、微笑を返す。

「……そう、ね。ありがとう。ユーフラさん……」

 思い直し晴れやかな顔で、オプナは三人に一箇所に集まるように言うと、先程自分に掛けたのと同じ、水の盾の呪文を唱える。
 球体に展開されたそれは、三人を包み込むと、伸びてきた炎の舌から身を守ってくれた。

(それにしても……さっき師匠が言っていた、クロースちゃんの中にある力って……魔法を遮断する力って……一体……)


    
◆◇◆



 丘の上に立った時、村は火の海に飲まれていた。
 これほどの事をしでかすのは師匠しかいないと、オプナは思った。
 チグリとユーフラは、村の人々を助けるんだと言って別れた。オプナにクロースを託して。それだけ、オプナの事を信頼しているという事なのだろう。
 クロースは只呆然と立ち尽くし、炎に煙るガロウズ村を見下ろしていた。無表情はそのままで、硝子玉のような瞳は曇らせる事も無く。

「……あー……クロースちゃん。気持ちは解るわ。その……」

 オプナは掛ける言葉を見失い、語尾を濁らし苦笑いを浮かべるしかなかった。

「…………村が…………家が、燃えてく……」

 涙を流すどころか無表情に、紅蓮に染まる村を見詰めるクロース。只一点を見詰め続けるその様は、思い詰めているようにも見えるが、何も感じていない様にも見える。

「クロースちゃん……あの、悲しくは無い、の? その、家が、燃えてしまって……」

 オプナは好奇心から、今は質問する事自体憚られるような疑問を口に乗せてしまう。

「悲しい……? 悲しくなんて……ない。だって、お姉さんがいるし、それに…………私には、帰るべき場所があるから…………」

 振り向きそのまま歩き出すクロース。紅蓮の炎に照り映えるその顔は、色素が薄い分だけより美しくより冷淡に見える。

「帰るべき場所!? って、それ、どういう……」

 歩き去ろうとするその彼女に、オプナは戸惑いを隠せず上擦った声で訊ね返す。
 が、答えは返って来なかった。
 答えの代わりに、クロースは数歩進むと、首だけで振り返り軽く言ってのけた。

「……家に、帰るの。帰るべき場所に……」
「帰るべき、場所……?」

 眉間に皺を寄せて怪訝な表情を作りながらも、オプナはクロースの後に付いて行かざるを得なかった。
 託されたからには――。


   
◆◇◆



 緑深き町、ポポル。
 その遺跡は、ポポルから程無く森に入った場所にあった。

「……私の家……本来あるべき場所……」

 クロースがそう表現したその遺跡は、白を基調とした簡素な遺跡で所々崩れてはいるが元々は何かの研究施設であった事が窺える。入り口に当たる四角く切り取られた穴の上部には、古代文字で“保育園”と書かれている。風化して、半分消えかかってはいるが。

「…………ここが、あなたの家……?」

 オプナは、初めて見る遺跡に半分飲まれていた。
 其処に満ちていたのは、圧倒されるほどの黴臭と時を刻むのを忘れ去った空気だった。オプナが初めて足を踏み入れる場所であり、クロースにとっては懐かしい場所だ。クロースはオプナの方を振り向きもせず、懐かしむように建造物を眺めやり呟いた。

「…………そう、ここが、私の家。……私の住処……」

 少し、ほんの少し笑っている様にも見えるクロースを眺め遣りながら、オプナは微笑ましささえ覚えていた。一緒に行動するようになってからまだほんの少ししか経っていないのに、いつの間にやら我が子の様に感じている自分が其処に居た。本当に不思議な子ね、とオプナは苦笑せずには居られなかった。
 二人は、瓦礫と埃まみれの屋内に足を踏み入れる。当然、クロースが先頭に立って。懐かしむように一歩ずつ踏み締めながら歩くクロースを見詰めながら、自分は瓦礫に足を取られない様に注意して歩くオプナ。オプナはクロースの親代わりになる、ということを改めてその身に染み込ませていた。これからは、自分がクロースを保護していかなければいけないのだと。そう考えながら歩く内に、遺跡はいよいよもって暗部が増し、暗闇に沈み込むように外からの光が届かないところまで来てしまった。

「いつの間に、こんなところまで…………明かり[ライト]!」

 オプナが小さく呪文を呟き手を翳すと、拳大の燐光を発する球体が掌の上に浮かび上がった。それを頭上に放ると、それは周囲に光を発しながら一定の高さで浮遊する。術者であるオプナが動けば、それも同じ様に漂っていくという寸法だ。これは、明かりの魔法でごく初歩的な魔法である。基本中の基本で、オプナはこれの応用技もいくつか持っている。
 新たな光源を得て明るさを増した屋内は、何処も朽ち果てていた。天井が落ちたのか、床に瓦礫が山のように積み重なっており、月日の積み重ねの末に積もった埃は白さを浮き立たせていた。元々白を基調に建造された建物なだけに、降り積もった埃がより一層白を強調している。それはまるで白い絨毯の如く、長い年月を醸し出していた。
 その白い絨毯の上に新たな足跡をつけて、クロースが奥へと進んでいく。暗さなどまるでものともせず、勝手知ったる我が家のように暗がりの方へ、遺跡内部の奥へと歩を進める。迷いも躊躇いも何も無く。

「クロースちゃん、何処へ行くの?」

 不安に駆られたオプナが質問を浴びせ掛けるが、クロースはまるで耳に入っていないかのごとくそのまま進んでいく。ただ真っ直ぐに。

「ちょっと……待って……!」

 オプナは慌ててクロースの後を追った。


    
◆◇◆



 オプナの目の前には、不思議な装置が鎮座していた。
 卵形のそれは、既に何者かが開けたのだろう、硝子張りの蓋が上部に上がっていた。幾重にも重なる紐だか管だかが、卵形の装置から壁の方へと吸い込まれるように繋がっている。装置の下部、正面には金属のプレートが嵌め込まれており、『CLOSE』と古代文字で刻み込まれていた。オプナは古代文字の専門家ではないので、意味は元より読み方なども解らないが、それがその装置か装置の内に有った何者かの名称なのではないかと推測する。
 クロースは装置の手前で立ち止まると、徐にオプナの方に振り向き言った。

「……私の、家。…………私の、ベッド……」

 恐らく装置の事を指して言っているのだろうと、オプナは推察した。

「それが、貴女の――」

 オプナの言葉は、後方から迫り来る哄笑に掻き消された。

「クッハハハハ! 見つけたぞ! オプナ!」
「っ!? しまった! さっきの魔法を感知されたか!」

 魔法感知能力。
 魔法を使った時に発する波動のようなものを感知するもので、魔術師ならば誰でも身に付ける基礎能力である。
 この遺跡に入るときに使ったライトの魔法を感知してやって来たのは、クロゼンがクロースとオプナを探索する為に手配した魔術師の一人であった。黒いローブを目深に被って、表情は良く見えない。ただ、哄笑を響かせている所を見ると、下卑た笑いをその顔に刻んでいるであろう事は推察することは容易に出来る。

「くっ! もう手配が回っていたのね。我が師ながら、素早い手の回し様だこと……!」

 諦めの悪い師に、ある種の凄さを思い知らされ、舌を巻くオプナであった。

「クロースは離れてなさい!」

 オプナのその一言から、戦いの火蓋は切って落とされた。



 オプナは躊躇うことなく、素早く呪文を唱える。唱えた呪文は――。

「氷結[フロスト]!」

 オプナが唱えた呪文は、相手の足元に氷の結界を張り凍りつかせる魔法である。これにより相手の動きを封じ、その隙に逃げようという魂胆だった。しかし――。

「魔力遮蔽!」

 相手もそれを読んでいたのか、魔力を遮断して魔法そのものを無力化する魔法を放ってきた。

「くっ!」

 オプナは悔しそうに歯軋りする。
 魔法使い同士の戦いでは、不意を付いて先手を打った方が勝ちとなる。呪文を唱えなければ発動しない魔法でしか戦う術が無い以上、先手を取ることが必要不可欠なのだ。その先手を取ることが出来なかった。これは、自らを不利に追い込んだようなものだ。相手は入り口付近に居る。対するこちらは部屋の中央に居て、退路を絶たれた格好になっている。
 しかし、そんな不利な状況でもオプナの次の呪文は決まっていた。

「氷の矢[アイスアロー]」

 オプナの目前に数十本の氷の矢が出現する。軌道は直線的ではあるが、少し呪文を弄ってある氷の矢である。通常は相手に当たった瞬間に氷が弾けるが、この氷の矢は相手を張り付かせるために弾けることは無い。更に、軌道修正が効くのだ。
 対する相手の呪文は――。

「炎塵[フレイムダスト]」

 これは、無数の塵をばら撒く魔法で、塵に触れたものは瞬時に発火、炎上してしまう魔法だ。刺客の男は予め、オプナがアイスアローを唱えてくるのを予測していて目前に塵をばら撒いたのだ。アイスアローが降り注ぐと、塵に触れ瞬時に発火し炎上、蒸発するように手を打ったのだった。
 悔し紛れに唇をかみ締める、オプナ。だが、一度発動した魔法を取り消すことなど出来ない。
 無数の氷の矢は、刺客の男に向かって飛んで行きそしてその目前で瞬時に爆発し、蒸発する。攻守共に優れた戦術だ。これにより、オプナ達の逃げ道を塞いだも同然なのだ。
 男は何の躊躇いも無く魔法を繰り出してくる。まるで、クロースが魔法を弾く障壁を張れる事を知っているかのごとく。

「やはり、狙いはクロースか……」




 オプナは不思議に思っていた。
 先程から黒ローブの男は、炎系の魔法、それも爆裂系しか使って来ていない。まるではなからそれ以外の魔法は使う気が無いのか、或いは知らないようである。

(……まさかとは思うけどね)

 オプナには、そんな彼の呪文構成に思い当たる節があった。

――“爆裂のバウンズ”

 爆裂のと異名をとる彼ならば、この攻撃方法も納得できる。オプナは瞬時にそう勘繰った。そして、もしそうならば――。
 打つ手は決まっている。

「爆裂の魔法しか使わないって、解っているなら!」

 オプナはそう叫びながら、クロースの脇に滑り込む。

「……クロース、逃げるわよ」

 小声でクロースに囁いた後、呪文を口ずさむ。口ずさんだ呪文は――。

 バウンズは馬鹿の一つ覚えのように、爆裂燃焼系の魔法を唱えてくる。今度は火球[ファイアボール]を放って来た。そう来るだろうと予め予想していたオプナは、逆に冷却系の呪文を解き放つ。

――氷結地獄[フロストダイバー]!

 それも相手に向けて放つのではなく、ファイアボールの着弾点に向けて。
 燃焼系の魔法で加速度的に早められた分子運動は、冷却系の魔法で急加速で減速していく。熱で膨張した空気が、急激に冷やされて――爆発した。周囲は水蒸気に埋め尽くされる。視界は殆ど零に近い。

(今だ!)

 オプナはクロースの手を引こうとして――、行動を止[とど]めた。
 クロースが逆にオプナの裾を引いていた。まるで、こちらに来い、自分に付いて来い、とでも言わんばかりに……。

(……? 付いて来いって言ってるの?)

 他に出口は無い筈。一体どこへ連れて行こうとしているのか――。オプナは半信半疑で、クロースの後に付いて行く事にした。取り敢えず、それしか道は無いようだから……。


   
◆◇◆



 クロースに連れられて出た場所は、廃園のような所だった。所々に草むらや樹木が生えており、花壇なども点在していた。そのことごとくが枯れ果てていたが。中央部には所々崩れてはいるが、子供の遊戯施設も見受けられる。床にはひび割れたタイルが敷き詰められているが、矢張り所々地面がむき出しになっていたりする。硝子張りの天井が崩れたのか、地面には光を反射して煌く硝子の破片が落ちている。
 そこは昔、庭園だった所だ。クロースが作られた時代、彼女の姉と友達たちがまだ健在だった頃、そこは“子供達”の遊び場だった。大人達からは“遊技場”と呼ばれていたが。

「……こっ、こんな場所があったなんて……」
「…………ここ、抜ける。外に……出られる……」

 周りの風景に圧倒されて言葉を失っているオプナに、クロースが事も無げに告げた。さも当然の如く。

「え? 外!? 今、外に出られるって言ったの?」

 再度確認するようにオプナがそう切り出す内にも、クロースはどんどん先へと歩いて行ってしまう。確実な出口を知っている事を意味しているように、その足取りはしっかりしていた。

「ちょっと、待ってよぉ」

 急いでクロースの後を付いて行くオプナ。
 奴に――爆裂のバウンズに気取られないようにするには、もう魔法は使えない。オプナは必死だった。自分が生き残るために。そして、クロースを守る為に……。


 廃園のドーム状になっている硝子に出来た亀裂から抜けて出た所は、崖っぷちだった。この施設は、高台に建てられたものだったのだ。丁度ポポルの町を見下ろす位置にオプナ達は居た。
 そのポポルを見下ろしながら、吹き上げる風に煽られる髪を掻き纏めオプナは言った。

「私、髪の毛を染めるわ」

 クロゼンからの追っ手から逃れるために、元々黒かった髪を紅色に。
 それに、師からの決別の意味も込められていた。
 オプナの顔に、薄く笑みが張り付いていた。やや自嘲気味の笑み。それは、これからの波乱の人生を物語っているようだった。


本家リレーへ続く

Copyright (c) 2004 shun haduki All rights reserved.

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