魔物に喰われた




「起立、礼。ありがとうございました」

学級委員長の号令で一斉に頭を下げた後、俺は僅かな筆記用具が入った薄汚れた茶色の鞄と図書館で借りた本を手に教室を出る。

片手で本を開き、休み時間の時に読んでいた所を探し、続きに目を走らせた。

放課後ということもあり廊下は騒がしいが、所々掠れた印字の内容はしっかりと頭の中に残っている。

丁度学校の敷地内を出た辺りで、後ろからドタバタとした五月蝿い足音と道に敷かれた砂利が擦れる音が耳に入った。

「おーい、シューン!」

呼ばれたことに本から顔を上げて振り返れば、いつも以上に元気な幼馴染が走ってくる。

「なんだ、ダン」

「おっす授業お疲れ!ってことで良い場所あるんだぜ?」

良い笑顔で洒落てるつもりなのか、ウインクを飛ばしながらそう言ったダンを横目で見やった。

「……また詰まらない猥褻物でも置いてある場所じゃあないだろうな」

「わ、猥褻物って、ばっ、おま……!あれは俺だって知らないで行ったんだつーの!」

この間ダンに誘われるままに行った場所を思い出してそう言えば、ダンは羞恥と怒りで顔を赤くしながら自棄になって俺に言ってくる。

しばらくしてから、とにかく!と言って話題を変えたと思うと、本を持っていない方の腕を思い切り引かれて、体は家の方向と全く逆の方へ向かって加速した。

溜め息を吐きたくなった気持ちを飲み込んで、本を皺にならないように気をつけながら鞄に放り、ダンの隣に並び、走る。



「ダン、そんなに急がなくても良いんじゃないのか?」

今日は担任の先生が体調不良で欠席だったため、少し早く授業が切り上げられた。

いつもなら時間がなくて、どこかに目的を持って行くときには今日のよう急ぐが、こんなに時間がある日に急いでいるダンは珍しい。

「駄目なんだよ!あいつらすぐ帰っちまうんだ!」

あいつら、と上機嫌で言う横顔を一瞥していると、次の瞬間驚きの色を含んだ奇声を上げながら、その表情が視界から消えた。

「……大丈夫か?」

少し進んだ所で振り返れば、自分より後方で見事に顔面から転んだダンが立ち上がる。

「あー、ちょっと痛えけど大丈夫だ!ほら行こうぜ!」

擦り剥いた額さえもそのままにまた走り出したダンの頭に学生帽がないのに気づき、足元に転がっていたそれを拾い上げて追いかけた。



「よっす!」

ダンが挨拶と共に押し開けた少し古めの扉には鈴がついているのか、りりーん、と風鈴とは違う西洋の丸みのある音を鳴らし来客を知らせる。

「いらっしゃいませ!あら、ダン」

橙の明かりで照らされた店内にいた、同色の跳ねた髪を持つ同い年くらいの少女が振り返り、笑みを浮かべて寄ってきた。

「へへっ、今日は間に合ったみたいだな!」

「今日も来てくれて嬉しいわ、と、後ろはお友達?」

ダンの後から遅く来店した俺にその少女は首を傾げる。

近くで見れば女子には珍しい勝気な猫のような形、しかし品がない訳ではない目に疑問の色を浮かべてこちらを見ていた。

確かに、学生服を着崩し、学生帽もすっ飛ばすような性格のこいつと、未だに羽織と袴姿で草履を履いて出歩く俺とは表面だけでは友達かどうかも疑われて当然だと思う。

「こいつがこの間話してた幼馴染の風見駿!」

「何を話したんだお前」

変なことを言ってないだろうな、と睨みを利かせればダンはへらりと笑った。

「ダンは変なことは何一つ言ってないわ、ただ、抹茶が好きな渋い奴とか、忍術が使えるとか、小等学校のときは髪が長くて女の子に間違えられてたとか、そんなお話よ」

「……ダン」

「げ、おい、なんでシュン怒ってんだいってええええ!!」

さっとダンの腕を捻り上げれば痛いやめろ放せと暴れ、その様子を見ていた少女はくすくすと笑う。

「私はミラ。このお店で働かせてもらっているの、好きに呼んで頂戴」

お客様、お席はこちらです、といきなり店員の仕事に戻り、ひらりと揺れるふわりとしたエプロンを翻して俺たちを誘導した。



穏やかな店内の雰囲気を楽しんでいれば、派手な頭の男子が人当たりの良い笑みを浮かべてやって来る。

「こんにちはっす、ダン先輩!」

そいつは伝票を握り締めたまま、真っ先にダンに挨拶をして腰を折った。

桃色の髪は横長の布か何かで上げられていて、店の制服の袖を折り上げている姿がとても似合っている。

「今日はバロンもいたんだな、あ、こいつが風見駿な!」

またダンが俺を紹介すればバロンという男子がシュン先輩っすね、よろしくお願いします!と再び深く腰を折った。

そうしてしばらくの間、なぜか店員のバロンと雑談に花を咲かせていたダンは、店内にある大きな掛け時計を一瞥して口を開く。

「なあ、エースはいないのか?」

「え?あれ?今日は来ていましたっすよ?ダン先輩会ってないんすか?」

新しく出てきたエースという名前を残したまま、バロンは首を傾げつつ奥へ戻っていく。

あいつ、結局注文をとっていかなかったが、良かったのだろうか……?

「ダン、エースとは……?」

話の流れ的に、そのエースという人はこの店で働いているか、まあ関わりのある者だろう。

しかしそれだけでは全くわからないのでダンに尋ねた。

「エースはここの店員の一人で、一匹狼で猫みたいな奴、かな?」

よくこの店の書庫に篭ってるぜ、と言って組んでいた腕を解き、店の奥の方に向かってミラ、水くれー!と手を振る。

「はい、お待ちどうさま」

少しして、丁寧に俺の分の水も持ってきてくれたミラを引き止めた。

「……ミラ、ここには書庫があるのか?」

「ええ、地下にあるわ。私の父と兄が生物学の研究員なの。それで古くなった本をここに置かせてもらっているのよ」

だから内容的にはとても偏ってるけどね、とミラが肩を竦めると店の奥の方でバロンの声が上がる。

直後、大きな足音がしてバロンがミラの隣に並んだ。

「ミラ!エースがもう帰っちゃいましたっすよ!」

ほら!と見せてきたのは小さな紙切れで、そこには黒鉛の走り書きが残されてあり、最後にはAという記号が書いてある。

それを見たミラは肩を落として溜め息を吐き、まったくもう、と呟いてなぜか俺に向き直った。

「ごめんなさいね、今日はエースとは会えないわ」

それをなぜ俺に言う?と思いながら、構わないと言って汗をかいたグラスから水を含む。

隣ではダンが机に突っ伏していた。





それから数日して、俺は再びダンと共にあの店を訪れ、耳に心地良く残る出迎えの音を聞きながら中に入った。

「いらっしゃいま……っ!」

店内にいたのは女子が二人、片方はミラで片方は始めて見る人だ。

初対面の人間は俺、ではなくダンを見て言葉を失ったのか、しまった、と言いたげな顔で固まっている。

それにやっとダンが気づいたのか、何度か瞬いた後、盛大に吹き出した。

仕舞いには、そいつを指差しながら空いている方の手で己の腹を抱え大声で笑い始める。

何がなんだかわからないまま突っ立ていると、その指差され大笑いされていた人が怒った顔で歩み寄ってきて、女性用の制服である袴とエプロンを揺らしながら俺たちの前に仁王立ちした。

女子がこういう行動をするのはどうかと思うが、もう少ししとやかにすべきだとは思う。

「ダン、笑うんじゃあねえ!」

「……男だったのか」

声音と口調に思わずそう呟いてしまった。

褐色染みた肌と怒っているせいもあるのかミラ以上にキツく釣り上がった目尻と整った顔立ち。

パッと見は、どこかの気の強い令嬢にも見えなくもないが、この近さで見れば確かに彼は男だった。

しかしなぜ女性用の制服を着ているのか……。

「エースなんだよその格好!すっげー笑える!似合いすぎだな!」

爆笑しながら褒めているのか貶しているのかよくわからないことを言うダンに彼は鉄拳をお見舞いした。

鈍い音がして、俺が唖然としている間にダンは頭を押さえてその場に蹲っている。

「この野郎それ以上何か言ってみろ!身包み剥がして店の前に放り出すぞ!」

「ちょっと、エース!そんなことしたら店の評判が落ちるだけじゃない、絶対にやめて」

こんな状況なのにのんびりと机の拭き方をしていたミラがそれだけ言って店の奥へ戻っていった。

「お前がエースか」

一匹狼の猫とは少し違う気がして、ふむ、と考えると誰だてめえ、と言葉が返ってくる。

「風見……」

「風見駿。俺の幼馴染だぜ、前に話しただろ?」

いい加減俺の自己紹介くらい俺にさせろと言いたくなったが、復活したらしいダンがエースに笑った。

エースは少し思い出すようにしてから、ああ、と頷く。

「お前、本好きなんだってな」

「あ、ああ」

いきなり突拍子のないことを言われて、僅かに頭の回転が鈍った。

しかし、それほど本が好きなのだろう、返事をしたことでエースの表情が見るからに明るくなる。

「若林一弥の新作は読んだか?」

「いや、まだだ。今は綾瀬幸造の三日月も杯となりてを読んでいるところだ」

「三日月……ああ、あれか、貧富の差のある……」

「……難しい話し始めやがった……。なあミラ、なんでエースはあの格好なんだよ」

俺がエースと文学の話で盛り上がり始めた頃、丁度良くミラが戻ってきて、ダンがエースの原因について訊いていた。

「あれは昨日の罰よ。ちゃんとした用事もないのに仕事しないで帰ったんだもの、しかも昨日のが初めてってわけじゃないから」

エースと同じ制服のミラは盆を小脇に抱えお手上げといった様子で手を上げ、その様子にダンが納得する。

結局その日はエースと好きな作家の話だけをして店を出た。





あ、と隣を歩いていたダンが声を上げた。

また店へ行く途中、何事かと本から顔を上げれば、幼馴染は酷く慌てた様子で今歩いてきた道を全力でひき返し出す。

「ダン!」

足を止めて慌てて振り返ると、ダンは走りながら俺先生に呼ばれてたからわりいけど今日無理!と言って早々と俺の視界から消えた。

広くも狭くもない道に俺が一人残される。

「……行くか」

ぽつりと呟いて、少し先に見える赤い瓦屋根に向かって歩き出した。

と、後ろからここ最近で聞き慣れた声がかけられる。

「シュン!今からお店に?それと、今ダンと擦れ違ったんだけど、一体どうしたの?」

軽い足音を立てて俺の隣に顔を出したミラの手には大きな紙袋が二つ抱えられていた。

それを無言で取り上げて、聞こえてきた反論の声を聞き流し先程のことを話す。

「あら、じゃあ今日はダンはいないのね」

店の前に着くとミラが扉を開け、その後ろから店内に入り、紙袋を返して適当な場所に腰を下ろした。

時間潰しに再び本を開いて読んでいれば、店の奥からミラの呆れた声が聞こえる。

「まったくもう、またなの?……ちょっとシュン、悪いんだけど書庫からエースを引っ張り出してきてくれない?」

店と店員用の部屋を繋ぐ扉から橙が覗いたと思うと、一瞬だけ店内の明かりを反射した何かが投げられた。

それを受け取って指を開けば、僅かに錆びた鍵が納まっている。

「わかった」

書庫には過去に何度かエースに連れて行ってもらったことがあったため、短く返事をして腰を上げた。

そのままさっき入ってきた扉を潜り、店の裏手に回って土地が一段下がっている場所にある年季の入った扉の鍵穴に鍵を差し込み、鍵を戻して中に入る。

裸の豆電球が転々と連なった天井には蜘蛛の巣が張っていた。



「エース」

「……なんだよ」

呼びかけに答えてきた声は意外にも頭上から聞こえてきて、上を見上げれば、また何かやらかしたのか女性用の制服を着たエースが本を片手に本棚の上で足を組んで座っている。

それがあまりに様になっていて思わず見上げたままになっていると、それが気に障ったのか片眉を跳ねさせたエースは大きく舌打ちしてすとん、と床に降り立った。

着地直前でふわりと舞ったエプロンと袖と袴が、なんだか幻想的な雰囲気を漂わせて、しゃんと立ち上がったエースを飾り、彼が文学の中から現れた少女のように感じる。

「はあ、どうせミラに俺を連れ戻して来いとか言われたんだろ?」

はっとしてそれに頷けば彼は面倒臭そうにした後、頭の後ろで腕を組んで扉に向かって歩き出した。

「……そうだ、シュン、これお前にくれてやるから感謝しな」

思い出したように俺を振り返り、懐の合わせ目から小冊子を抜いて渡してきたエースはそんじゃあ仕事に戻るか、と言って足早に書庫から出で行く。

小冊子を表に返して、表紙を明かりに晒せば、無花果と書いてあった。

どこかで聞いたような、と思いながら一枚目を開いて思い出す。

ああ、これは。

「……猥褻物」

どうしても耐え切れなかった溜め息が重く口から出て行き、あきらかに読んだ跡のあるこの本を一体どうしようかと眉を寄せた。

本がたくさんあると言っても、さすがにここに置いていくのは気が引けて、仕方なく懐にそれを仕舞いこむ。

無花果とは、売春婦や花魁の話を主とした性描写のある作品を書く作家の代表作の一つだ。

若者の性欲処理のための本としてはかなりの冊数が刷られているのだとか。

なぜこんな物をエースが所持していたかが謎だが、それ以上によりにもよってなぜこれを俺に渡したのかという方がもっと謎である。

再び溜め息を吐いて書庫の電気を落とした。

一気に重くなった体で地上に戻れば、出たすぐ隣でエースがくつくつと笑っている。

「まだ戻っていなかったのか」

「お前がどんな顔するか見てみたかったからよ!今すっげえ嫌そうな顔してるぜ」

おもしれえ笑える、と言ったエースに小冊子を押し付け返し、片手首を掴んで歩き出せば猛抗議を受けた。

「っ!てっめ、放せよ!つーかこの本読んだのか?おいこら何か答えやがれ!」

「ふん、女の格好をしていても違和感のないお前の姿の方が、俺にはおもしろいがな」

鼻で笑うようにして言ってやれば後ろが急に大人しくなる。

いつもならここでも反論が来るはずなのだが、何か変だと思うと同時にエースの足取りが停止した。

「おい、どうし……エース……?」

そんなに強くは掴んでいなかった手が抜けて、かろうじて指先と指先が引っかかり、止まる。

振り返れば、顔を赤くし頬を濡らした灰色の瞳が戸惑うように揺れていた。

その様子に息を呑むとエースが数歩後退り、指が離れる。

しばし重い沈黙の中でお互いを見合って、先に顔を逸らした彼は俯き、駆け出した。

とん、とその場に小冊子が転がり、伸ばした指先は袖を掠っただけで足は根が生えたように固く動かない。

店の敷地を抜けて遠くなっていく後姿が消えるまで、ただただ見つめるしかなかった。

やっと体が動くようになり、転げたままの小冊子を手に取ると中から何かがひらりと舞い落ち、それを拾い上げれば、いつか一度だけ見たことのある黒鉛の走り書きが短く綴られている。

好きだ。

たったそれだけの、宛て名も送り主の名もないその紙の向こうになぜかエースの表情を見た。

悲しそうに、恥ずかしそうに、困ったように、自分を嘲笑したように、切なく笑んだ見たことのないはずのその顔が脳裏を離れない。

「……好き、か」

黄昏時の風を身に受けながら目を伏せて呟いた言葉と、今の心情が掻っ攫われていったような気がした。





魔物に喰われた
大正浪漫なんて存在しなかったのだ



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